若い密使は与えられた任務の場所へと向かっていた。
彼の師である暗部の長、クレプスは暗殺や毒殺の技を磨くうち、この狭間の地で最も恐るべきは朱い腐敗であるに思い至ったという。
彼の扱うクロスボウ、そのボルトには、朱い腐敗が塗り込められている。
腐敗そのものは明らかな異端である。なぜそのような穢れを、彼のように敬虔な二本指の信徒が用いるのだろう?
若い密使は、そう問いかけた事があった。
クレプスの答えは、こうだった。
裏切り者は聖なる御技に触れさせ、安らかに死なせてはならない。導きを外れたのなら相応の苦しみを与え、再誕の望みすら断つべきであるのだと。
そう語る顔は、憎しみに満ちていた。
彼もまた、長きに渡る戦いの中で力に歪み、狂い始めていたのかもしれない。より苦痛を与え、より二本指の教えから外れたやり方で裏切り者を惨たらしく死に至らしめるためにと、絶えず暗殺の技を磨いてきたのだろう。
そこには生々しい怨念や、執着めいた恐ろしさが秘められているのだと——若い密使は、そうした思いを抱かずにはいられなかった。
任務の目的である邪教の祭具、朱い腐敗を滴らせる短剣は、日陰城にあるという。
その地は、狭間の民すら殆ど立ち入ることのない場所だった。
毒沼に侵された城の領主、病める処刑人の末裔マレーマレー。彼は突如、腐敗信仰に目覚めたのだという。先の破砕戦争で名を馳せた、生まれながらにして朱の腐敗に蝕まれし戦の女神——永遠の女王マリカと王配ラダゴンの間に生を受けた、黄金の双子の片割れ、不敗のマレニア。赤獅子の大地を腐れ病で覆い尽くした苛烈なる彼女の姿に心酔したマレーマレーは、各地から腐敗の祭具を集め、昼も夜もなく崇め奉り、信仰に耽った。そうして居城は疎かにされ、治世など崩壊寸前であったある日の事。彼の城は呆気なく襲撃を受け、賊に奪われた。マレーマレーは命からがら逃げ延びた。だが、彼が持ち出せなかった祭具や宝は、今もそこに置き去りにされたままという。
——その祭具のひとつを奪取せよ。それが、若い密使に与えられた任務だった。
クレプスは赤目を倒すため、腐敗を塗り込めたボルトや暗部の祈祷だけでは足りぬと考えていた。万にひとつ差し違えようとも、腐敗の短剣があれば必ずや、相手に致命的な損傷を与えられるだろうと。
日陰城までの道のりは厳しいが、出来るだけ早く立ち、早く戻る必要があった。
若い密使は身を奮い立たせると、その日のうちに円卓を立った。
だが、やってしまったのだ。
早速、このようなヘマをしてしまうとは。
僅かな霊薬も尽き、緋雫が再び沸きあがる頃には、かなりの時間を失ってしまう。
彼はへたりと座り込んだ。
「はぁ……。もう、ついてないな」
若い密使は血の流れる脚を半ば諦めの表情で眺め、大きな溜息をついた。
彼はアルター高原の外れにある廃墟へと辿り着いていた。少し休もうと腰を下ろした際に、この場を縄張りとしていた亜人団の襲撃に遭い、高所から足を踏み外して落下。鋭利な岩肌で太腿を切ってしまったのだ。
どうにか見よう見まねで止血をし、無理を押してまだ進もうかと思っていた矢先。
「おや。貴方、ここで何をしているのですか」
知った声が、背後から響いた。
「——いてて、すみません……」
「構いません。目の前の怪我人を放っておく医師はいませんよ。貴方が私の命を脅かしでもしない限りはね」
白面の男はくすくすと笑い、洗い流した太腿の傷口に膏薬を塗ると手際良く包帯を巻きつける。
「……これで良いでしょう。それにしても、何故このような辺境に貴方が? 偶然、私が居合わせたから良かったものの」
「本当に助かりました。しかも、先日に続いて二度までも。なんとお礼を言っていいのやら……」
若い密使の男が言い終わらないうちに白面の奥、男の瞳が鋭く動く。彼は密使の腕を掴むと、壁の裏側へと勢いよく引き寄せた。
「わっ、何——」
革の手袋を纏う手が、密使の口元を覆う。もう片方の白い手、その人差し指は白面の口元へと添えられていた。——静かに、というジェスチャーだ。息を潜めて程なくすると、地の底から響くような金切り声と共に恐ろしい怨霊が現れた。
白面の彼は再び目で合図をした。決して、身動きをしないようにと。
若い密使は青ざめた顔で、小さく一度頷いた。
死にきれぬ幽鬼は見境なく生者を襲う。特に、ああした怨霊に目をつけられれば命が尽きるまで、執拗に追い回される。祝福なき今、決して出会いたくはない相手だった。不気味な唸り声を上げながらうろつき、通り過ぎていく様を息を潜めて眺める。二人は幽鬼が立ち去るのを、じっと待っていた。
だが、密着し、身動きの取れぬ状況下において——度々助けられた医師に、若い密使はどこか親密さを覚え始めていた。
それに先程から、噎せ返るような独特な匂いが空間を満たしていた。それは医師の持つ薬草や、何かのものなのだろうか? 華やかでありながらも、熟れきった果実のような腐敗臭にも似た、甘ったるい馨り。これは一体、何のものなのだろう?
