分析機関(前編)

 

部屋の中にアラームが鳴り響く。

はっと顔を上げる。もうこんな時間だ。業務が始まるまでは、あと約三十分程。対象者たちを迎え入れるための準備に取り掛からなければならない。

ヴァレーは立ち上がると、足早に作業用のワゴンへと向かった。消毒を済ませ、薬品のアンプルを手に取ると、それを手際良くシリンジに充填し、人数分の注射器を用意していく。その作業を行いながら、こう思っていた。

——名もなき者は無力だ。あの研究者もこうして悪意に翻弄され、握りつぶされてしまうのだろう。告発したとて、証拠も何もない。彼のために、何ができるわけでもなかった。未だにあの出来事に固執しているのは、いつしか顔も思い出せなくなっていた男に、今の境遇を重ね合わせているからなのだろうか。

ヴァレーは全ての用意を済ませると、未だ開かれたままのディスプレイへと向かい、キーを叩いた。そうしてまた何の成果もない、無意味な文字の羅列だけの検索画面を閉じたのだった。

 

青年は仕事部屋に着くと、始業前のわずかな時間を利用して発表の準備に取り掛かった。

「ここは少し分かりにくいな……図表でも入れようか。うわ、こっちも間違えてる」

独り言を呟きながら目の前の作業に集中しようとするが、どうにも気が散って仕方がない。原因は彼としても、よく分かっていた。

「……はぁ。先輩、大丈夫かな。いや、あれは大丈夫じゃないな」

頬杖をつきながら、ふと手を止める。
ここに赴任してから、既に一年以上が経過しようとしていた。
初めの数ヶ月は業務をこなす事に手一杯で、周りの様子を伺う暇もなかった。激務だという内情も、骨身に沁みて良く分かった。そこから更に半年が経ち、二人がかりでも尚、目が回るほどの忙しさだと思われた矢先に、新しい投薬治療の認可が下りた。件の先輩も、『これで少しは楽になるといいのですがね』と、その認可を喜んでいるように見えた。そうして仕事は楽になり、滞っていた事務作業や研究成果の報告、以前のように王都からの依頼である特殊な犯罪者たちの精神分析等にも時間を割けるようになっていった。

だが、その後からだろうか。青年の目に写るヴァレーは以前よりも精彩を欠くように見え始めた。呼びかけにも何処か上の空で、あの特徴的な睫毛に縁取られた穏やかな瞳も、白面の陰に昏く沈み込んでしまったかのようだ。

——典型的な、バーンアウトに近い状態なのかもしれない、と青年は思った。それはワーカーホリック、仕事中毒の者などにしばしば見られる情緒的な虚脱の症状。出会った頃には既に仕事漬けの様子だった上に、今までたった一人でこの地下医療刑務所の分析官を担当し続けてきた事を鑑みるに、つい最近、ようやく激務から解放された事で心身に消耗が起きているのかもしれないと。それに、人の体はどうにも複雑だ。どれだけ不条理な環境下に置かれ、意識の上では楽になる事を望んでいたとしても、いざ変化が訪れると多大な負荷が掛かってしまう。そうした様々な要因が彼を襲ったのだろうか。やはり、無理矢理にでも休暇を取ってもらう必要がありそうだ。

「……ん?」

青年はふと、自身の口元が軽く緩み、僅かに気持ちが高揚している事に気がついた。資料の準備もそっちのけで、考えることと言えば先輩の事ばかりだ。それにしても、今の考えで顔を綻ばせるだなんて。そんな馬鹿げた話はないだろうと、青年は自らを軽く諌めた。

