街の片隅に古くからある大きな屋敷。
そこに、一人の男が住んでいる。
彼は日中窓を閉め切り、白い装束に身を包んでいた。
顔には服と同じく、白い仮面をつけている。
彼は医者だった。
街の中でも彼が医者だと知るものは少なかったが、彼の元に行けばどんな病もたちまちに治るのだそうだ。
彼の素性は謎に包まれていた。
どこから来たのか。
家族はいるのか。
年齢は。
——そして、仮面の下の素顔は。
彼にはある噂があった。
彼に治療をしてもらった者は皆、生気に満ち溢れるのだという。
若々しく美しく、かつてはその効果を目当てに治療を受けようとする者も居たのだとか。
だが、邪な気持ちで治療を受けたものは皆、死んでしまったそうだ。
全身の皮膚が赤く爛れて膨れあがり、それはそれは、恐ろしい姿になったのだと。
そんな噂があってか、今では誰も屋敷には近づかなくなっていた。
それは小さな頃に、曽祖父が教えてくれた話だった。
ここは街の真ん中にある、大きな新聞社のロビーだ。
僕はソファに浅く腰掛け、暇を潰していた。
目の前の紳士が読んでいる新聞の片隅に、大きな屋敷の売り情報が載っていたので、ちょうど先ほどの古い噂話を思い出していたのだった。
テーブルに置かれた、冷めたコーヒーに口を付ける。
僕はフリーの記者をやっている。
ご近所の噂やら、新しいお店やらの取材をしては、記事にして持ち込む事で日銭を稼いでいた。
正直、生活費のアテにはならないので祖父の仕事の世話になっているのだが、いつの日か出世して恩返しをしようと思っているのだ。
今回の記事は自信作だった。僕の得意ジャンルはなんと言っても——
「おい、またお前か! 聞こえてるか、そこのお前だ!」
突然、背後から怒声が響く。驚きに、考え事をしていた頭が一気に現実に引き戻される。
「は、はい! なんでしょうか!?」
怒声の主は、新聞社の編集長だった。僕の持ち込み記事を受け取ってくれたのだ。
彼は続けた。今日はすこぶる機嫌が悪そうだ。
「なんでしょうか、じゃないんだよ。いつもいつもしょうもない記事を持ち込まれてもこっちも困るんだ。うちは歴史の長い新聞社だ。例え紙面の片隅だろうと、こんな出来の悪い持ち込み記事を載せる訳にはいかないんだよ」
「出来の悪いって……。よく見てくれましたか?」
「馬鹿もんが! よく見るもなにも、『人面蟹の秘密!地下に隠された埋蔵金と死霊の怨念!』なんてタイトルだけでボツなんだよ、しかもこの『ギャ——ッ』と書かれた子どもの顔の、気味の悪い挿絵はなんだ! ありもしない怪物の記事なんぞ、ゴシップ誌にでも持ち込め! 尤も、あっちでも取り合ってはもらえないだろうがな!」
「いや、人面蟹は居るんですよ。現に四丁目の仕立て屋のご婦人が——」
ここで引いてはなるものかと食い下がったが、次の瞬間、顔面に思いっきり記事を叩きつけられた。
顔は見えなかったが、編集長の声がロビーに響き渡る。
「もう! 二度と! 来るな!」
「はぁー。またダメか」
僕は大きなため息をついて、地面に散らばった人面蟹の記事を集めた。
周りの人の視線が刺さる気がする。
「この挿絵も頑張ったんだけどなぁ」
握り潰されて、皺になってしまった記事を伸ばして目を落とした。我ながらよく出来たものだと思ったのだが。
そう、僕の得意ジャンルは、怪物・幽鬼・魔法に呪い、所謂オカルトといわれるものだ。
曽祖父がその手の噂話が好きで、小さい頃に色んな話を良く聞かせてくれたお陰で、すっかり僕の思想は染められてしまった。
今までの記事はこうだ。
『生き壺の呪い! ”お前も壺男にしてやろうか”』
『究極の進化! 爬虫類人間の十大秘密!』
『賢者の大予言! 〜朱き花より出づる腐敗神〜』
我ながらなかなか良いセンスだと思う。
名は体を表すの通り、見出しは記事の命なのだ。
そして満を持しての最新作が『人面蟹の秘密! 地下に隠された埋蔵金と死霊の怨念!』だったのだが。
残念ながら今まで、これらの記事を取りあってくれた新聞社や雑誌社はない。
ゼロだ。
この街にはもののわかる連中がいないのだ。
まだそこらの夫婦の不貞の話だとか、町長の奥方の新しい間男の事だとか、狼に羊が何頭やられただとか、隣町の奥さんがパイ屋を始めたとか、そんな記事の方が喜ばれた。
「僕はそんなくだらない記事を書きたいんじゃないんだよなぁ」
近くの公園にふらふらと立ち寄り、ベンチに腰を下ろして手足を投げ出す。
みんなが知りたがっているような、あっと驚く怪物や、怪奇現象の記事で一旗上げたいと、ゆくゆくは怪奇専門の雑誌でも出せないものかと、そう思っていた。
ふと、今朝思いを巡らせていた街のお屋敷が頭に浮かぶ。
——そうだ。いっその事、噂の男を取材してみようか?
