Recollection

 

この世に救いなどない——。

虚ろな目が見つめていた。

先刻まで確かに光を宿していたそれは、

もう二度とこちらの呼び掛けに応えることはないのだろう。

兵士の亡骸の上の、自らの手に目を落とす。

銀色の短剣が、握り込んだ手の中で紅く濡れている。

自分は一体、何者なのだろうか?

この世に、生を受けた意味とは。

勅命を受けた日のことを思い出す。

〝 本日より、この一式を身に付け職務に当たるように 〟 と。

受け取った箱の中に納められていたもの。

それは白く硬質な面と、短剣だった。
 

 

——ミゼリコルデ
それは古い言葉で『慈悲』の意を持つという。
短剣に冠せられた慈悲。それは即ち、戦場で瀕死の重傷を負った者たちに最期の一振りを与え、苦しみから救済する事。
与えられた新たな責務。それは、『戦場の介錯者』となる事だった。
柄に施された美しい細工、そして弔いの十字を模した姿は、確かに『戦場の介錯者』の名に相応しい。
短剣と共に納められていたのは、白い仮面だった。それは、敵味方の別なく慈悲を与えよ、という使命の故。
自らの素性を悟られぬよう。そして、明かさぬように。その身全てを、覆い隠すために。
元来、寸分の肌も露出させぬ装いは、不衛生な環境に於いて医療に携わる者の心得でもあったのだろう。
吐く息が、小さく震えるのを感じた。
陶製の面は、元は誰かを模したものなのだろうか。その顔は男とも女ともつかず、口元は僅かに緩んでいるように見える。
医療者としての道具を捨て、白面を付け、慈悲の短剣を手に取った。
これが、戦場の介錯者としての新たな正装だ。
頭から白布を被り、薄笑いを浮かべた面を嵌め、白い装束に身を包み、十字を模した短剣で慈悲を与える。
その姿に、生きている兵士らからは「死神だ」「見たくもない」「不吉だ」と恐れられた。だが、慈悲を与える時には大抵の者が「聖女様」「お慈悲を」「ありがとうございます」と言い残して絶命していく。
聖女様と聞いた時、初めは譫言を、と思った。だが、水面に映る己の姿を目にすると腑に落ちた。成程、今際の際にはそのように見えるのだろう。どこか他人事のように「ああ、よく出来た話だ」と呟いた。
そして、どうせならばと。兵士が自らに遺していったイメージを崩さぬような振る舞いや口調が身に付いた。

