医パロおまけ 1話目 - 2/2

 

「——?」

無い。いつもであればクリーニングから戻ってきているはずの白衣が無かった。
ヴァレーはしばし考えた。ああ、そうか。店に臨時休業の貼り紙があった事を失念していた。休日でもないのに、珍しい事もあるものだと思っていたのだ。とりあえずは予備があるため、仕事に差し支えはないのだが——。

「おや?」

普段通りに身支度を整えていると、首当てがない事に気付く。

「ああ、もう……」

こんな時に、と彼は思った。昨晩は急な呼び出しで、上司の所に缶詰めだった。きっと、あの時に忘れてきてしまったのだろう。
彼は少し考えた後、職位を示す白布を首周りにぐるりと纏わせた。普段は感じない、首元に触れる外気に小さな違和感を覚える。だが、今日ばかりはこれで間に合わせにしなければ仕方がない。

共有端末を取り出し、新着事項の確認をする。スケジュールによると、部下である青年は火山館に出向のようだ。今日は仕事が終わるまで彼と顔を合わせることはないだろう。そのまま画面をスクロールしつつ、自らの予定にも目を落とす。未読欄に、第一級犯罪者との対話プログラムの予定が三件上がっていた。

ヴァレーは身を引き締めた。対話とは名ばかりで、これは犯行の詳細、供述の裏を取る事を目的としたものだ。王都警察からは、受刑者から犯行の仔細を聞き出すようにと、再三に渡って要請されていた。予定を確認し終えたヴァレーはデスクに手を付くと身体を持ち上げた。それとほぼ同時に、昨晩上司の元で酷使した肉体の鈍重な痛みがずきりと襲う。

「……ッ、う……」

——今日は幸先が悪そうだ。

彼は小さなため息をつくと、地下刑務所内の独房へと向かっていった。

IDカードを翳し、独房エリアへの入り口を開く。
二重の扉を通過した少し後、再びロックの掛かる音がした。
その音に、ヴァレーの肌は僅かにひりついた。

このエリアは第一級の犯罪者たちの収容所。全ての部屋は電子制御でロックされているが、こうして中にいる時に不測の事態が起きたなら、との疑念はいつも頭の片隅にあった。護身用に、拘束用の祈祷が込められた誓布の所持は認められている。だが、戦闘経験など皆無に等しい医師ひとり、有事となればひとたまりもないだろう。

無機質で真っ白の長い廊下を進んでいくと、同じく飾り気のない扉に遮蔽された部屋がいくつも現れた。その小さなガラス窓から囚人が勢いよくドアにぶつかり、喚き散らす。
しかし、こうしたことにいちいち驚いてなどいられない。反応を見せるのは相手の思う壺だ。
窓を叩き、暴れ回る囚人を目の端に捉えたまま、ヴァレーは身じろぎもせずに廊下を歩いていった。

「おい、先生。あの噂、本当か——」

男のくぐもった声が遠ざかり、消えていく。
ここの囚人たちが話す事を許されている相手といえば、医師であるヴァレーだけだった。この地下刑務所では食事や身の回りの世話も全て、人を介さず自動的に行われている。専門的な事は知り得ないが、この施設を管理している電子制御システムは最新鋭の魔術と祈祷の粋を極めたものであるらしい。過去には魔術と祈祷の融合など御法度であると、そうした研究は非難の対象でもあったようだが、その有用性が明らかになってからというものの、主に軍事目的では盛んにこの分野の研究が進められていた。

変わり映えのしない風景を進み、また次の独房へと向かう。端末の情報によると、今日の担当はここの受刑者だ。施錠扉の前で足を止めたヴァレーはその名前を見ると顔をしかめた。

再びIDを翳し、二重のロックが掛けられた扉を開く。部屋の中には、既に光輪によって拘束されている男の姿があった。ヴァレーは彼に近づくと軽く挨拶を済ませ、口元を塞いでいた布を取り去る。
それとほぼ同時に、男は興奮した様子で捲し立てた。