街では話題に出すことも半ばご法度のようになっているが、皆あの屋敷に住んでいる人物の事は気になっているだろう。
それに、陽が落ちた頃、ひっそりと人の出入りがあるのだと、最近密かに噂されていた。
記者はフットワークが命だ。
足で取材した、生きた情報こそが読者の胸を打つ筈だ。
そうとあってはこうしちゃいられない。
よし、次の記事はこれで決まりだ!
『屋敷に住まう白面の怪人、君の名は?』
次こそは絶対に売れる。確信があった。
手帳にアイデアを書き殴り、僕はその足で屋敷へと向かった。
◆◇◆◇
「間近で見るとなかなか迫力があるなぁ」
街の外れにある屋敷は森の影になっていることもあり、昼間でも薄暗く、ひんやりとしていた。
見上げるとなかなかの大きさだ。一等地にあれば豪邸の部類だろう。
だが、外壁にはつる性の植物が蔓延り、数世代前のトゲトゲとしたデザインが物々しさを醸し出している。
自分のような怪奇趣味の人間にとってはかなり魅力的なお屋敷なのだが、一般受けはしないだろう。なにより、手入れが大変そうだ。
そんな余計な事を考えつつ、ササっと手帳の余白に屋敷のスケッチを描く。
さぁ準備は整った。
すぅ、と一呼吸入れて、呼び鈴を鳴らしてみる。
「…………」
しばらく待ってみたが、反応はない。
気を取り直して、もう一度鳴らしてみた。
「…………」
これは嫌な予感がする。
もしかすると、無駄足だったか。
不在なのかもしれないし、そもそもが突然の訪問だ。居留守を使われている可能性も高かった。
「うーん。収穫なし、かぁ」
ため息をついて帰ろうとした、その時だった。
がちゃりと、鍵の音がした。
はっと、そちらを見る。
鉄柵と石畳の向こう、屋敷の扉が半分ほど開かれるのが見えた。
屋敷の主人だろうか。
扉に遮られて姿は見えなかったが、男の声が聞こえた。
「——おや、客人とは珍しい。ご用があるなら、こちらへどうぞ」
それは何とも、低く、ざらついた声だった。
声の主は若い、というわけではなさそうだが、何世代も屋敷に住んでいるような老人ということもなさそうだ。尤も、曽祖父から幼い頃に聞いた話のお屋敷である。恐らく、何代目かの主人なのだろう。
その口調はどこか芝居がかっており、大仰で華美な印象を与えた。
「は、はい!」
良かった。これは大きなチャンスかもしれない。大声で返答し、まだ帰っていないことをアピールする。この機会をぜひともものにしなければ。
僕は錠もついていない、鉄柵の門を開いた。
門に絡みついた植物、茨のつるか何かを手や足で払い除けて進む。
石畳を通り、屋敷の玄関へと辿り着く。
扉は既に閉じていたが、鍵は空いているようだ。
そのままドアノブに手をかけ、ずっしりと重たい扉を開く。
ギィィ、と、木材の軋む音がした。
「お邪魔します」と小さく呟き、屋敷に足を踏み入れる。
中はひんやりとして、古い木材と、病院のような独特の匂いがツンと鼻をついた。
医師とは聞いていたが、こういった匂いがするという事は、やはりそうなのだろうか。
主の姿は無い。
この場所で待っていた方が良いのか、廊下を進むべきか。
御免ください、と小さな声で呼びかけながら、恐る恐る歩みを進めてみた。
「して、何か御用ですか?」
入口の方、背中越しに先ほどの男の声がした。
身体がびくりと跳ねる。いつの間に背後に——と驚き、振り返る。
主人はがちゃりと、扉の鍵を閉めた。
「あぁ、驚かせてしまいましたか。いえ、実はね、そこに通路があるんですよ」
彼は笑みを含んだ声音で、玄関のすぐ横を指し示した。
前しか見ておらず、薄暗かったので全く気づかなかった。そういう事かと合点が行き、驚いた自分に恥ずかしくなる。
背後から突然現れたので、幽霊か何かかと思ってしまったのだ。
「皆、驚かれますよ。実は、私も反応を見るのが楽しみでして。——で、貴方はどちら様でしょうか」