だが、この部屋に来る前の、先ほど廊下で繰り広げられた会話が頭の中にリフレインする。

『リハのチェックをしてもらえませんか?』

青年が投げかけた言葉を受けて、目の前の男性の面の奥、白い睫毛に縁取られた形の良い目がスッと向けられたあの瞬間に。
——青年の心臓はどきりと跳ね上がり、後頭部がじりじりと痺れるような感覚に襲われた。
かつて抱いていた憧れは共に働く事で尊敬へと変わり、それと同時に青年の中では、先輩の役に立ちたい、認められたいという気持ちが日増しに強くなっていった。他にも職員は居るものの基本的には分析官同士、二人でやり取りをする機会ばかりだ。仕事にも慣れ、職務の大変さを知るにつれて、憧れの先輩の力になりたい、頼られたいという想いが彼の胸にうず高く募っていった。それは半ば、若さゆえの過信や傲慢でもあったのだろうか。自分こそが先輩の事を熟知している、最も良き理解者であるのだと、そう錯覚さえしてしまっていた。それを裏付けるかのように近頃、ヴァレーが他者と話しているところを見ると、どうにも強く意識してしまうのだった。

つい先日の事。ヴァレーが、かつての指導医である分析機関の所長と話しているところを目撃した。その時の彼は、部下である青年には決して見せる事のない、ややぞんざいに相手をあしらうかのような、ある種の親密でくだけた振る舞いを見せていた。そうした光景を目にするとなぜか、青年は面白くない気持ちになってしまう。自らに向けられる眼差しはいつものように柔和な、幼子を導く親のようなものでは到底足りないのだと。

ここ最近、特に疲れを見せているヴァレーを目の当たりにして——彼に頼られたい、追い縋られたいような、不埒な妄想が兆していた。途端、鳩尾がむずむずし、腹のすわりが悪いような心地がした。
それ以上、その事を考えてはならないような感覚に襲われる。
あの、憧れの先輩に頼られるというのは、恐らく自らの承認欲求を充分に満たしてくれるものなのだろう。それと同時に歪な欲望を満たすために、くだらない劣情を抱いてしまっているのだとも。

『——それは良い事ですね。ふふ、楽しみにしていますよ』

憧れの人から発せられた、柔らかく纏わりつくような低音が鼓膜の中に残響した、あの時に。
青年はその想いから引き戻され、はっと我に返った。彼はかぶりを振り、襟を正すと、業務の準備に取り掛かるよう無理矢理に意識を切り替えた。そして、今しがた釘を刺された発表の準備をしなければと、足早に仕事部屋へと向かったのだった。

追想を終え、もはや手を付ける気も失くしてしまったスライドの画像を漫然とポインタでいじくりながら、彼はぼんやりと考えを巡らせていく。

——激務の中でも自分はずっと、庇護される側だった。共闘すべき戦友としてではなく、ただ只管に、彼の部下として。頼りにしていますよ、貴方は優秀ですから、と言って迎え入れられておきながら、先輩の目が真に実感を伴って此方を見ていると感じられた事はなかった。結局はずっと、昔と変わらない一人の後輩として扱われるだけだったのだ。

その状況に、青年は物足りなさと、小さな苛立ちを感じ始めていた。
自分だってもう、いっぱしのドクターだ。キャリアこそ違えど、ある程度は自立して仕事もこなせる筈なのに。

「もう少し、気を許してくれても良いじゃないですか……」

カチ、カチとクリック音を鳴らす。青年は、過去にヴァレーから送られたメールのフォルダを開くと、今と殆ど変わることのない繕われた文面を眺めながら、そう呟いた。

 

◻︎

 

王都警察の捜査の甲斐があり、件の連続殺人犯が逮捕された。
凶器は慈悲の短剣、やはり中央博物館に保管されていたものの一つだったという。
別件の、過失致死の容疑で収監されていた被疑者の特徴や指紋などが、物証と一致した。入館記録から絞り込みをかけ、此度の逮捕に至ったという話だった。
速やかに家宅捜索が行われたが、居宅を見て突入した捜査官達は驚いた。そこでは、かの違法薬物が大量に製造されていたからだ。

男は数日の勾留ののちに移送され、尋問を受ける事となった。だが、彼は尋問官の手を煩わせるまでもなく、違法薬物の製造と、斡旋者複数人に対する殺害の容疑をあっさりと認めてしまった。
そうして容疑は固まり、男は速やかにゲルミアの大法廷へと送られた。