「——先生、遅かったじゃねえか。ああ本当に、あんたと外で出会っていたならな。絶対、俺の手に掛けてやりたかったのによ」

その声に、ヴァレーの顔は見る間に嫌悪に染められた。だが、表情は未だ医師としての堅牢な砦である薄笑みの白面に隠されたままだ。ヴァレーは無言で男の腕を取ると、手早く鎮静剤を投与した。

「なあ、ここは俺と先生の二人だけだろう? そうした妄想をどれだけ繰り返した事か。その白面、澄ました仮面を剥ぎ取って、気が狂うまで犯して穢して殺してやる」

この受刑者は連続殺人、及び強姦の罪で収監されている。少年から成人まで男性ばかりを狙い、自宅に監禁。苛烈な性的暴行、身体暴行の末に死に至らしめ、その後も凄惨な死体損壊と遺棄を繰り返し、その残虐性で王都市民を恐怖に陥れた未曾有の事件の犯人だった。被害者の多さから一時は組織的な反抗かとも疑われたが、結局はこの男たった一人の仕業だと結論付けられた、人ならざる悪逆非道である。

ヴァレーは拘束された男の前に置かれている椅子に腰掛けると、与えられた調書に目を落とした。その間も男は聞くに耐えない言葉を浴びせ続けていたが、ヴァレーはそれを無視するよう、書類に必要な箇所を書き添えていく。

暫くすると、男の話が途切れて静寂が訪れた。予定よりは少し早いと感じたが、先ほどの鎮静剤が効いてきたのだろうか。そう思うヴァレーが顔を上げると、男はにやにやと不快な笑みを浮かべたまま、じっと彼の事を見つめていた。その表情に薄気味の悪さを感じたヴァレーは「何か?」と短く問い掛ける。その声に、相手はすかさずこう言った。

「先生。それ、どうした?」

男が自らの首元に指を当てる仕草を見て、ヴァレーは男の意図を察した。首元にゆったりと回した白布。職務の規範に則った正装ではあるが、普段とは異なる装いである。平素であればきっちりと隠されている筈の首元が僅かでも晒されているのなら、この手合いの男が興味を持たぬ訳はないだろう。

「貴方には関係ないでしょう」

ヴァレーは再び視線を落とし、気にも留めぬとばかりに言った。

「俺に会うと分かって、わざわざ見せびらかしに来たのか? 真面目で身持ちが固いと思いきや、やることはしっかりやってるんだな」

クックッと押し殺せない笑いを溢す男、そして投げかけられた言葉に、ヴァレーは眉を吊り上げる。

「……何を言っているのですか?」

男は予想の通り、普段と異なる装いについて言及した。だが、どこか別の具体性を帯びている言葉に、ヴァレーの内心は僅かにざわついた。そして、思い当たる嫌な予感がじわじわと身体を駆け巡っていく。

「そこに見える痕、気が付かないとでも思ったか?」

「——ッ?!」

まさかと思い、咄嗟に首元に手を当てる。
——いや、そんな筈はない。昨日はきっぱり断った筈だと、ヴァレーは自らの記憶を手繰り寄せた。”どうせ隠れるから良いだろう”と、首筋に噛み痕を残そうとした声が脳裏に蘇る。そうした内出血の痕は、場合によってはしばらく消えず、その間は人前で着衣を脱ぐ事すらままならない。今期から後輩が配属された事もあり、人目につく訳にはいかないと、そうした行為は頑なに拒否していた。無論、昨日もそうだった。それに、もし痕跡が残されていたとしても、身支度の際に気付かぬ筈がない。記憶を辿り終えたヴァレーは少しの冷静さを取り戻すと——やられた、と思った。

「はははははっ、どうした? 思い当たる事でもあったのか?」

男はわざとらしく盛大に笑い声を響かせた。

——そう、今のは仕掛けられたのだ。タイミングが悪過ぎたという事もあるが、くだらない引っ掛けにまんまと乗せられてしまった。
男は今、こちらをやり込めて自らが優位に立ったと高揚している。この状況で否定に繋げるのは悪手にしかならない。そう思うと、ヴァレーはため息混じりに会話を続けた。