考えるうち、次第と彼そのものへの興味が募っていった。半ば胸の悪くなるような甘い匂いの中、白面の奥に覗く目元をちらりと盗み見る。
その時に、若い密使は初めて気が付いた。白面の男の睫毛——その全てが、色を喪っていた事に。
その光景に、どきんと心臓が高鳴った。
そして、何故か胸の奥に、焦燥的なざわめきが込み上げた。
「……はぁ」
ゲルミア火山にほど近いこの地域は気温や湿度が高く、酷く蒸し暑い。こうして狭い空間で密着していると、熱が篭って仕方がなかった。頭ひとつ分見下ろした先の白面は首元の布を引くと、隙間から僅かに空気を取り入れた。彼からもまた、ふう、と息をつく音が聞こえる。肌の殆どを覆い尽くす装束では、この辺りの気候はそこそこ堪えるのだろう。
「——もう、大丈夫のようですね。貴方も用がお済みでしたら、早くここを離れた方が賢明ですよ」
「……私の用は——」
鼻腔を満たしていた独特の馨りと熱にのぼせかけ、半ばぼんやりとした頭で言いかけた密使は口をつぐんだ。幾ら恩人であろうとも、自らの任務はおいそれと話す事ではない。
訪れかけた沈黙は、白面から発せられた大きな溜息に遮られた。
それは平素の彼が見せた事のない、うんざりとした私情を孕むものだった。
「はあ……。私の待ち人は、来ないようです。全く、呼び出しておいてすっぽかしだとは。熱いお灸を据えてやらねばなりませんね」
「待ち合わせ? あなたは、誰かと旅を共にしているのですか?」
「うふふ、そう見えますか?」
けむに巻くよう言葉を放った白面は、更に続けた。
「先へ進まれるようでしたら、ご一緒しますよ。ここは一本道ですから。別れたとて、またすぐに顔を合わせるのは気まずいでしょう」
「え? あ、あぁ……。そうですか……?」
半ば強引に押し切られた形ではあるが、断る理由も見つからず、医師の同行を受け入れた。白面の医師は日陰城の周辺に群生している毒草や薬草を採取しに行くのだと言う。ならば、城の近くで適当に理由をつけ、別れれば良いだろう。何をしに行くかなど、分かる筈もない。
連れ立ってしばらく行くと、大地から毒に侵された独特の瘴気が立ち昇り始めた。
城が近い証だ。
逸る気持ちに相反するよう、空はすっかりと濃く色を変えていた。
先の怪我を鑑みても、一日でここまで辿り着ければ上出来だろう。この医師も同行していることであるし、これ以上は無理に進む事もない。
そう思い、辺りを見渡していると白面の彼が口を開いた。
「貴方、今日はここで野営をするつもりですか?」
「ええ、これ以上進むのは、時間的にも厳しいでしょうから」
「そうですか。貴方には、まだあれは聞こえているのですか? 王になれという、使命への誘いが」
「……ええ」
密使は小さな嘘をついた。
「それは結構な事ですね。先ほどの身のこなしを見るに、その器には到底、見えませんけれど」
彼はそう言うと、またくすくすと笑った。
「——ですが、貴方の使命が果たされる事を願っていますよ。ああ、そうです。この辺りは少し土地勘がありまして。少し先に、小さな洞窟があるのです。夜は亜人や、野犬の襲撃も多いでしょう。そちらで休まれてはいかがですか?」
「ご親切に、どうも。しかし、ああした場所は……塞がれてはどうにもなりません。もう少し平地も見て回ろうかと」
「——では、私が入口の見張りをいたしましょう。待ち人にも会えず、私もそろそろ休める場所を探していましたから」
