「どぅぇええええー!!!」
町の片隅の寂れたお屋敷に、僕の声が響き渡る。
「こ、これ! 全部ですか?!!」
「ええ、何か?」
「何か? じゃないですよ! 見てくださいよこれ!」
そう言って僕は長い紙を彼の目の前にずいと突き出した。
「見てくださいも何も私が書き置きしたものですが」
いやまあそうなんですけど!
——話は昨日に遡る。
ヴァレーさんからの提案として、「小間使い」としてこちらで働く事に諸手を挙げて喜んだのは僕だった。
初めてここに来てからというものの、僕はこのお屋敷の、というかヴァレーさんの虜になってしまった。
物腰は柔らかで、なのに近寄りがたそうで、そのくせ話してみれば意外と話好き(でも自分からは話さない)。そしてあの未だによく分かっていないミステリアスな儀式。
僕の元々の怪奇趣味と此処のお屋敷の雰囲気も相まって、ちゃっかり謎の秘密結社の一員になってしまった事もあり。
なんだかすっかり嵌まってしまったのだった。
そして期待に胸を膨らませての、お手伝い初日の今日である。
お屋敷に来てみると、机の上には僕宛てにと書き置きされた紙があった。
そこには、こう書かれていた。
——庭の草引き、窓拭き、掃き掃除、雑巾掛け、食器洗い、食器磨き、リネン類の洗濯、色々な布やら難しい名前の器具やらの煮沸消毒、諸々の医療用道具や生活用品の買い出しエトセトラエトセトラエトセトラ——
ふむふむ。
ふむふむふむ——ん?
「でぇええええー!!!?」
そうして話は冒頭の叫びへと戻るのだった。
「これってまさか、ここの事全部じゃないんですか!!?」
驚く僕を尻目に、ヴァレーさんが言う。
「ええ、そうですよ。今までは定期的にどなたかがいらっしゃるので色々とお願いしていたのですが、日程的に必ずというわけでもありませんしね。特に庭なんかはどうしようもないのですよ。私が表に出るわけにもいきませんし。——あぁ、貴方がお暇で本当に良かった」
彼はパチンと手を合わせると、仮面の奥の目を細めた。
確かに庭は荒れ放題で、そのおかげもあって幽霊屋敷というか、あの寂れたお屋敷館が醸し出されていたのだが。
いや、そもそも普通に外に出ても良いのでは? ヴァレーさんがせっせと草引きをしているその絵面は、確かに中々シュールだとは思うけども。
「尤も、庭は定期的にしてくれていた方がいらっしゃるんですがね。最近は別の事をお願いしているのでこちらはおざなりになっているんですよ。それに、今日は彼の来る日ですね。ちょうど良い機会です、ご紹介しましょう」
いやいやいや。
しれっと話を次に進めないでほしい! ちょうど良い機会です、とかじゃない!!
僕がぱくぱくと何かを言いあぐねていると、お屋敷のベルが鳴った。
「あぁ、噂をすれば。こちらで少しお待ちくださいな」
そう言って、すたすたとヴァレーさんは行ってしまった。
——玄関で何やら話し声が聞こえる。昨日の人よりもでかい声だ。
すると、ドカドカと体格の良い男性が部屋に入ってきた。
「おう! 先客か!!」
第一声を聞いて、
「あ、なんかタイプ違うな」と思った。
『血の指』などと言うからには、勝手に皆、陽の光が嫌いそうな妖しい人たちのイメージがあったのだが。
目の前の男性は日に焼けて、がっしりとした体格で快活そのものだ。
決めつけは良くないが多分、いやきっと、僕があんまり得意な感じではないだろう。
「貴方、彼が先日話していた記者の方です」
ヴァレーさんが僕のことを男に紹介した。
「そうかい、ひとつ宜しくな」
「そして貴方は……今は造園でしたか?何でしたか?」
「地主っつうか農業経営家だな。まぁ、最近は俺が居なくても回るから肩書きなんかどうだっていいさ」
「——そうですか。こちらの彼からはいつも、山羊の乳に羊の肉や野菜などと、新鮮な食料をいただいているのですよ」
ヴァレーさんは男の事をそう紹介した。
農業経営家、か。
確かに近頃新聞でも、農業の効率化! だか農業革命だかのうんたらかんたらが話題になっていた気がした。爺ちゃんは畑仕事をしているから僕にも目を通しておけと言ってきたが、申し訳ない。全く興味がないので何にも頭に残っていなかった。
「あ、つってもこの人は料理しねぇからな」
男はヴァレーさんを親指でついと指さす。
「まぁ、失礼な。せっかく上質なものを分けていただいているのですから、分かる方にお任せしているだけですよ」
「はっ、相変わらず口だけは良く回るよな」
この男性との会話を聞くに、昨日の人とはまた、全然付き合い方というか関係性が違うものだな、と思った。