「——今、楽にしてあげますからね」

この姿に身を窶すうち、いつしか個としての性質は心の奥底に追いやられてしまった。
だが、それは決して、悪いことではなかった。こんな状況に、真面に向き合うほうがどうかしている。誰にも、何も知られる事もないのだから。最期くらい、望まれるような姿でいてやるのも一興だろう。
かつて医を志した者の端くれとして、戦場では使命と信念に満ちていた。だが、戦争が激しさを増すにつれ、治療をするための物資も底を尽き、惨たらしい姿の兵たちが日に日に増えていく。従軍した医師たちは、凄惨な状況に疲弊していった。
ある者は飢えに耐え切れず、ある者は病に倒れ、ある者は半狂乱となった兵士に噛み殺され、またある者は精神を蝕まれ失踪し、大抵は変わり果てた姿となり、そう遠くもない場所で見つけられた。そうしてひとり、またひとりと姿を消していく。
何もかもが足りない中、来る日も来る日も蛆の湧く腐れた手足を切断し、断末魔の中で傷口を焼き、もはや何の助けになるのかも分からない薬を与え続ける。
誰も彼も、限界などとうに超えていた。だが、薬だけは潤沢に支給された。その調達や調整は調香師たちの仕事だ。彼らがどのような組織や所属なのか、詳しい事は知らされていない。彼らが調整した薬には、高揚の効果があるという。彼ら調香師たちが戦場で重宝されたのは、こうした秘薬のためだった。一日数回、野戦病院のテント内に香薬が散布された。
この香りは、どうにも苦手だった。意識の階層が無理矢理に掻き混ぜられるような、どこか神経をざわつかせる不快な感覚に陥るのだ。
調香師達も皆、いつも浮わついた不快な笑みを浮かべている。それはかつて隔離施設に見た、薬物に侵された中毒者の様だ、とも思った。
しかし、この香薬が無ければ仕事にならないのもまた事実。屈強な兵士達の腕や脚を切断するためには、拘束台を使っても尚、数人がかりで抑え込まなければならない。半狂乱となった兵士達を抑えるには、満足に食事や睡眠も摂れていない医師たちではあまりにも非力だ。そうした医師らに不眠不休の活力を与えるため、あの香薬は必要不可欠だった。
意識を掻き混ぜられるような感覚は不快ではあるが、香薬を吸い込むと視界は一変した。テント内の腐臭や寄せ集められた臓物や糞便の臭いはかき消え、判断能力の低下しきった脳も幾許かは覚醒する。極限状態の中、もはや自身の見てくれもすっかりと変わってしまっただろう。だが、この香りを必要としながらも——まだ不快と感じられるうちは、真面なのかもしれない。
調香師の中には人の道を外れ、死んだ兵の身体を用いて禁忌の呪法を編み出そうとする者も居るという。それは噂ではなく、事実なのだろう。寝台の上の兵士を引き取ると言っては、彼らがそれを運び出す光景は日常となっていた。ましてやその兵士が治療の途中であったとしても、誰も彼らを引き止めるものなどいない。患者はひとり減ったところでまた増え続ける。
兵士の名前など、誰一人として知らなかった。彼らは皆、名もなく死んでいく。
誰のために戦ったのか。そして、誰に殺されたのか。仔細など知る由もない。どのような階級であっても、最期は変わり映えのしない呻き声や悲鳴を上げ、惨めな死を迎えるだけだ。
考えても仕方がないが、それはなんと不条理で、不名誉な事だろう。
何の救いもない世界ではないか。数多の駒のひとつとして、ただ戦場で命を散らされる。
その何と、無意味で無価値な事か。
戦場での死は名誉だと、誰が言ったろう。
その死に価値がないなどと言ってしまえば、命を賭して戦う者など誰も居なくなる。
それは弔いの言葉ではない。労いの言葉でもない。今戦場に赴く者を騙すための、呪いの言葉。それは、祝福などではなく呪いだ。愛国を問うている癖に、愛など微塵も感じられない。それは、この名もなき兵たちの遺体が克明に語っていた。

こうした失意の日々の中、先の忌まわしい通達が出されたのだった。
『本日より、この一式を身に付けて職務に当たるように』と。
——この時の感情を、一体何と言い表せば良かったのだろう?
「ふざけるな」か。「侮るのもいい加減にしろ」か。
医の道を志した者として、自らの手技に於いて人命を救う事は使命だと感じていた。職務には人並みか、或いはそれ以上の矜持を持ち合わせて臨んできたつもりだ。それをこうして散々使い尽くされた挙句。労いの言葉もなく、この惨状も見ずに。
紙切れ一つで『人殺し』になれと。
生かすのではなく、この手で奪えと。

疲労と焼き切れそうな思考の中。もはや立っているのが精一杯だった。
鳩尾が痛み、吐き気が込み上げる。視界がぐらぐらと揺れる。
その時、いつもと同じ——だが、何かが違うような香りが鼻腔を掠めた。調香師たちが快哉を叫んでいたが、もう後は耳に入らなかった。
肺腑の奥まで香りを吸い込んだ瞬間。怒りで沸騰しそうだった頭がどろどろと溶けていく。同時に押し込めていた、自覚しないようにしていた思いが頭の中を支配していった。

やっと、この日々から解放される——、と。

切断され、無造作に投げ捨てられていく手脚。
焼け焦げた皮膚の臭い。腹から流れ落ちる臓物。
耳にこびりつく悲鳴と、部屋中を満たす呻き。
そして、血膿から湧き出る蛆と肉蠅の群れ。

