後輩の青年は火山館での研修を終え、王都へと戻ってきたところだった。辺りはすっかりと暗くなったが、黄金樹の麓であるこの場所は、夜も燈火など必要がないほどにまばゆく照らされている。だが、幻想的な夜空と黄金樹とのコントラストによる絶景を楽しむ余裕など全くないほどに疲れ切っていた彼は、がっくりと肩を落としながらふらつく足取りで職場へと向かっていた。
流石に転送門なしでの火山館出向は足腰に堪えた。一合目まではトラムが走っているが、そこからは過酷な登山が待っている。それに、火山館での職務はお世辞にも気持ちの良いものとは言えなかった。
——今日は随分と遅くなってしまったし、もう先輩は帰ってしまっただろうか。
青年はそう思い、無機質で堅牢な建物への扉にIDを翳す。出迎えてくれた守衛に挨拶をすると、ブリーフィングルームに直行し、中を見回した。
やはり、先輩の姿は見当たらない。青年は疲れを募らせたまま退勤の手続きを済ませると、備え付けのシャワールームへと向かっていった。
「——あ、先輩」
「ああ、貴方。今日はやはり遅かったですね。どうも、お疲れ様でした」
「お、お疲れ様です! ああ……最後に先輩に会えてよかった……」
流石にもう顔を合わせられないだろうかと気落ちしていたが、偶然にもシャワールームから上がったばかりのヴァレーと鉢合わせた。その瞬間、青年は気の抜けた風船のように脱力して顔を破顔させた。とは言っても面に遮られたその姿、表情が見える訳ではないのだが。
まるで砂漠の中で行き倒れる寸前、オアシスを見つけてどうにか命を繋いだような青年を目の当たりにしたヴァレーは、口元に手を当てると堪えきれない笑みを溢した。
「ふふ、最後ですって? それはそれは、ご大層な事ですね。お望みとあらば、慈悲でも掛けて差し上げましょうか」
彼は椅子に崩れ落ち、無言で首を縦に振る青年に近づくと、自らも手頃な椅子を引き寄せてその隣に腰を下ろす。
「——冗談はさておき、陸路で火山館までとは大変だったでしょう。どうぞ、ゆっくり汗を流していってください」
「いやほんとに……先輩とお話できて、生き返る思いですよ。一日通して会話したのが彼らだけだなんて、酷い悪夢にうなされそうです。消去法とはいえ、やはり一日で火山館の往復は辛かったですね。だからと行って泊まりがけを辞退したのは私の意思なんですが……」
ぐにゃりと体幹を崩した青年は、もはや全身の力が抜けてしまったという様で訴えた。
ヴァレーは薄手のガウンを羽織り、肩にタオルを掛けたままの姿で部下の話に耳を傾ける。
「ふふっ、彼らは貴方のことを気に入ったようですよ? 端末に連絡が入っていました。指導のしがいがあるとね」
「……それは面白がられてるんですよ……。今日も叫んだりトイレに篭ったりで散々でした……」
椅子と同化しながらぼそぼそと愚痴をこぼす彼を横目に、ヴァレーは身支度を整えていった。ガウンを脱ぎ、肩に掛けたタオルで髪をかき上げる仕草。その様子を、部下の青年はぼんやりと眺める。
——口元に残る無精髭と、隈の濃い目元。所々に白髪の混じる、肩ほどまで無造作に伸びた栗色の髪。中肉中背の体つきではあるが、肌はしっとりと濡れて柔らかく、なんとも触り心地が良さそうに見えた。それは彼の体質である、体毛が殆ど無いことに由来しているのだろう。青年はヴァレーのその特徴を、医局時代に初めて知ったのだった。
それはとある合宿先での事。カリキュラムを終え、大浴場で一日の疲れを癒そうとした時に、当時、あまり面識の無い先輩であったヴァレーと鉢合わせた。そしてふと、その身体を見た時に——手入れの行き届いたように滑らかな手足に驚き、思わずその身体的特徴について問いかけたのだ。その時にヴァレーから、生まれつき身体には殆ど体毛が生えない事、そして睫毛の色素だけが抜けてしまっている事などを聞いた。髭だけはまばらに生えてきてしまうらしく、処理が面倒なのだと、彼は笑い混じりに言っていた。
先輩であるヴァレーの印象は普段からそつがなく、いつも指導医と連れ立っていたためにどこか近づき難いと感じていた。だが、髭の処理が面倒くさいという話を聞き、一気に親しみを抱いたものだった。それに他意はなかったとはいえ、彼の身体的な特徴について不躾に質問をしたにもかかわらず、気さくに話題を広げてくれたその人柄にも惹かれてしまった。しばし話し込んだ後、立ち話もなんなので風呂に入りませんか、と青年は誘い掛ける。だが、ヴァレーはその誘いを丁重に断った。
「こうした所ではどうにものぼせやすいもので。私はそろそろ上がろうと思います。先程貴方が気にしていた実技の件でしたら、指導医に確認しておきますよ。もしも、まだ聞きたいことがあるようでしたら後で尋ねていただいても結構です」
そう言って風呂場を後にした彼の姿を見送ると、青年はひとり、熱いお湯に身体を浸からせた。その時に、ふと思う。先程ヴァレーは、体毛が生えない体質だと言っていた。つまり——立ち話の時に、タオルで隠されていたあの場所もそうだったのだろうか? と。
風呂に入るにはマナー上、タオルを取る必要がある。流石に、先程の話をした直後にその場所を見せるのは気まずい、などと思わせてしまったのかもしれない。
