失くしたものの行方

 

のどかな田園地帯を、馬車がその車体を軋ませながらガタ、ガタと進んでいく。

「あれ、最近よく見るようになったわねえ」

「なんでも、宮廷のお貴族さまたちの乗り物だそうよ」

「そう、じゃあ私たちに縁はなさそうね」

祝祭用の針仕事を終えた女が言った。

「よし、今日の分は終わりね」

「ええ、ありがとう。また明日」

「また明日」

女は他の者たちに挨拶をすると、家路に着くためにその場を後にした。
彼女は祝祭の準備で賑わっている広場を抜けて、開けた丘の上の小さな白い建物へと足早に進む。

女が目指していたのは、教会だった。
この村の神父が彼女の夫なのだ。

舗装もされていない砂利の小道を、女はさくさくとテンポ良く歩いていく。
町の喧騒から解き放たれ、心地よい風が身体を撫ぜた。

我が家である丘の上の教会に辿り着くと、裏庭に夫の姿が見えた。

「——あなたたち、戻ったわよ」

男がこちらに目を向けた。

その足元に、年は五つくらいの子どもが寄り添っている。

子どもはその女の姿を見ると、その年齢にしては慎み深く、また明瞭な発音で

「母さま、おかえりなさい」

と言ってにっこりと笑顔を浮かべ、彼女に走り寄ったのだった。

愛する伴侶に、最愛の息子。

傍から見ればその光景は、まさしく幸せそのもののように見えただろう。

女は、移民の娘だった。
夫も、この土地の人間ではなく、信仰を広めるために他所からやってきた者だった。

幸いにしてか、男は聖職者ではあるものの妻帯が認められている宗派に属していた。
土地に馴染まぬ二人が距離を縮めるのはそう難しいことでは無く。
そのうちに二人は夫婦となり、子どもにも恵まれた。

彼らの息子は同じ年の子と比べても利発で聞き分けも良く、たいそう手のかからない子どもであった。
二人にとっても、自慢の息子だった。

その子が四つになる年を祝した日のこと。
突然に、彼がこんな事を言い出したのだ。

「とうさま、かあさま、モーグさまを、しっていますか」

「もーぐ?」

父と母は聞き返した。

「モーグウィンおうちょう、わたしがまえにいたところです」

「モーグウィン、王朝?」

聞いたことがない名前だった。

「モーグさまは、いまどこにいるのですか?おうちょうは、どこにあるのですか?」

母は我が子のきらめく金の瞳を見つめるとこう言った。

「どうしたの、何か悪い夢でも見たのかしら。あなたの家はここよ。安心してちょうだい」

男は何も言わなかった。いや、言えなかったのかもしれない。

男は不吉な予感がしたが、多感な子どもの言うことだ、夢と現実と妄想が頭の中で坩堝のようにくるくると混ざり合っているのだろうと、きっとそうに違いない、と思うことにした。

そうして、じきに収まるだろうとも。

しかし、子の「モーグウィンおうちょう」の話は一向に収まりを見せず、ぼんやりとしていたその言葉や概念は次第に形を成し、はっきりとどのようなものであるかが聞いて取れるようになっていた。