そうか、自己紹介すらまだだった。目当ての主人を前にして不作法にも程がある。
「す、すみません。申し遅れましたが、僕はこの町で記者をしている者です。町の歴史について記事を書いておりまして、こちらはかなり古いお屋敷だと聞いたもので、取材の申し込みという事でお伺いしました。所属はこちらに」
緊張もあってか一息に捲し立て、素性を記したメモを突き出した。所属のくだりはハッタリなのだが、一個人が訪問するよりは箔がつくだろうかと考えたのだ。
しかし、主人はそれを一瞥し、受け取る事なく話を進めた。
「あぁ、そのようなご用件でしたか。ですが生憎、私は街の人間とはあまり交流を持たないのです。歴史といっても、外の事は殆ど存じ上げないのですよ」
「そう、ですか」
手にはまだメモが挟まれ、所在なさげにぶらりと宙に突き出されていた。
「ここに来た理由は、それだけですか?」
目の前の男が問いかけた。
口調の柔らかさとは裏腹に、仮面の奥の眼光が鋭くなった気がする。
ここまで来たのに追い返されては堪らない。意を決して、単刀直入に尋ねた。
「いえ、もし良ければ、是非あなたについてお聞きしたいことがあるのですが」
「——そうでしたか。それでは、こちらへどうぞ」
意外だったが、先程の申し出はすんなりと受け入れられ、広めの部屋へと通された。
正直、噂ではこの大きな屋敷に一人で長く住んでいると聞いていたため、殆どの部屋は使われず、埃まみれで朽ちているのだろうと思ったのだ。
しかし、どの部屋も綺麗に設えられていた。
調度品はこの主人の趣味なのだろうか。
殆どが真紅を基調としており、薔薇の意匠がそこかしこに見てとれる。
同じようによく見かける三叉の紋様は、家系の紋章か何かだろうか。
使われていない場所にはうっすらと埃が積もっているものの、定期的に手入れがされているようだった。
部屋の中央に置かれている、天鵞絨のソファへ座るように促される。
向かいにはやや低めの小さなテーブルと、ソファと直角になる位置には一人掛けのゆったりとした、背もたれの付いた椅子が置かれていた。
ソファに腰掛けると、珈琲はお好きですか?と主人が尋ねた。
そこで僕は、ふと迂闊だっただろうかと思った。
今さらなのだが、彼は不穏な噂のある屋敷の主人なのだ。
何か毒を盛られるだとか、閉じ込められるだとかの可能性を全く考慮していない。というか、この屋敷で何か飲食をするという考え自体が全くなかった。
しかし、断るのも失礼だろうと思い、素直に頂くことにした。
恐らく、というかかなり希望的観測なのだが、思ったほど話が通じない人でも、怖い人でもなさそうだ。
「どうぞ、お口に合うと良いのですが」
目の前にコーヒーが差し出され、湯気と共に芳香が鼻を掠める。
この匂いは、薔薇か何かだろうか。
小さくお礼を言い、カップに口を付けて一口、飲み下した。
——に、苦い。そしてものすごく濃い。
自分の知っているコーヒーの三倍ぐらいの濃さはある。
だが、喉を通った後には先程の薔薇のような香りがふわりと残された。
苦いのは苦いし、例えは悪いが泥のように濃いのだが、初めの印象ほど不味くはない。
この部屋のように、どこか華やかでさえある。なんだか不思議な味だった。
主人は目の前の椅子に座り、こちらを見つめている。
柔和な雰囲気を醸し出してはいるが、仮面をつけているためにどんな表情をしているのかは分からない。
とりあえず、頂いたものの感想を伝えてみることにした。
「ありがとうございます。これ、美味しいですね」
主人はくす、と笑って応えた。
「それは良かった。豆は頂き物なのですが、風味はこちらで付けているのですよ」
「確かに、薔薇のような良い匂いがします」
主人はそれ以上は何も言わず、こくりと頷いた。
物腰は柔らかく、先程からの受け応えを見るに、こちらへの不快感や嫌悪感も無さそうだ。