「……私に恋人など、居ないように見えましたか?」

「いいや? だが、残念だな。昨晩はお楽しみだったのか? その白衣、脱いだらすげえ事になってたりしてな」

男の舐め回すような視線と声音に、ヴァレーは自らが獲物として見られている事を強く感じさせられざるを得なかった。その嫌悪に、ぐっと息が詰まる。

「……そろそろ、本題に移りましょうか。貴方が被害者たちを物色していた場所について——」

ヴァレーは男に目を向けると、資料に載せられている酒場の写真を指し示す。

「生憎、私と貴方が出会う機会はなかったでしょうね。こうした場所に出向く時間も習慣も、今は殆どありませんから」

ヴァレーは僅かに突き放すような口ぶりで言う。それは半ば、本心に近いものでもあった。だが、男は上機嫌でこう続けた。

「人の気持ちは移ろいやすいからな。何があるかなんざ、分からないだろう。もしもあんたが、その恋人とやらに手酷く振られたら? 今はそう思わなくとも、傷心で行き着く先はだいたい酒場と相場が決まってる。特に、一人で来て飲み慣れてないやつなんかは狙い目だ。酒を奢っても断れなかったり、話し相手が欲しかったりな。まあ、酒場に入り浸りで前後不覚になるまで酔い潰れるようなやつは狙ってくれと言わんばかりだが、それはそれでつまらねえ」

「手酷く振られる、ですか。確かに、こうして仕事にかかり切りですから。愛想を尽かされるのも、時間の問題かもしれませんね」

ヴァレーは男の語りを遮らぬよう、薄金色の瞳を細めて自嘲気味に笑ってみせた。だが、直後に男が放った言葉は、予想もしていないものだった。

「恋人、ねえ。——なあ、先生。あんたのお相手とやらは男で、それに歳上なんだろう?」

「……え?」

突如として突かれた核心に、ヴァレーの心臓は痛いほどに跳ねた。目を見開き、二の句を告げずにいる彼に向けて、また男の声が飛ぶ。

「それに、あんたは満足させる側じゃなくて、させられる側、だよな?」

男は手元で卑猥なジェスチャーを見せながら、尚も纏わりつくような口調で追求した。
ヴァレーに向けて、こうした性的な質問をする男たちは今までも数多く存在した。大抵はうまく躱して対処していたが、先ほどから投げかけられるこの男の質問に、ヴァレーは言いしれぬ不穏な感覚を抱き始めていた。
まるでこの男は初めから、こちらに優位を切れるカードを全て持っていたかのようだ。以前、初めて話をした時には既にヴァレーを獲物、つまり自らのターゲットとして認識したようであったが、せいぜい自身の欲求を満たすための卑猥な言葉を投げかけるに留まっていた。
だが、今日は何かが違っていた。

もはや駆け引きなどではなく、ヴァレーはただ純粋に、目の前の男に向けて、こう問いただしていた。

「……私の情報を何処から……いえ、誰から得たのですか?」

男の瞳はじっと、ヴァレーを見据えていた。身体の中までをも見透かされてしまいそうなその視線に、また息が詰まる。

「本当に知りたいのか? まあ、俺は構わないがな。正直、処刑されるには命が惜しくなった。あんたみたいに遊び甲斐のありそうな男を目の前にぶら下げられたなら尚更だ。いや、もう既に散々遊ばれてるんだろう? ——チッ、見るだけとは全く酷な話だぜ」

「遊ばれている? それは、一体……」

未だ見えぬ話の意図に冷や汗が伝っていく。

「取引をしたのさ。事件の仔細を話せば、その分俺の命の価値は引き延ばされる。ここの責任者が直々に、俺に話に来たぜ」

その言葉に、ヴァレーは全てを理解した。そして、忌々しげに息を吐いて天を仰いだ。責任者とは、地下刑務所の管理官だ。ここに配属されてからずっと、あの男からは嫌がらせに近い事を受け続けていた。そして、その意図が決定的となったのが先日の事。管理官はヴァレーの弱みを握り、身体の関係を迫る事をずっと、狙い続けていた。逃げ場のない閉鎖的な環境の中で、この過重な業務からの解放、そして後輩の立場を守るためにも、ヴァレーは自らの身体を差し出す事を受け入れた。
そして、その事実は誰にも明かしてはいない、明かすつもりもないものだった。