青年は自らの思慮の浅さに恥じ入った。だが、その後は子どもじみた男ながらの好奇心から、ついあの先輩の隠されていた場所がどんな風だったのかと考えざるを得なかった。
その後、風呂上がりの青年は彼のお言葉に甘えるよう、合宿で至らなかった部分のレクチャーを受けに部屋を訪ねたのだった。本当に来るとは思いませんでした、と笑われたが「熱心なのはいいことです。最近はそうした熱意のある者がいないと、上の人たちも嘆いていましたから」との言葉には励まされた。
それが、憧れの先輩であるヴァレーと交流することになった切っ掛けともいえる出来事だった。青年は目の前に晒された、あの頃から歳を重ねたヴァレーの身体を見て、過去の思い出を辿っていた。
「……あの……。何か? そう見つめられると、流石に気になるのですが……」
訝しげに振り向いた、あらかた水気を落とした髪を下ろしたままの横顔から覗く、精悍な顔に青年はぎくりとする。ヴァレーの素顔は目鼻立ちがはっきりしているが故に、黙っていればそれなりに無愛想で気難しそうに見える。だが、そうした印象を和らげるためだろうか、他者に向けられる目元は滅多なことがない限り柔らかく緩められ、口角も白面を模すかのよう、絶えず微笑んでいるように見えた。それは長年に渡り染みついた、彼なりの習慣だったのだろうか。だが、それは決して、彼が弱気であったり、誰かに媚びへつらったりするが故のものではない。むしろ、やや過剰にも思える慇懃な話しぶりの中には、自らの信念と相反する相手に向けた辛辣さを隠さない大胆さも、しっかりと兼ね備えていたのだった。
「いや、すみません……! ちょっとぼーっとしてて……!」
「そうですか? 何か気になる事があれば教えてくださいね。最近どうにも身体が重くて。別に食べ過ぎている訳でもないのですが、やはり年齢や代謝的にそれなりの運動も必要なのでしょうね」
軽く首や肩を回してストレッチをした後に、彼はロッカー内の手荷物から小瓶を取り出した。そして露わにされた肌、ちょうどウエストのくびれのところに向けて——シュ、シュッと音を立て、ミストが数回吹き付けられた。それとほぼ同時に、ふわりと漂う香りが青年の鼻腔をくすぐっていく。
「わ、良い匂い……」
青年には香水を常用する習慣などはなかった。そもそも使いどころが分からないうえに、似合う香りもうまく見つけられない気がしていた。だが、ヴァレーが見せる慣れた手つき、そして漂う気品のある香りに、大人の嗜みにも見えるその行為に一気に興味がそそられる。
再び注がれ始めた青年の熱い視線に気が付かないわけもなく、ヴァレーは彼を見ると、手にした容器を傾けた。
「——貴方も使いますか? 必要ならここに置いておきますが」
その言葉に、青年の意識がハッと引き戻される。
「い、いや、大丈夫です……! 私には勿体無いので……! でも、とても良い香りですね。この辺りで購入されているものですか?」
「ええ、そうですよ。ですが、既製品ではなくて。見知りの調香師がされている店の品です」
「へえ……! 調香師のお知り合いが?」
「私も紹介で知った方ですが。これももう、残り少ないですね。貴方さえ良ければ、今度一緒に行ってみますか?」
その言葉に、青年は二つ返事で答えていた。
「やった! ぜひ連れて行ってください!」
「ふふっ。それでは、近いうちにそうしましょうか。では、私はこの辺りで。長居してしまいましたね。どうかごゆっくり、一日の疲れを癒してください」
「——あ、先輩。そういえば、聞きたかった事が……」
その言葉に、ヴァレーは小首を傾げて振り返る。
「今日はあの悪名高い『サリアの強姦魔』と対峙したんですよね?」
「……ええ」
応じた声音に、青年はヴァレーの纏う空気が僅かに張り詰めた事を知る。そして、心配そうに切り出した。
「タイミングを逃してすみません……少し、気になったもので。彼の起こした一連の事件は、王都に記録されている中でも類を見ない残虐な連続殺人であったと……」
ヴァレーは青年の様子から、それがここ最近疲れを見せてしまっていた自分を気遣う意図であると察した。そして目元を緩めると、穏やかな口調で応じた。
「——私は大丈夫ですよ。それに、センセーショナルな事件を起こしたからといって、何も特別な人物ではありません。今日の供述から、被害者〇一についての詳細が判明しました。上に承認され次第、仔細を纏めたものが共有端末に上がるでしょう。貴方もまた、目を通しておいてください」
「え……? そうなんですか?! ちょうど、火山館で責問の記録を辿っていたのですが彼に関する記録もありまして……。なかなか苛烈な内容でした。あの責問でも口を割らなかったと有名な男が……」
心配から尊敬へと変えられた青年の眼差しに、ヴァレーは小さな罪悪感を抱いて胸を詰まらせた。
「……偶々ですよ。私が何かした訳ではありません。他の被害者についても、順に明らかになるでしょうね」
「未解決のまま犯人処刑になるかと言われていた一連の事件が……。あっ、引き留めてしまってすみませんでした! 先輩は、今日はもう終わりなんですね?」
「あとは、管理官のオフィスに寄るだけです。そこで、余計な仕事を貰わなければね」
どこか困ったように寄せられた眉根——そしてその顔は、手にした白面に遮られた。