再訪と薔薇の香り

 

「——はぁ……」

これで一体、何度目だろうか。
僕はぼんやりと、先日のことを思い出していた。

あの屋敷で起きた甘美な出来事。
あれから僕は、彼の事しか考えられなくなっていた。

彼とは、屋敷の主、”白面のヴァレー”
もちろん呼び捨てにはできないので、ヴァレーさんと呼んでいるのだが。
あの出来事とは、彼の言う”血の施し”。
それは、王朝への忠誠を誓う儀式のことだった。

あの日起きた出来事とは、こうだ。

血の施しを受けてみないかと誘われた僕は、取材をしていた広間から、別の小部屋へ連れていかれた。
小部屋は処置室か何かのようだった。
清潔に設えられた簡素なベッドが一つと、木製のワゴン、水盆、リネン類、刃物にアルコールランプ、包帯なども見て取れた。
部屋に入った瞬間、医薬品か何かの匂いと、薔薇の香りが鼻をつく。

「——どうぞ」

部屋の中の、小さな椅子に座るように促される。
目の前の椅子に、彼も腰掛けた。
そうして”儀式”が始まった。

彼は手袋を外し、手を清めると、自らの指を消毒をした針でほんの少し、傷つける。
手袋の下から現れた彼の素肌は、意外な事に(と言っては失礼かもしれないが)やや褐色で、その白い装束との対比が何とも印象的だった。

彼の指先からぷつりと小さな血の雫が滲み出ると、血の出ていない方の手で僕の手を取り、そっと血の滲む手を重ねて、上からもうひとつの手で包み込む。
徐に「こちらを見てください」と声をかけられる。

そうして、やや気恥ずかしかったのだが、僕とヴァレーさんはじっと、見つめ合った。

琥珀色なのか、蜂蜜色なのか、はたまたそれは金色なのか、蝋燭の炎をうつして揺らめく瞳の色に、僕は目を奪われる。
更には、その仮面の色に匿された彼の睫毛は、白銀のように白く長く、美しかった。
金の瞳に、白銀の睫毛。
仮面から僅かに見える素顔の一部でさえ、こんなにも芸術的で美しいのだ。
あぁ、彼の素顔は一体どんな風なのだろうか。

ぼうと考えを巡らせていると、彼の目がふわりと手元へ落とされた。

そうして——彼はのちに「王朝への祈りの言葉」なのだと言ったが——古い言葉で、なにか呪文のようなものを口にした。
すると不思議な事に、包み込まれた手の周りが、赤く光り輝いたように見えたのだ。
それは一瞬のことだったが、僕の視界は真っ赤に染まったような気がして——。

次の瞬間、また元のように戻ったのだった。

ヴァレーさんは「もう結構ですよ、ありがとうございました」と言って目を細めると、横の水盆で手を清めるようにと勧めてくれた。

彼は消毒綿で自らの手に付いた血の処理をすると、手早く手袋を身に付けた。
僕が手を洗い終わると、綺麗なガーゼの布巾が手渡される。
水気を取った肌に、最後の仕上げにと、薔薇の香りのアルコール水が吹きかけられた。

これが、先日お屋敷を訪れた時に起きた出来事だった。
——前世ではそれは、”爪から血を流し込む儀式”だったのだという。
彼はその後も上機嫌で、また色々と話を聞かせてくれたのだ。
取材の時にも思っていたが、彼はああ見えて存外、話好きなのかもしれない。

「——現代ではそんなことはしませんよ。感染症にでもなったら大変でしょう。それと、何でも治るというのは単なるデマです。私の血の施しには、何の効果もありませんよ。少なくとも、私が不老である事と、邪な者が呪われて死んでしまう以外は」

「不老?! え、ヴァレーさん、歳取らないんですか?!」

「ええ。まぁ、王朝の一員となって頂いた貴方には、もう隠す事でもありませんね。初めは気付きませんでしたが、いつのまにか、この見た目から歳を取らなくなってしまったようなのです。恐らくは、前世で死んだ時の姿のまま、この世界に囚われてしまっているのでしょう。かれこれ数世紀はこのままの姿ですよ。過去には魔女裁判だの、吸血鬼だのと面倒ごとに巻き込まれそうになった事も多々ありました。それからはずっと、人目につかないようにこうして暮らしているのです。時代が進むにつれて人は余計な詮索をしなくなり、こうしたきな臭い場所に進んで近づく者もいなくなりましたから、好都合ではあるのですが。尤も、歳は取りませんが不死かどうかは試したことがないので分かりません」

彼はそう言うと、やや自嘲気味に笑った。

「私が歳を取らずに生き続けているのは、来るべき王朝の再来のため、王朝に忠誠を誓う者を増やすためなのですよ。私はずっと、そう信じています。あなたも共に、王朝に忠誠を誓ってくれるでしょうね」