「——被告人、前へ」

男は起訴状を読み上げられた時にも動じることなく、自らの置かれた状況を静観しているようだった。被告人質問の際、彼は法務官であるライカードの前に立ち、こう言った。自分にはまだ余罪がある。その証拠を、今ここで話す事ができると。
そうして一つの座標をその場で告げた。
ライカードの命で捜査官たちが直ちにそこへ向かうと、一時休廷が宣言された。
男は再び手錠を掛けられたまま、ゆったりと椅子に座って目を閉じていた。

——数刻ののちに捜査官らが慌ただしく戻ってくると、新たな犠牲者が、遺体が上がったと報告した。
途端、法廷内がどよめきに包まれる。男は目を開けると、表情ひとつ変えずにそこに座っていた。

数名の法務官が口を差し挟んだ。余罪があるなら責問所送りが妥当だろう、責問に掛け、洗いざらい罪を吐かせればよいと。口々に飛び交う申告を受けて、法務官の長は珍しく長考した。

男の経歴を見るに、彼は思想犯の子息として過去に複数回の尋問を受けた事がある。異端思想を持つ要注意人物であるかどうか、調査の履歴も残されてはいたが特に変わった報告は無い。
違法薬物の製造を行っておきながら、どういう訳かその斡旋者を自ら手に掛けている。容疑はあっさりと認めたものの、未だ動機も明かされていない。取るに足らない狂人の凶行であれば手早く責問にかけて口を割らせ、処刑するのが妥当ではあるが、目の前の男の様子は至って冷静だ。

だが、どうにも何かが引っ掛かる。数年以上に渡って一切の手掛かりを掴ませず、王都で猛威を振るってきた違法薬物。それを製造していた男の逮捕劇があまりにも呆気なく幕を閉じたのだ。

過失致死容疑で取り調べを受けている間に、別件の殺人事件で採取された指紋とその被疑者のものが一致するなどと、そううまい話があるものだろうかと。
それに、このような悪行が白日の下に晒されたのであれば、即時に斬首刑の判決が下るであろうことは誰の目にも明らかだった。

被告のように、大学の講師として教鞭を執っていた者がそれを知らぬはずもない。しかし、男はこの大法廷に引き立てられても恐れの感情を一切見せることなく、大胆にも余罪まで宣ってみせた。

苛烈で猛々しい見た目にそぐわぬ陰湿な追及で全ての罪人から恐れられ、忌み嫌われたライカードであったが、その大蛇の如きひと睨みにも微動だにしない男に、僅かに興味を示した。

法務官達の間で交わされる議論を背に、長い沈黙の後、ついに重い口が開かれた。

——この容疑者を分析対象にせよ、と。

地下医療刑務所の精神分析官、彼らの元に送り、何かしらの動機や意図を聞き出してからでも遅くはないだろうと、ライカードはそう判じた。
どの道、男の行く末は全ての第一級の罪人に等しく定められている。大した成果が上がらなければ、『最後の手段』を利用して断頭台へと送るだけだ。

そうして男は数日のうちに、王都ローデイル地下医療刑務所に移送される事となった。

 

◇◇◇

「ミケラとトリーナって、互いに何か関係があるんですか?」

「さあ? 古代史には明るくなくてね。専門に研究をしている者もいるようだが、今のところは仮説ばかりじゃなかったか。亜神の顕在相と潜在相だとか、雌雄同体だとか。両者には全く関連がないとする向きもある。君はこじつけまがいの妄想や、陰謀論なんかは好きな性質かい。中央博物館の百耳の館長に尋ねれば、大喜びでその手の話を語ってくれるだろうね。——それで? そろそろそっちの仕事には慣れたかな」

「ええ、ある程度は」

「ある程度、か。じゃあ、まだまだお守りが必要そうだ」

男が白い歯を見せながら笑う。

この日の目的はこうだった。王都警察はついに、違法薬物の製造場所を突き止めたらしい。製法の詳細等が明らかになったため、より詳しく分析をするようにと医師達には通達が出されていた。