とりあえず、話を始めてみよう、と僕は思った。
「あの、早速なのですが、取材を始めてもよろしいでしょうか?」
「ええ、貴方が良ければいつでもどうぞ」
「——それでは、よろしくお願いします。答えにくいものは全て拒否して頂いて結構です。止めたい場合も、いつでも仰ってください。お答え頂いた内容は、全て手帳に記してもよろしいでしょうか」
業務的ではあるが、取材に当たって相手への意思確認は大切だ。
ひと通り聞き終えると、主人がこくりと頷いた。
「ありがとうございます。では、まず初めに名前をお聞かせください」
「ヴァレー、と申します。V.a.r.r.é それ以上は、ありません」
「V.a.r.r.é で、ヴァレー、さん、ですね。では次に、差し支えなければ、年はおいくつでしょうか」
「二百七十——」
「に、にひゃくななじゅう?!」
素っ頓狂な数字に、大きな声を出して話の腰を折ってしまった。記者の対応としてこれは良くない。
だが、彼は仮面の奥の目を丸くして笑った。
「ああ、この屋敷の年数がそれぐらいだったかと思いまして。私自身は、いつからここに居るか覚えていませんね。ウフフ、貴方のお好きな数字で構いませんよ」
これは、はぐらかされたという事だろうか。
「そ、そうでしたか。うーん、おいくつか、声だけではなかなか難しいですね。あ、その仮面には、どのような意味があるのですか?」
「これですか? これは古い習慣です。私はかつて、従軍医師だったのですよ」
しまった。行き当たりばったりで変なタイミングで仮面に話題を振ってしまった。
年齢の話を聞いて、顔が見えなきゃ分からないなと思ってつい口が滑ってしまった。
わざわざ顔を隠しているのには、何か理由があるのかもしれない。
話し始めてすぐの質問にしては失礼ではなかっただろうか。
余計な事を考えていると、何かを察したのか彼は話を続けた。
「客人の前で面を取るような無礼はいたしませんよ。それとも、この面の下に興味がおありですか」
どうやら、気を悪くしてはいないようだ。
いや、興味があるかないかと言われればすごくある。白面で知られている男の面の下など、まさに読者が知りたい情報そのものだろう。だが、これは直球で伝えてしまっても良いのだろうか。
考えあぐねていると、また先に言葉を紡がれた。
「まぁ、お会いしたばかりですからね。今日はまだお話の続きもあるでしょうし、またの機会といたしましょう。——尤も、次があれば、ですが」
彼は含みを持たせて言う。
取材をしているのはこちらのはずなのに、主導権がどんどん握られてしまっている気がした。その口ぶりだと、もしかすると、もう二度と会ってはくれないつもりなのかもしれない。
こちらも、このままでは終われなかった。
「あの。ヴァレーさんは、ご自身にまつわる噂をご存知ですか?」
「どのような噂、でしょうか」
彼の声色から、笑みが消えた。僕はひと思いに質問を続ける。
「えっと、このお屋敷の主人はどんな病も治せて、治った人は生命力に満ち溢れて若返るのですが、その一方で治療によって恐ろしい姿になって死んでしまう人もいるとかなんとか。あ、いえ、全て古い噂なんですけどね」
一気に核心を突きすぎただろうか。
怒らせやしないかと、語尾に愛想笑いを貼り付ける。
彼は、椅子の背もたれにゆっくりと体を預けるような姿勢をしていたが、少し体勢を戻し、こちらを見据えて、こう言葉を紡いだ。
「——その問いにお答えするには、長くなりますが、少し昔話を聞いていただきましょうか。
私の医療は、血の施しです。私はかつて医師であり、血の君主に身を捧げた、王朝の使いでした。
我が君主、モーグ様は愛と、意志と、力に溢れ、その貴い血を分け与えて苦しみに満ちた壊れた世界から、私を救い出してくださいました。
ですがその世界では、モーグ様の力を以ってしても新しい王朝を興す事は能わず、我が君主は夢破れてしまったのです。