そう言われて、僕は首を思いきり縦に振った。
何もないと彼は言っていたけれど、これが僕にとって特別な儀式であるということに変わりはない。血の施しを受けると体は高揚感に満ち、生命エネルギーに満たされて活力がみなぎってくるような、そんな心地がした。
まあ、彼が歳を取らないことと、呪い殺されている者がいる時点で”何もない”わけはないのだろうが。

——そうして、ここまでの回想をもう幾度繰り返しただろう。

数日も過ごせばもう限界、彼に会いたいと言う気持ちが日に日に募っていったのだ。
そして、また来ても良いと招待されたわけでも何でもないのだが——自然と足は、お屋敷へと向かっていた。

呼び鈴を鳴らしてみる。
今度はそう待つこともなく、ガチャリとドアの開く音がした。

「おや、貴方、またいらしたのですか?」

ヴァレーさんが、仮面の奥の目を丸くして驚いた。

「こんなにも早く再訪して頂けるとは、もう血が馴染んだという事なのでしょうね。王朝へ忠誠を誓うものが増えるのはよいことです。いつか我が主が復活した時に、貴方たちと共に馳せ参じたいものです」

「たち?」

「あぁ、いえ、お気になさらず」

彼は特に気にかける素振りもなく、そう言った。
お気になさらずと言われれば大人しく聞くしかないが、そうか、これは他にも「いる」んだなと思った。そして、そのすぐ後に他の人に会う事になろうとは。

お屋敷のベルが鳴る。
白面の彼は、ドアの方に目を向けると、おやという素振りをした。

「いつかそのうちとは思っていましたが随分と早かったですね」

そう言うと、少し困ったような笑いを浮かべる。

「このタイミングだと、彼でしょうか。彼はあまり他人に好意的ではないのですが——」

貴方はここで待っていてくださいと、僕はいつもの広間に待たされたのだった。
ヴァレーさんが、玄関へと向かう。
何やら話し声が聞こえた。
少しすると、ヴァレーさんが訪問者を連れて広間へとやって来たのだった。

——うっわ、すごい匂い
それが僕の第一印象だった。
彼からは、酷く甘く、強く重苦しい馨りがむんむんと漂っていた。
異様な香りに顔をしかめていると、訪問者の彼と僕の目が合った。
次の瞬間。

「ヴァ、ヴァレーさん!! こ、こいつは誰ですか?! また新しい『血の指』を増やしたんですか?!」

目の前の男が僕を指差して叫んだ。
ヴァレーさんの方は、特に表情も変えずに言う。

「ああ、そうですね。増やしたというか増えたといいますか……それにしてもいつも言っているでしょう。王朝に忠誠を誓う人間は厳選されるべきではあるものの、決してこれ以上増えないというものでは無いのですよと」

「それにしても、早すぎます! つい先日あの人形師の男が増えたばかりじゃありませんか!!」

「まあまあ、貴方からの贈り物にはいつも感謝していますよ、今日はまだ頂いていませんでしたね? さぁ、どうぞ上へいらっしゃい」

男は、香薬の瓶を幾つか携えていた。
漂う匂いから考えても、恐らく調香師なのだろう。
男はぶつくさと何かを言っていたようだが、ヴァレーさんに促されると途端に大人しくなって二階の小部屋へと向かっていった。

——あの人、神経質そうで、酷くイライラした様子だったな。
それにしても、正直なところ僕も驚いた。
なんとなく、先ほどのやりとりで気づいてはいたが、やはり他にもここを訪れる人がいるんだ。

広間で一人、待たされて半刻ほど経っただろうか。
僕はテーブルに置かれていたいつもの独特なコーヒーを嗜みつつ、記事のネタ手帳をパラパラとめくっていた。
この手帳には、面白いと思った新聞の切り抜きなんかも挟んでいる。
まあ、大抵は挟むだけですっかり忘れてしまうのだが。

「——あ」

ふと、ある記事に目が止まる。
それは、薔薇の品種改良の記事だった。

” 美しきモダンローズに、オールドローズの深い香りを
新品種、Varre ”

ヴァレーさんの名前の薔薇なんて素敵じゃないか、と思って切り抜きを置いていたのだ。

記事の内容自体はよく覚えていた。
先の品評会で新しい薔薇が作出され、その薔薇は天鵞絨のような深い紅で美しい剣弁高芯咲、モダンローズの花の美しさを極めていながら、元来モダンローズがなかなか兼ね備える事の出来なかった芳香——薔薇の香りの最であるダマスクローズのような、豊かな香りを現すことに成功したのだという。

薔薇の花に同じ名前が付くなんて、僕が今その名前に敏感になっているだけなのだろうが、ヴァレーさんにピッタリじゃないかと、嬉しくてそのうち見せようと挟んであったのだった。

しかし、今この記事を見て新たな事実に気がついた。
この記事に写っている男——すなわち薔薇の制作者は、さっきの男じゃあないか!!