この所長が取り仕切る分析機関は、ローデイル内でも地下医療刑務所とはやや離れた場所に位置している。ここは様々な実験や観測を行う施設であるらしい。
中心となっているメンバーは主にレアルカリアで学問を修めた面々で、この数年で新しく建設された、ケイリッドの辺境、サリアの地下深くにある巨大な観測施設とも連携していた。
そこでは星々にまつわる研究が日夜行われているという。従来、魔術街出身の者は王都出身者に比べると肩身が狭かったそうだが、どういう風の吹き回しか、魔術と祈祷の融合に意欲を持った王都の方針で観測施設が新しく建設され、魔術に長けた者達が重役に抜擢されるようになった。
現在所長は、そちらの施設長も兼任しているようだ。

「全く、上の奴らは人使いが荒い。やれ、こっちが優先だの、いやこっちだの、現場の事を何も分かっちゃあいない」

「はぁ」

白面の青年に話しかけるでもない大きな独り言をぶつくさと漏らしながら、所長は部屋の中を歩き回った。下手に相槌を打つのも憚られるが、かといって全くの無反応を決め込むには存在感が大きすぎる。

研修医時代から面識はある上に表立って邪険にされる訳でもないのだが、ヴァレーと一緒に居ると何故か目の上の瘤扱いをされている気がして、青年にとってこの空間は、あまり居心地が良いものではない。
彼はその空気に耐えかねると、独白の区切りを見つけて話題を変えた。

「これは彼らの象徴花、でしたっけ。愛、誘惑のミケラと、眠りのトリーナ」

青年は、目の前に置かれていた二つの花のサンプルを手に取った。限られた場所にしか自生しない原種という事もあり、彼も実物を見るのは初めての事だ。相槌の打てない一人語りよりは、俄然興味を引かれるものだった。

——ふわりと動かされた花が空を切ると、描かれた導線上に芳醇な香りが漂う。

花の香り自体にさしたる効用はないと分かってはいても、そのとろけるように瑞々しく、甘美な香りが鼻腔をくすぐると、肺の奥深くまで匂いを吸い込む事を止められなくなる。身体の中を満たす香りは心が鎮まるような、午睡の前のような軽い酩酊感を与えた。

「……この花はその祝福を受けた物だと、つまりはその効用から、彼らの名が冠されたのでしょうか」

「おいおい、貴重なサンプルなんだから勝手に触ってくれるなよ」

所長はテーブルへ向かうと、ドリップしたコーヒーを手元のカップへと注いだ。部屋の中にコーヒーの匂いが立ち込めると、淡く漂っていた花の香りがすぅ、と薄れては消えてしまう。僅かな名残惜しさを残しつつ、青年も差し出されたコーヒーを受け取ると——謝罪を込めた礼を言い——先程の花の香りに当てられた、思い込みにも近い軽い眠気を覚ますために、まだ熱く苦い液体に口をつけた。

やはり、どうにも会話の間が持たない。早く先輩に帰って来てほしい。人を相手取る仕事をしているというのに、この体たらくだとは。やはり所長の言う通り、まだまだ自分は未熟者なのかもしれない。
青年が緊張を解ききれないままにコーヒーを啜っていると、ドアの反対側で小さな解錠音が鳴った。

「——お待たせしました。出来ましたよ。スイレンの成分を全てミケラに置換したものと、トリーナに置換したもの」

扉が開くと、青年の待ちわびた人物が現れた。
彼は白面の上に装着された作業用のゴーグルと両の手袋を外すと、不要なものをゴミ箱へと投げ入れた。手に持っている二つのパウチには、それぞれ粉末が封入されている。