「それは、あ、ありがたいお申し出ですが——」
「おや? 信用に足りないようでしたら、どうぞご自由に。ですが、もし私が貴方の敵であれば、先程の処置の時に毒を盛る事も出来たのですよ」
押し殺した笑い声が小さく響く。彼はどこか、この状況を楽しんでいるかのようにも見えた。
「それは、そうかもしれませんが……」
「休めるときに、しっかりと休息を摂る事も必要です。祝福とて、そう見つかるものでもないでしょう」
またしも強引な提案ではあった。だが、若い密使はついに、それを彼の善意だと受け入れることにした。
ひんやりとした洞窟。
入り口横の壁にもたれ掛かり、腰を下ろす白面の姿。
若い密使は疲れが溜まっていたのか、すぐさま眠気に襲われた。微睡みの中、じくじくとした太腿の痛みに合わせて、もうひとつの古傷が疼く。
その痛みは拍動と共に、この地に祝福を受けた事で失ってしまっていた記憶をゆっくりと開いていった。
そして、泥濘の眠りに至る中——密使の男は、かつての場所の夢を見た。
†
若い密使は狭間に至る前、大教会に属していた。
だが、その場所は彼の居所ではなく、密使としての研鑽を積むため、一時的に訪れていた訓練所だった。そこで彼は一人の医師と出会い、処置を受けたことがある。
それはまだ、成人もしていない時分の事。訓練中に短剣の扱いを誤り、右大腿部を大きく切ってしまったのだ。
「はぁ、もう……ついてないな。ここに来て初日なのに、この傷が治らないと訓練には戻れないし……」
彼は処置室に向かい、医師を待つことにした。幸い、傷の見かけほど出血はなく、足を動かさずにいれば、痛みもそう酷くはない。
椅子に座っていると、コツコツと足音が近づいた。
「ええと……怪我人というのは、貴方ですか?」
現れた医師の男は伸びた髪を無造作に束ね、疲れ切ったように虚ろな瞳をしていた。
その雰囲気に、密使の彼はたじろいだ。
「はい、そうですが……」
医師というにはどこか病的にも見える隈の濃い目元が、すっと向けられる。
ふと、目を惹かれたのは珍しい特徴。その医師の目元を縁取る睫毛は、全てが色を喪って真っ白に見えた。その視線に気付いた男は密使と目を合わせると、にっこりと柔和に微笑んだ。
「傷は……ああ、言わずとも分かりますね。少しの辛抱ですよ。すぐに縫って差し上げますから」
医師の彼はそう言うと、腰に携えられた道具入れから手際よく針と糸を取り出す。
「こ、これ、縫うんですか?」
若い密使は恐る恐る医師に問いかけた。薬を塗って、包帯でも巻けば終わりだと思っていたのだ。
「貴方、他所から来られた訓練生ですね。静養できるなら話は別ですが、あいにく今は満床で。それに、訓練の遅れも心配でしょう。縫合すれば、直ぐにでも復帰できますよ」
「あの……それって、痛みは……?」
その言葉に、医師は楽しそうに言う。
「痛みの我慢も訓練のうちです。さ、足を出して——」
合図を受け、言われるがままに大きく足を開いた。医師はその間にするりとしゃがみ込む。そして、先ほどとはうって変わった真剣な眼差しで傷跡を縫合し始めた。
密使は訪れる鋭い痛みに顔をしかめ、度々呻きを上げながら、処置が終わるのを根気強く待った。ひと針ひと針、確実に傷跡が縫い合わされていく。
途中で、これは傷跡から目を逸らした方が痛みが和らぐものだろうかと、医師の手元や顔に意識を向けた。
疲れているように見える彼の年齢は、判然としない。一回りは上なのだろうか?