最愛の御方の最期を、愚かにも私は知ることはなかったのですがね」
——彼はそう言うと、酷く悲しそうに目を伏せた。
「その後、壊れきった世界は混沌の炎によって焼き溶かされ、全ての生と死は混ざり合い、原初の生命へと戻ったのです。私にとっても、モーグ様の居なくなった世界などきっと、何の色も持たない意味のないものだったでしょう。あの世界の終わりは、それで良かったのかもしれません。
そうして永い時が経ち、何故かまた、私はこの世に生を受けることができたのです。
——世迷言を、と思うでしょう。私も、初めはそう思ったのですよ。先ほどのお話は全て、物心ついた時から見る夢だったのですが……。それは次第に現実味を増し、いつしか私の前世を追体験出来るほどに鮮明になっていったのです。
なぜ私に、このような記憶が残されているのか。それは全く分かりません。しかし、この記憶を裏付けるかのように、私にはあることが出来るのです。
——それが最初に申しました、血の施しなのです」
彼は言葉を区切ると、僕に手を差し出した。
「私の指をご覧なさい。青ざめて、疼いているでしょう。それに、私の身体にはかつての血の君主の印が、痣となって刻まれているのですよ」
彼はこちらに指を見せた後、服を掴んでたくし上げるような仕草をした。
その動きに一瞬、どきりとしてしまう。
「流石に、此処でお見せすることはできませんがね」
彼はそういうと何故かおかしそうに、くすくすと笑った。
「この生まれ変わりの世界で血の施しを行う事によって、モーグ様の意志を継ぐことができているのだと、私はそう信じているのです。血の施しの医療は、与えられたものに愛と、力と、大いなる意志を授けてくれます。
それを受けたものは皆、生命力に溢れ、いつか開かれる王朝とモーグ様への忠誠を、密かに、そして永遠に誓うことになるのですよ。……しかし、生命力に溢れるという事実のみが、愚か者によって独り歩きしてしまった事がありましてね。
嘆かわしい事ですが、王朝への忠誠も誓わないままに、血の施しを受けようとする者が増えたのです。
そういった卑しい者たちは、血の施しを受けた後、きっと貴い血の刺激が強すぎたのでしょうね。皆、惨めに死んでゆきました」
彼は話し合えると、物思いに耽るように口を閉じた。
なんだか、とんでもない話になってきたぞ、と僕は思った。
そして、彼の言葉を一言一句聞き漏らすまいと手帳に一心不乱にペンを走らせた。
初めは、オカルト好きの僕が聞いても妄想の産物なのだろうと思っていたのだが、彼の口振りや話す内容、ストーリー性にがっちりと心を掴まれた。
リアルな話の数々や、見せてもらった指や血の医療の話に、もしかすると彼は本当に古代の王朝の使いの生まれ変わりなのかもしれない、と思いさえしていた。
人が死ぬだとかやや物騒なくだりはあるものの、どれもこれも非常に興味深い。
——これは是非、もっと話を聞かなくては。
時間も忘れて話し込む。
部屋の中が薄暗くなってきたので、洋燈が幾つか灯された。
外はもう、とっぷりと日が暮れていた。
彼は、その後もこちらが尋ねたことにも丁寧に、そして饒舌に話を続けてくれた。
あのコーヒーのお代わりも何度かさせてもらった。
初めはその苦さに驚いたが、慣れると癖になる味だ。ひと口ごとに薔薇の芳香が鼻腔と肺の奥を満たし、身体中が充足感に包まれた。
僕の手帳の白紙部分は、既に半分以上が埋まっている。
会話の内容を書き留めるのに夢中になりすぎた事もあって、ふと、彼とのやりとりに間があいた。
彼は僕が会話を書き留める手を、薄笑みを浮かべた仮面越しにじっと見つめていた。
やや首を傾げ、手を顎の下に添えて考え込むような仕草をしている。
暫くして、彼が口を開いた。
——どうも貴方とお話ししていると、初めて会ったような気がしませんね。