「ああ、助かるよ」

所長がカップを置き、ヴァレーへと近づいていく。心なしか彼も上機嫌のようだ。

「これぐらい、ご自分でなされば良いでしょう」

「たまには昔の勘を思い出してもらうのも良いと思ってね」

「そうですか。こちらにだけは転属願いを出す気はありませんから。どうぞ、ご安心ください」

二人のやり取りのさなか、青年が遠慮がちに口を差し挟んだ。

「あの——それで、何か分かったんですか?」

「人体にどのように作用するか、比率を変えてシミュレータで割り出して貰っていたんだ」

所長が隣を振り返るが、ヴァレーは「説明は貴方がなさってください」と言い残すと、軽く伸びをしながらコーヒーを注ぎに向かった。

男はやれやれといった様子で資料に目を落とす。

「ああ。周知の通り、ミケラの成分を濃縮したものは、人を意のままに操ることができる。判断能力を低下させ、特に情愛を司る脳の領域を活性化させる事で、擬似的に洗脳する事が可能になる」

ヴァレーが面を外し、椅子に座るとくつろいだ様子でカップに口を付けた。

「……古くは誘惑の枝という呪具もありましたね。それも相手を一時的に操るものであったとか」

「次に、トリーナは言うまでもないが、強い鎮静作用をもたらす。中枢神経に作用するために、あまりにも濃度が高すぎると意識レベルの低下を引き落とし、酷い場合は人体の機能が停止して死に至る。過去には幻覚剤と併せて軍事用の自白剤としても利用されていたが、副作用が酷く、使われた殆どの人間はその記憶と感情を全て失い、廃人になった。——だがこれは、表向きには出ていないものの、ゲルミアでは未だに現役なんじゃなかったか」

「あれは『最終手段』だそうですよ。彼らは口を割らせる過程を楽しむ性質ですから。廃人をいたぶるのは全くもってつまらないと、そう言っていました」

「——相変わらず、結構な趣味の連中だね。で、今回の違法薬物はこれらの成分に興奮剤、幻覚剤が絶妙なバランスで組み合わされていて、作用中は理性が吹っ飛び狂人さながらで痛みも恐怖も感じない、その裏では命令を忠実に実行する駒にもなると、そういうシロモノだ。つまり……ああ、そういうことだな。ま、ここからは仮説の域を出ないが。その効用は毒か薬か、一体何に転用出来ると思う?」

「え…と、それは……。もしかしなくても、軍事用……ですか」

青年が確証を持ったように言うと、ヴァレーもそれに応えた。

「現在王都で力を持っているのは軍関係者ですから、こうした薬には目の色を変えて飛びつくでしょうね。今はまだ、この作用を知っているのは我々だけですから、もう暫く上への報告は固めない方がよいでしょう」

「——明日が例の、容疑者との面談でしたか?」

「……この分析結果で揺さぶりをかけて、何らかの動機を探れるとよいのですが」

ヴァレーは口元に手を当て、顔を伏せる。よく訓練された者でなければ気付けない、ほんの少し、迷いをみせたその表情に、青年は素早く反応した。

「何か気になることでも?」

「あ、いえ……なんでもありません」

「まあ、こんな所で根を詰めても仕方が無い。一先ずお開きにしようじゃないか」

所長は大きな声でそう言うと、二人の間に割り込んだ。

「で、君に一つ頼みたい事があるんだが。この書類をそっちに提出しておいてくれないか」

青年の手の上に、どさりと書類の束が渡される。一番上の書類は提出期日を明らかに過ぎていた。もしかしなくても、これは体のいい使い走りだ。彼は呆れ顔で所長を見た。

「げ……わかりました。先輩も、ご一緒に戻られますか?」

先ほどの迷うような表情はすっかりと消えていたが、ヴァレーは首を横に振った。

「私はもう少し、明日の準備も兼ねて作業を続けます。何もなければ、そのまま終業で構いませんよ」

それは残念です——という言葉が青年の口から出かかったが、一人で所にも戻れないのかと所長から野次られる光景がありありと目に浮かんでしまう。彼は、その言葉をぐっと飲み込んだ。

「では、私が先に戻ってあらかた事務仕事も済ませておきますね」