医師として、戦場で生きる意味。その全てを捨てて、箱の中身に手を伸べるのか。
否、やっと、この場所から逃れられるのか。
もう終わりにしたい、今すぐにでも逃げ出したいという切実かつ本能的な欲求と、医師としての自らを失い殺人者となる事への恐れとが綯い交ぜになり、どちらともつかない焦燥が頭の中を這い回る。
白い装束に身を包めばもう、この顔も、名前も、知るものなどない。
このまま全てを投げうって逃げ出せたなら? だが、この土地で放浪しておめおめと生き延びられるだけの力などない。それは、自分が一番良く分かっていた。
何かに属し——役割を与えられなければ。

初めから、選択肢など無かったのかもしれない。
縋るように伸ばした手は、ついに箱の中を掴んだ。

「見ろ、死神だ」
「あぁ、巫女様」
「嫌だ、来るな」
「どうかお慈悲を」
「この人殺し」
「——ありがとうございます、聖女様」

戦場の介錯者としての日々を送る中で作り上げた、聖女としての仮面——。
その内には役割を与えられたい、認められたい、愛されたいという欲求が、澱のように溜まっていった。

——抱えていた、兵士の亡骸に意識が引き戻される。
追想を終えて顔を上げると、ぐるりと辺りを見渡した。

リエーニエと呼ばれるこの地は、比較的穏やかだ。
先ほど慈悲を与えた、この兵士。彼は崖上で交戦していたのだろう。洞窟を探していた矢先、目の前に落ちてきた。肩の辺りをボルトで貫かれたのか、弾き飛ばされたうえに満足に受け身も取れず、地面に叩きつけられたのだ。ぐしゃり、と骨の砕ける鈍い音がした。死んだだろう、と思った。敢えて近寄る事はしないが、注意は怠らない。
暫くして、僅かに指が動いた。彼はまだ生きていた。こうした小さな変化も、戦場では見逃すと命取りになる。
倒れている兵士に近づき、様子を伺う。砕けたのは両脚のようだが、この様子だと腰骨も折れているだろう。口元からは血が溢れ、もはや喋ることすらままならないと見える。
ようやく解けた緊張と共に、兵士の前に姿を現した。同時に彼の瞳が、こちらを見る。
やはり兵士、なかなかに生命力は強いようだ。
——さあ、彼はどちらの反応を示すだろうか。

死神か。
それとも、聖女か。

しかし、その反応は意外なものだった。
彼は口に溜まった血を吐き出すように咳込むと、振り絞るような声で『自らの名』を告げた。そして、「頼む、この地に墓を立ててくれ——」と、そう言ったのだ。
この姿に身を窶してからというもの、数多の騎士や兵士に慈悲を与えて来た。だが、そのような事を言われたのは初めてだった。もしかしたら、偶々そのような死に際に当たらなかっただけで、さして珍しいことでは無かったのかもしれない。
それでも、それは酷く印象的だった。他に何か言い遺す事はないかと待ってはみたが、後には笛のような喘鳴が聞こえるのみだった。

——分かりました。今、楽にしてあげますからね。

そう告げて、慈悲の短剣に手を掛ける。兵士は目を閉じると、身体を委ねた。

それが、先刻の事だった。
陽は傾き、この地域特有のしっとりとした雨が降る。
首元に突き立てた短剣からは紅い血が滲み、筋のように流れていた。
彼は自らの名を告げて、この私に「頼む」と言ったのだ。死神か、それとも聖女かと、何かに擬えられる事にも慣れ、個としての性質はすっかり押し込めたつもりでいたのに。
彼は確かに一人の人間としてこの私に話しかけてきたのだと、そう感じた。

——今はただ、虚ろな目が見つめている。
先刻まで確かに光を宿していたそれは、もう二度とこちらの呼び掛けに応えることは無いのだろう。
唐突に、喪失感が全身を襲う。ぼう、とした頭で逡巡する。
自分は一体、何者なのだろうか? この世に生を受けた意味とは?
兵士の鞄から、幾つか道具が転がり落ちた。それと同時に、覚えのある香りがした。
切掛は、何だって良かったのかもしれない。

その瞬間。何かにこの身を委ねたいと、愛されたいと。
誰かに必要とされたいと——強く願った。