雑に束ねられた髪が目元に掛かるのを払おうと、幾度か手が振りあげられた。口元は白布に覆われて見えなかったが、目鼻立ちのしっかりとした端正な顔立ちなのだろう。そんな事を考えていた矢先、また視線がかち合った。白い睫毛に縁取られた、隈の濃い目元がこちらを見上げている。どこか気怠げな視線に、どきりとした。すると、彼は口元の白布を引き下げ、足の付け根に向けてぐっと顔を寄せたのだ。
「わ、何を——」
そう言い終わらないうちに、ぶちんと音が鳴る。
「何って、糸を切らなければ終われないでしょう」
医師は手際よく片付けを終えて立ち上がると、欠伸を噛み殺して体を伸ばした。
だが、密使の青年は先ほどまで足の間にしゃがみ込んでいた彼の姿に、どうにも余計なことを考えずにはいられなかった。
——鼠蹊部を掠める、どこか淫靡な手の動き、足の間で揺れる頭——。
年上の彼はそうした欲求の対象ではない筈なのに。若さの故だろうか、一度想起させられた邪な妄想は対象がどうあれ、持て余された欲を揺り起こしてやまなかった。
「さ、どうぞ。終わりましたよ。まだ少し、休んでいかれますか?」
その言葉に、ぼうとした頭は無意識に頷く。
「——そうですか。では、私はこれで。鍵は開けたままで結構ですからね」
当然の事ではあるが、事務的に告げて部屋を去ろうとする医師の姿を、名残惜しく追いかけた。足の痛みは身体が血液を運ぶ度に、どくどくと疼いていた。
その時、部屋の外からこちらへと向かう大きな足音が聞こえた。
近づく足音と共に姿を現したのは、数人の衛兵だ。
「なんだ。こんなところにいたのか」
衛兵らは医師を見つけると口元を緩め、馴れ馴れしそうに声を掛ける。
瞬間、若い密使の目には、医師の顔が僅かに強張ったように見えた。
「お前、研修生か? こんな所で何をしていたんだ?」
威圧的な声に、密使の青年は弁明するように答える。
「いえ、訓練中に足を切ってしまい……傷の処置をして頂いていただけです」
「ほう、そうか」
男たちは気の無さそうに言い放つと、医師に向けて言う。
「早くしろよ。時間がないんだ。さっさと来い」
また、負傷者が出たのだろうか。先ほどの話では病室も満員だと言っていたし、彼の窶れぶりを見るに、ここでの医師の働きというのは思った以上に過酷なのかもしれない。
そう考えていると、医師の彼は申し訳なさそうに頭を下げ、大柄な衛兵たちと連れ立って行った。
お礼を言いそびれてしまったな、と密使の青年は思った。まだ痛む足は、無理に動かすこともないだろう。あの医師の言う通り、しばらく休んでいこうか。そう思い、うとうとしていると——開け放ったドアの向こう、石の壁に反響するように、誰かが懇願するような声が聞こえ始めた。
若い密使は途端、居心地の悪さを感じた。
そういえば、この処置室がある一帯は尋問部隊の管轄だそうだ。ここに来る途中、小さな石造りの小部屋がいくつもある中を通ってきた。中には、尋問中の宗教異端者の独房も含まれていた。その誰かが今、鞭刑にでも処されているのだろうか?