昨日の調香師の人はもはやヴァレーさんに入れ上げているかのような剣幕と雰囲気だったけど、目の前の男とはある程度冗談というか、軽口を言い合える仲のようだ。
とすると、わりと古い付き合いなのだろうか。
——スケジュールの管理も僕の仕事らしいので、彼の素性だとかはあとで手帳にちゃんとメモしておこう。
「では、私は少し席を外しますから、どうぞお二人でご歓談ください。——あ、そこの彼ですが、未成年でした。あまりいじめないであげて下さいね」
ふと顔を上げると、いつの間にかヴァレーさんは一人、部屋の出口へと向かっていた。
部屋の戸がバタンと閉じられ、僕と経営者の男が広間へと取り残される。
今、ヴァレーさんが何かしらの釘を刺してくれたように聞こえたのだが、この男性は初対面なのに失礼な事でも言ってくるのだろうか。
やや警戒しながら様子を伺っていると、先に相手が口を開いた。
「ふーん。お前さん未成年かい」
彼は僕を品定めするかのようにじろりと見渡した。
「はぁ」
「記者だと言っていたが、何かここに提供できるものはあるのか?」
「いえ。あ、でも今日からここで働くことになりましたよ。小間使いとして身の回りのお世話だとか、スケジュールの管理だとか——」
僕が説明していると、言い終わるか終わらないかのうちに目の前の男が盛大に吹き出した。
「ぶ、ぶはははは!!! 身の回りの世話か、そりゃ良いや。お前さん、まだ何も知らないのに良いように使われたなぁ。言っとくけどな、あの人はあぁ見えて人使いが荒いぞ。ま、兄ちゃんが頑張ってくれるなら俺らは助かるってなもんだけどな。あとは何だ? スケジュール管理か? まあ、そりゃ良いかもしれん」
今、うっすらなんだか恐ろしい事を聞かされたような気がする。確かに、今朝から早速その片鱗を味わった気もしたのだが気のせいだと信じたい。
僕が訝しんでいることを知ってか知らずか、男は話を続けた。
「それにしても、スケジュール管理は助かるだろうな。俺は前が誰だろうと気にならねぇしむしろ後でも良いぐらいだが、他のやつはみみっちいから色々と煩くて敵わん」
順番が前だの後だのと、それは血の儀式の話の事だろうか。
確かに、昨日の調香師の人は恐ろしく僕の存在が嫌そうでさっさと帰ってしまった。
「俺も少し前まではここに色々と手伝いに来てたんだが、最近はバラ園と珈琲園の整備の方を頼まれててな。調香師の野郎の所に行くのはいけすかねぇが、あの人の頼みとあっちゃ断れねぇよ」
ふと、男は時計を見て何か独り言ちた。
——今日は時間的にもまぁまぁってとこか。
「なぁ、兄ちゃん。今日はずっとここに居んのか?」
「ええ、多分。終わったら帰って良いと言われてるんですが、まだ何も手についていなくて」
「そうかい。うーん、ま、大丈夫か」
男の言葉は僕に向けられたものではなく、一人で何かを納得すると、此方に向けてまた別の話を振ってきたのだった。
彼と話し始めて、一刻ほど経っただろうか。程なくすると、ヴァレーさんが姿を現した。
「あのー。今日ってある程度したら帰ったほうがいいですか?」
「どうしました? 彼に何か言われたのですか?」
ヴァレーさんが、やや厳しい目を男に向ける。男は両手を顔の前にあげて、俺は何もしていないぞと言うように顔を横に振った。
「そういうわけじゃないんですけど。昨日みたいにお邪魔だったら悪いなぁと思って」
ヴァレーさんは少し考えるような素振りをすると、男の顔をちらりと見遣って僕に言った。
「いえ、彼がせっかくご馳走を持ってきてくれたことですし、居てもらって構いませんよ。食事もお出ししましょう」
焼くのは俺じゃねぇかと、隣の男が軽く声を上げる。
ヴァレーさんはその声を無視して続けた。
「仕事の話もありますし、上の掃除もお願いしたいところなどもありますから、此方に戻って来るのはしばらくかかるでしょう。することが終わりましたら、どうぞ食事の用意ができるまでゆっくりなさってください。
ご用があるなら、裏口から勝手に帰ってもらっても大丈夫ですよ」
「——おう、そういう事だとよ。俺んとこの肉はうめぇぞ。暇なら食ってけよな」
そう言い残すと、二人は上の階へと消えていった。
広い部屋に僕はぽつんと残された。
夕飯まではまだ結構ある。あと五、六時間くらいだろうか。
ここの言いつけで、”来客中は邪魔をしてはいけない” のだ。
定職に就いた事のない僕には分からないが、大人の仕事の話ってきっと大変なんだろうな。
——もはやあっさりと流され、抗議も忘れ去られてしまった書き置きの紙に、もう一度目を通してみた。
うーん。
よし、美味しいお肉も食べられるみたいだし。
今日はとりあえず、暗くなるまで庭の草引きでもしてこようっと。