「え?」
ペンを走らせていた手が、ぴたりと止まる。
徐に、彼は身体をソファに寄せて僕の手を取った。
流れるような動きに、目を奪われる。
そのままスムーズな手つきで、僕のつけていた白い手袋が、するりと外されたのだ。
わ、と自分の口から声が漏れる。
この一瞬で手袋を外されるなんて考えてもみなかった。
それに、その意図も分からない。
顕になった手を、僕の指を、彼がつぅと撫ぜる。
あぁ、やっぱり、と彼は誰に聞かせるでもなく嬉しそうに呟いた。
突然の、身体的な接触に面くらう。
不快、というわけでは無かったのだが、生理的なもので、背筋がぶわっと粟立った。
これは、彼にとってはごく普通のコミュニケーションなのだろうか。
答えも出せないのに自分に問いかけた。
そうだそうだ、相手は医者なのだし、人に触れて調子を見るなんてきっと日常のことなのだろう。自分とはそのあたりの感覚や距離感が異なるのだ、と。
弁解するわけではないが、どうにも彼の話し方や仕草の一つ一つ、この部屋の調度品、そして薔薇の匂い、コーヒーの匂い、全てが酷く甘く美しく、なんだか危ないことが始まりそうな気持ちにさせられるのがいけない。
そちらの嗜好は無いのだが、物書きのサガだろうか、こういうシチュエーションは「あり」なのだ。
しかし冷静に考えると、恐らくは年上の男性に手を撫ぜられてそんな事を考えるなんて、まぁ流石に雰囲気に呑まれすぎだろうと、ふつふつと込み上げる考えを振り払おうとした。
彼はうっとりと僕の手を撫でている。
——まだ、終わらないのだろうか。
正直あまりの恥ずかしさに、居ても立っても居られない。今、自分の顔は耳まで真っ赤なのだろう。
心臓がばくばくと鳴る。目の前の相手に聞こえてやしないだろうか、と気にすれば気にするほど、その音が大きくなるような気がした。
そう意識するような行為でもない筈なのに、目の前の光景を直視できない。
手もじっとりと、汗ばんできた気がする。
顔を背けがちに、恐る恐る声をかけてみた。
「あの——ヴァレー、さん……? 一体、何を?」
緊張していたためか、第一声が上擦る。
情けない。しまった、と思った。
飲み物しか口にしていないはずなのに、もう喉がカラカラだ。
主人はその声に顔を上げると、ぱっと手を離して上体を起こした。
「あぁ、失礼いたしました。少し、昔の事を思い出してしまっていたのですよ」
顔の横に広げられた両の手が、ひらりと揺れる。
その声は、どこか弾んでいた。
「ウフフフッ。それで——どうですか。貴方ももう一度、貴い血を宿してみるつもりはありませんか?」
彼の声が頭に響く。
言葉を返すことも忘れて、彼の顔を見つめた。
先ほどの話の血の施し、のことだろうか。
それはとてつもなく蠱惑的な誘いに聞こえた。
初めは絶対に危ないことだと思っていたのだが、彼の話を聞いているとそう危険な行為でもないような気がしてきていた。
——いや、そうだったか?受け入れられない人間は、死ぬのでは無かっただろうか。
それに、もう一度、とはどういう意味だろう。
纏まらない頭でぐるぐると考えを巡らせていく。
琥珀色の瞳がこちらをじっと、見つめていた。
——あぁ、なんて綺麗な色だろうか。
こんなに話した筈なのに、僕はまだ彼のことを何も知っていない。
もしかすると途中から、頭の片隅ではそうなる事を望んでいたのか?
今日はもう、この家から帰れないような気がしていた。
今は、仮面の上からでもその表情が分かる気がする。
彼はにっこりと微笑み、嬉しそうに僕にこう言ったのだった。
「怖がる事はありませんよ。——ねぇ、私の貴方」
その後、お屋敷をひっそりと訪れる影は、またひとつ増えたのだそうです。
彼らは思い思いの持参品を持って、夜な夜な”血の施し”を受けに行くのだとか。
それは一体、どのようなものなのでしょうね。