一度声が気になり始めると眠気は吹き飛び、喘ぎにも似た悲痛な叫びに、つい耳をそばだててしまう。
尋問部隊にだけはなりたくないと、若い密使は常々思っていた。
訓練の終わった密使は大きく分けて三つ、密偵・暗殺部隊・尋問部隊へと配備される。彼は密偵に志願しようと目論んでいたのだが、その素養があるかどうかはまだ分からない。暗殺部隊も恐ろしくはあるが、他者を痛めつける尋問部隊は殊更、相容れないだろうと感じていた。
漏れ聞こえる声は、ますます大きくなっていく。
だが、どうにも様子がおかしい。その声は、先ほどの医師のもののような気がしてならなかった。なぜ、彼らしき者の声が? それに、聞こえてくるのは痛みにのたうつ叫びではなく、耳にするだけで腹の底がむず痒くなるような色香を含んだ——そう、喘ぎ声なのだった。それに気づいてしまうと、もう耳をそば立てることに歯止めは効かない。決定的だったのは、かろうじて聞き取れてしまった、その肉声だ。
「ッ……あぁ、駄目です……っ、まだ、先ほどの部屋に……」
「あ? 何も問題ねえだろ。少なくとも俺たちにはな。ほら、さっさと咥えろよ」
「んう……ッ!! ぐぅ、んむ……、っ……うぐ……」
「そうやってお利口にしてりゃ良いんだよ。わざわざ外に聞かせてえってんなら話は別だが」
「ッは……ぁ、ちが……っ……! ひッ?! や゙、あッ、あ゙ぁ〜〜〜ッ!!」
「誰が勝手に離して良いッつった? こんなもん挿れっぱなしにしてたくせによ。さっきの奴を呼んでやろうか?」
「うぐ……ッ……! ん゙〜〜ッッ!! んっ……うぅ……っ」
「そう睨むなって。ほら、こっちもしっかりな。知ってるぜ? もう限界なんだろ」
——漏れ聞こえる会話から意識を逸らそうとすればするほど、よりそちらに注意が向けられてしまう。甘く媚びるような声は次第に、一定の間隔で濁点の混じる大きなものへと変えられていった。
「ふぅ、あ゙ッ、ぁッ……ひ、ぅ゙ッ……、それ、激し……ッ……!! ん、あ゙……ぅあ゙ぁぁッッ!? イ、ぐ、ぅぅッ……!!」
「ッ、クソ……っ、ナカ締め付けんな……ッ!!」
「おい、溜め込んでたからって飛ばしすぎんなよ」
「けどよ、また遊べるようになるとはな。一時はやられたかと思ったが」
「全くだ。俺らが言うのもなんだが、悪趣味にも程があるぜ」
「……ああ、もうやべえ……ッ、限界だ……! このッ、慈悲深いお医者だってんなら、出すもん全部受け止めろ!!」
「あ゙、ぁあ゙、っぁ………ん……あ……」
「次は俺だ。さっさとこっち向けよ」
男たちの嘲笑と、再び聞こえ始めた濁声。
若い密使はその間、身動きひとつ取ることが出来なかった。悪いことに、行為の一部始終を聞き終える頃には、自らの中心が痛いほどに張り詰めてしまっていた。
男たちの談笑が済んだ後、少しの静寂の後に木戸の開く音がする。大柄な男の足音が順に、その場所から離れていく。部屋からはもう、何も聞こえなかった。だが、足音の数から、あの医師はまだ部屋の中にとどまっているようだった。
——早々に、ここを去るべきだったのに。部屋の中は今、どうなってしまっているのだろう。彼は気でも失っているのだろうか。気が気ではなかったが、部屋の中を確かめる気にはなれなかった。あれやこれやと思いを巡らせているうちに、微かな物音が聞こえる。密使の青年は、再び耳を澄ませた。寄りかかるように、力なく木戸を開く音がした。足音は先ほどの男たちとは異なり小さく、こちらへと近づいてくる。
そして——先ほどの医師が、姿を現した。
解けて肩まで掛かる乱れた髪、口布や被服も暴かれたままの彼は、ふらつきながらこちらに目を遣ると、少しの驚きに目を丸くして——困ったような顔で、笑った。
彼はあの時に、なぜ微笑んだのだろう?
あの鮮やかな処置に、憧れや劣情すら抱いてしまっていた筈なのに。
心の奥には既に、この医師を蔑むような、どす黒い感情が渦巻いていた。
この神聖な地で淫蕩に耽るなどとは、何と穢らわしい——。
密使の青年はこの時に、初めて他人の色欲を目の当たりにした。そして、自らに浮かんだ淫らな感情を、嫌悪に変える事でどうにか蓋をしようとしたのだ。
漏れ聞こえた声。その姿は閉ざされた石の向こう、決して見える筈は無かったのに。その日以降、あの部屋で行われていたであろう行為を思い描く妄執に取り憑かれた。禁欲の誓いに背いた秘めたる想像はいつしか自らの慰めへと変わり、込み上げる劣情を欲求のままに満たし続けた。あの声を思い出し、彼は幾度、妄想の中で乱れたことだろう。