「モーグさまには、ちからと、いしと、あいがあります。モーグウィンおうちょうは、そのあたらしいおうちょうです」

夫婦は子の成長に一抹の不安を抱えながら日々を送っていた。

そして、神父はついに、彼にとって決定的な一言を聞いてしまうことになる。
それは彼の息子がひとり、教会の裏手の庭で遊んでいた時のことだった。

妻は朝から祝祭用の針仕事に出ていた。

男は小さな教会の中の、聖像画に祈りを捧げていた。それが終わると、食事のために息子を呼びにいこうと思っていたのだった。

祈りが終わり、息子の様子を見に行くと、子は砂地の上に体を投げ出し、石や花や葉っぱを使って見立て遊びをしていた。

——どんな遊びをしているのだろうか。

それは純粋な親心から来る好奇心であった。
彼はそっと背後に回って、その言葉を聞いてみた。

しかし、その内容は彼が親として期待したような遊びのそれではなかった。

「ここはモーグウィンおうちょう、わたしはそのみつかいです。モーグさまは、神とともにいます。神さまがめざめなければ、おうちょうは開かれません」

「神、だって?」

「あ……父さま」

「今、神と言ったのか」

「はい……」

息子は決まりが悪そうに答えた。

「その神とは、我々が信ずる神と同一か?」

子どもには難しい言葉だっただろうが、この時の神父には余裕がなかった。

頼む、そうだと言ってくれ——

「——いいえ」

男は息子のその言葉に、何かがガラガラと音を立てて崩れていくような心地がした。
そして子の腕を掴み、引き立たせると真剣な眼差しでこう言った。

「その神の話は忘れなさい。お前が信じるものはここにある。毎日のお祈りもしているだろう。お前は一体何を祈っているというのだ」

男はそういうと、息子に十字架を握らせた。

「……ツッ!」

握り込まされた十字架を、彼は反射的に手放した。

神父は絶望的な眼差しで息子を見た。

「——あなたたち、戻ったわよ」

「あ、母さま、おかえりなさい」

妻が針仕事を終え、帰ってきたのだった。
子は何事も無かったかのようににっこりと言うとそちらへ向かって走り出し、神父からその身を隠すようにした。

「あら、何してたの?」

「あ……あぁ、何でもないよ。ちょうど昼食にしようと思っていたんだ、さ、家に戻ろう」

神父は二人を先に立たせ、建物の中へと向かった。
その手に、十字架を強く握り込みながら。

その晩、子どもが寝静まった後に神父は妻を呼び出した。

「——おまえは、あれの言うことをどう思うね」

「あの子は利発で聞き分けもよいですが、まだほんの子どもです。近くに遊ぶ子どももいませんから、現実と想像の区別がつきにくいのでしょう。あなたもそう仰っていたじゃないですか。じきに収まるだろうとも、」

「今日あれは、自分が仕えているのは我々の神ではないとはっきり言った。そしてこの十字架を拒んだのだ」

「ですから、きっと——」

「あれについているのは悪魔だ。そうに違いない。あの訳の分からない王朝とやらの話を外でもし初めたらどうする? 神父の家のひとり息子が悪魔憑きだと知れたらどうする? やっとこの土地にも馴染んで来たんだ。もしそんな噂が広まれば焼き討ちにでも合うかもしれないだろう!」

神父は机を叩いて声を荒げた。

「あなた、落ち着いて。もうあの子も分別がついてくる頃でしょう。わたしからしっかりと言い聞かせますから」

妻は、得体の知れないものへの恐れと怒りで正常な判断能力を失いそうになっている夫を必死で宥めた。
だが、彼の心は既に固まっているようだった。

「言い聞かせたとて、あれの内に悪魔が住み着いているのなら何の解決にもなりはしない、悪魔憑きであれば祓うことでしか解決ができん」

「悪魔祓い——ですか」

「そうだ、そうと分かればなるべく早くそうしなければならない。あれが『王朝』の話をし始めてからもう1年が経とうとしている。もしその身の内に悪魔が巣食っているのであれば手に負えないほど強大になっているかもしれないのだ」

「それは、どのような……」

「我々のためなのだ。決して情を挟んではならない。わかるか」

妻は表情を硬くして夫の顔を見遣り、小さく頷いた。

「——悪魔祓いに必要なのはその道に通じた主教様と教会、そして、悪魔に憑かれた者の家族だ。悪魔が憑いていれば、祈りを捧げた時にその者は酷く苦しむだろう。そして、悪魔が一度で排除されなければ何度も繰り返し、繰り返し行う必要がある」