「……まさかあの男……ッ、それで、貴方に……」

「おお、物分かりが良いな。流石は先生だ。つまりは、そういう事さ。これからは時間の限りじっくり教えてやるよ。あんただけに、俺が起こして来た事件の全てをな」

それから、男は得意げに事件の詳細を語り出した。場末のバーで相手を物色し、声をかけた事。酒を奢り、酔わせて警戒を解き、自宅に誘い出す。そこからは互いに合意の上で薬物を使い、セックスに溺れさせた。

「——ぶっ通しで何日もヤりっぱなしだぜ。その間、相手を失神させた回数を教えてやろうか? 全員、俺に夢中になるんだ。最高だって泣きついてくる」

微に入り細に入り語られる濃厚な性行為の描写を聞かされ、ヴァレーは自らの脈が僅かに早くなっている事に気付いていた。

「——最後にゃ締まりが無くなってぶっ倒れたままさ。殺す前から死んでるみてえだろ。まあ、お堅い先生はそんなぶっ壊れるほどの過激なセックスなんて経験ないんだろうなあ?」

「…………」

「おいおい、どうした? 手が止まってるぜ。二度とは言わねえからな。それとも何だ? 俺の話で感じてやがるのか」

下卑た笑い声だけが、独房の中に響いていた。

「あんなくだらねえ男に抱かれてると思うと、全く腹が立つぜ。俺の方が絶対、満足させてやれるのによ……。そろそろ時間だな。報告を纏めて、あの男の所に持っていくんだろう? 管理官のゲス野郎に、よろしく伝えといてくれ。俺が吊られるその日まで、あんたで良い思い出を作らせてもらう約束なんだからな」

男はそう言うと、天井から下がるスクリーンに目を遣った。

「……まさか」

「ククッ、何を想像した? ああ。話した事は一言一句、俺の手口に相違ねえ。殺した奴の名前も全部、一致してる。これは先生のお手柄さ。どれほど責問所で拷問を受けようとも、尋問されようとも、俺は誰にも話さなかった。その後遺症で、今も手足はイカれちまって動かねえ。どうせ殺されるならだんまりでも良かったんだがな。つまらん奴らに話すくらいなら、死んだ方がマシさ。まだガイシャは二桁はいる。俺の最後の慰みになってくれてありがとうよ」

響く高笑いと、我が身に降りかかった卑劣な事実の数々に、ヴァレーは息をするのも忘れてしまっていた。瞳孔散大、過換気の症状の前触れ、喉の渇き、軽いパニックの寸前だ。

あの男——管理官は、身体を辱めただけでは飽き足らず、この受刑者の性的嗜好を把握した上で、ヴァレーの事を売ったのだ。司法取引とは名ばかりの、ただ犯行の仔細を聞かせるためだけに。

品性下劣な男たちの手中に、まんまと堕とされてしまっていた。管理官に嵌められた日。あの日、嫌悪の中で男に身体を明け渡した。だが——それからは抗いきれず、ずぶずぶと関係を続けてしまっていた。職場の中であるがゆえ、呼び出されればいつでも欲を発散させられる。それに、あの管理官は長年の付き合いである所長とは違い、行為の時に避妊具を付ける事はなかった。初めて感じさせられた、男の欲に身体の中を征服される背徳感。過酷な環境下から一時的にでも解き放たれる感覚と、齎される危険な陶酔。その過激な行為に、ヴァレーは溺れ、沈み、依存してしまっていた。
依存症の患者たちには元凶となる環境を立つようにと、常々指導を行ってきた。だが、これほどまでに環境と欲求とか癒合してしまっている場所で依存に逆らう事など、出来る筈もないだろう。

ヴァレーは男の独房を出ると、書き綴った調書に目を落とす。被害者〇一についての情報はほぼ完璧に得られたと言っていい。後は不要な情報を伏せて王都警察に渡せば、未解決の事件が一つ解決する。

「……はぁ」

彼は堪らず、大きな息をつくと目を閉じて扉に寄りかかり、額に手を添えた。
先ほどの男の話——。こちらの弱いところを責め立てるような執拗な性行為の描写の数々が、脳裏に浮かんでは離れない。脈は早く、身体は僅かに熱を持ち、指先はじわりと甘く痺れていた。