再びあの医師に会ったのは、それから更に数年後。大教会での訓練をやっとの思いで修了し、密使の青年は晴れて望み通り、密偵としての一歩を踏み出そうとしていた。
そして、教会を去らんとするその時に。偶然、医師の彼と鉢合わせたのだ。
あれから彼の事を忘れたことはなかった。だが、その理由と気まずさに、もう二度と顔を合わせることが無いようにと願っていたのも事実だった。
鉢合わせたのは中央ホール、祭壇の前。
出会ってしまったからには、せめてあの日のお礼だけはと、声を掛ける。あの日、対応が遅れていれば感染症が起き、脚を失っていたかもしれない。そして、速やかに訓練に復帰が出来たのは、ひとえに彼の的確な処置のおかげだった。ただ、こちらの事を忘れてしまっているならそれでも良いと、軽く頭を下げた。
医師の彼は声掛けに気づくと、目元を緩めて微笑んだ。
その嫋やかな笑みは、数年前のあの日と何も変わらない。挨拶代わりにと貼り付けられた柔らかな薄笑み。それはただ、彼の癖だったのだ。
そして、手短に礼を伝えた。医師はどうも、と言葉を返す。直後に訪れたのは、続かない会話。無言の気まずさに、つい良い天気ですね、などと月並みな言葉が口をついた。医師の彼は向き直ると、こう言った。
「ええ。そのようですね。生憎、この場所から外は見えませんが」
「——あ……そういえば、あなたは、ずっとこの教会に?」
「いいえ。ですが、ここに来てから外出は許可されておりませんので。ああ、貴方は無事に訓練を終えられたのですね。ふふ、おめでとうございました」
「……ありがとうございます」
語る口調の柔らかさとは裏腹に、彼の瞳は以前にも増して重く沈み、虚に光は差していなかった。小柄ではないにせよ、そう大きくもない彼は、想像よりもさらに痩せたように見える。
目元を和らげたままの彼は、こう続けた。
「ただ、このような私にも転機が訪れたのでしょうか。明日、前線へと向かう事になりました。……やっと、この場所から出ることが叶います」
彼は言い終えると、両の腕をそっと重ね合わせる。それは、どこか自らをかき抱くようにも見えた。伏せられた目元には、あの特徴的な睫毛が揺れていた。
「医師のあなたも、戦地に赴くのですね。私も密偵として献身するつもりです。仰る前線とは、西側の領地の境界線でしょうか」
「ええ。命が下されたのは、小さな修道院。その場所は私の出身の地。今は傷病兵たちの避難所として機能しているそうです。そこに、医療用の拠点を作るようにと」
「そう——でしたか。お互いに、二本指様の加護があるとよいですね」
言葉を返し、再び彼を見る。だが、遠くを見つめ始めた顔を見るに、医師の彼はもう、こちらに気を向けていないのだと感じた。そして、最後にこう尋ねた。
「あの……また、会えるでしょうか?」
「ええ。きっとまた、いつか」
†
薄暗い洞窟の中、若い密使は目を覚ました。
当初の警戒心はどこへやら。どうも、ぐっすりと眠り込んでしまっていたようだ。
白面の影は目を閉じる前と変わらずに、洞窟の入り口にゆったりと半身を横たえていた。
「——目を、覚まされましたか。うなされていたようですが。傷は痛みませんか? そろそろ、外も白み始めるでしょう。貴方の旅路に、加護があらんことを」
ゆっくりと招く手。だが、目覚めたその時から、若い密使の心臓はどうしようもなく早鐘を打ち続けていた。白面はゆっくりと腰を上げ、洞窟を立とうとしている。若い密使は後を追うように、彼に駆け寄った。
「……ッ……!」
まだ眠りから覚めやらぬ頭。ぼうっとしていたせいで足元の石に躓き、勢いよく足をつく。片足が体重を支えたその時に——ズキンと、傷跡が痛んだ。
先ほどの夢の内容は、鮮明に覚えていた。
遠い地での記憶を、若い密使はついに取り戻したのだ。
昨日、身を屈めて傷の処置をしてくれた医師の姿。白面に遮られてはいたが、彼の全てが、大教会で出会った医師の特徴を指し示していた。そして、かつて彼にしてしまっていた邪な妄想を——あの時、思い出さずにいられて良かった。
羞恥と痛みに俯き、朱に染めた顔を上げる。黄金の光が、辺りを照らしていた。白面の彼はもう、立ち去ってしまったようだ。
だが、またきっと、どこかで会えるような気がしていた。それは、願望なのかもしれない。彼があの医師であるならば、伝えるべき言葉があった。
過去の記憶にはない——甘く、重苦しい馨りが鼻について離れない。この独特な匂いは、当分忘れられそうにないだろう。
若い密使は、自らを奮い立たせるように大きく息を吸い込む。
そうして、日陰城への道を急いだ。