驚いていると、ヴァレーさんと先ほどの男が戻ってきた。
男はすっかり毒気が抜かれて、とろんとした表情をしている。
ヴァレーさんはその横で上機嫌だった。
此度の香りも素晴らしいですね、と横の男に声をかけているようだった。
そして、こちらを振り返ると、隣の男に僕のことを紹介した。

「彼は、駆け出しの記者だそうですよ」

そして、僕にも声を掛けた。

「貴方、彼は調香師です。尤も、薔薇の品種改良の第一人者でもあるのですが」

「あ、それ、多分知ってます」

そう言って僕は先ほどまで目を落としていた記事をぴらりと持ち上げて彼らに向けた。

「おぉ、流石は記者のお方。情報が早いですね」

ヴァレーさんが目を丸くして言う。

「ここのコーヒーと、風味づけをするための幾つかの香料も、彼がいつも持参してくれているのですよ」

調香師の男はこちらをじろりと睨みつけると、まるで僕など見えていないかのようにヴァレーさんに話しかけた。

「先程お渡しした香薬を早く試してみてください! きっと——」

「わかりました。ありがとうございます。きっと、そうしますよ」

はいはい、とヴァレーさんは調香師の男をあしらった。

「——今日は先客がいるようなので日を改めます。次は朝から来るので誰も来られないようにしてくださいね」

彼は酷く恨みがましい目をこちらに向けて、僕に当て擦るようにそう言い放つと、そそくさとお屋敷を後にしたのだった。
ヴァレーさんは、僕に向き直るとこう言った。

「ありがとうございます。彼は嫉妬深くて、一度いらしたらなかなか手放してはくれないのですよ。用事も何もあったものではなくて」

ヴァレーさんは嘆息した。

「——まぁ、他の方とてそうなのですが。ただ、彼の場合は香りが次の日まで残ってしまいますからね、他の方もどうにも彼の姿がチラつくと嫌がってしまうのです」

そう言って、だが少し嬉しそうに笑った。
僕はその姿を見て、なぜかチクリと胸が痛んだ。
そりゃあ朝からあの人とずっと一緒に居て、話し込んでいれば匂いも移るだろうなぁと考える。
すると、こちらを見て何かを察したヴァレーさんはこう言った。

——貴方にはまだ、関係のない事ですけどね。

「それに貴方、初めて会った時には誤魔化していらっしゃいましたけどまだ未成年でしょう」

あ、バレていたのか。

「それに、所属先も何から何まで出まかせでしたね?」

「ご、ごめんなさい……」

「別に今更、気にはしていませんよ。しかし、未成年となると、こちらにいらしてもらうのにはやや配慮が必要ですね。しかし、まだ何も知らないとなると或いは……」

ヴァレーさんはやや考えるように言い、そして、こう訪ねてきたのだった。

「貴方、働き口はありますか?」

「まぁ、お爺ちゃんがエンヤさんの畑で働いているので僕もそこで手伝いをしていますが、基本的には暇ですね」

今度は暇だと言ってしまった。ついに、メッキが全部剥がれたのだろう。まぁ、全部バレてるみたいだし、もういいか。

「そうですか。もし貴方がよろしければ……こちらに小間使いとして来ていただけませんか? 昔は何名かいらしたのですが、ここ数年ほどは良い方が見つからなくて。ご訪問頂ける方に色々とお手伝いはしてもらうのですが、この広さでしょう。なかなか手が回らないのですよ。——それに、訪問者の日程の管理や記録でもして頂けたらとても助かります」

ヴァレーさんのところで働けるなんて、思っても見なかった。まだお賃金の話もしていないが、例えタダだろうと断
る理由は無い。

「え、本当ですか!? ぜひ来たいです!」

「ですが、いくつか決まり事を守っていただきたいのですが宜しいですか?」

神妙な声音で、彼が言う。
僕も、手帳とペンを取り出してはい勿論です、一言一句聞き逃しませんよ、という意思表示をする。

「——まず、こちらで起きた事はこの屋敷の外を出れば他言無用です。記事になさる事も一切許可は致しません。
そして、私が他の方とお会いしている時は、決してその扉を開けてはいけません。部屋のそばに近づいたり、聞き耳を立てたりしてもいけませんよ。
ご用があるときは、ベルで知らせますから。それ以外は、どこを使っていただいても結構です。本も、私の趣味ではないものなども過去にはたくさん頂きましたのでどうぞ、お好きにお読みになってください。して頂きたい事はあらかじめ書き置きをしますから、終わったら自由にして結構ですよ」

僕ははい、はいと手帳にメモを残していった。

——ここで起きた事は他言無用、か。

古いお伽噺でもよくある話だが、こうした言いつけを破るのはいい結果を招かない。
このお屋敷に召し抱えられるなんて、それだけでも十分にありがたいのだ。
僕の好奇心はきっちりと心の奥底に封印しておこうと、そう思った。