「そんな、苦しむって、あの子はまだ五つにもならないのですよ。苦しまずに済む方法を探すのが先じゃない」

「いや、これしか方法は無い。そして時間に猶予も残されていない。私は都会に出て司祭様を呼んでこよう、それまであの子と一緒に待っていてくれ」

神父は縋る女を押し退けてそう言い残すと、マントを羽織り夜の闇へと姿を消した。

女はどうして我が子がと咽び泣き、自らの神に祈りを捧げた。
神よ、どうか私たちの子を救ってください——。

そうして悪魔祓いのその日、司祭と神父は典礼に則り、魂の浄化のためにその祈りを捧げた。

子はその物々しい雰囲気に気圧され、嫌そうなそぶりを見せたが、その祈りの間に母が酷く心配していた悶え、苦しむといった様子は見られなかった。

母はそれを見て安堵した。
しかし父はその逆で、何故何も反応がないのだと憤った。

一連の儀式が終わると、司祭はこれではまだ悪魔は追い出されていないと言い放ち、次の日取りを神父に取り付けたのだった。

儀式から解放された子どもは、母の腕に抱かれるとこう言った。

「……母さま、あくま、とはどのようなものなのですか? それはわるいものなのですか」

「ええ、でも大丈夫、あなたは何も気にしなくていいのよ」

その後も度々執り行われた悪魔祓いにさしたる効果はなかったが、神父はまだ足りないと言って司祭に儀式の延長を再三に渡り要求した。

幾度目かの儀式が終わると、母に介抱されていた子どもが小さく呟いた。

「……母さま、父さまはいつまであのようなことをわたしになさるのですか? もうずっと、口もきいてもらえません。わたしはなにかわるいことをしているのでしょうか」

「いいえ、あなたのせいじゃないのよ。私も何か、考えてみるわ」

このまま夫に任せているわけにはいかない、と女は思った。
何か、きっと何か違う方法があるはずだ。

彼女は村に住む占い師の婆様に子どものことを打ち明けた。
婆様は女に手を見せるようにと要求し、そこから何かを読み取ると村の外れ、異端の預言者のところへ行くようにと伝えたのだった。

ある晩、女は子を連れてこっそりとその預言者の元へ向かうことにした。
それは貞淑な妻が行った、はじめての夫への裏切りだった。

二人は黒いフードを目深に被り、寝ている神父に気付かれないようにそっと家を出る。

満月の綺麗な夜だった。
それは子の、五つになる誕生日の前日でもあった。

小さなカンテラを灯し、月明かりとその灯を頼りに、二人は町外れの小さな小屋へと辿り着く。

何かのまじないに使うのだろうか、小屋には干された動物の手足や祈祷文のようなものがぶら下げられ、貼り付けられ、カンテラの灯に照らされた地面には謎の紋様が所狭しと書き綴られていた。

一見するとただの狂人の家にしか見えない。
ここで本当に、大丈夫なのだろうか——。
子どもを取って喰われたりはしないだろうかと、女は一抹の不安に襲われた。

足元に付いてきている我が子を見る。
いや、この子を助けられるのは今や私だけなのだ。

女は意を決して、家の戸を叩いた。

「ごめんください」

家の中からは、白髪の老人が姿を現した。
老人の身に纏う装束には、家の表で見たような祈祷文が所狭しと書き綴られてあった。

「村の婆様からこちらを聞いてお訪ねしました。我が子を助けてはいただけないでしょうか」

「そうか、足労だった。早く、小屋に入りなさい」

預言者は辺りを警戒するように見渡すと、二人を家の中へと招き入れた。

「その子は、どうしたのかね」

預言者が二人に向き直ると、そう聞いた。

「ええ、この子は四つの誕生日を迎えたあたりから、私たちの知らない場所の話をするようになってしまったのです。生まれた時からお腹のところに変わった痣があり、色々と心配していたのですが……。
私の夫は神父です。今は司祭に頼み、悪魔祓いを試みていますが恐らく効果は出ていません。
夫は、そんな事はないの一点張りで、最近はまともに話もできません」

女の子どもは物珍しいのか、預言者の家の中のものをあれこれと見て回っていた。

「ほれ、そこな子よ、この儂にもお主の話を聞かせてはくれまいか」

預言者はそう言って女の子どもを呼び寄せると、その「お話」をするようにと促した。
子どもは喜んで、その話を伝えた。

女は子どもが嬉々としてその話を語る中、憔悴しきった顔でその様子を見つめていた。

「——この子に憑いているのは悪魔ではない」

ひと通り話を聞き終えた預言者がそう言った。
その顔は、どこか恍惚として上気しているようにも見えた。

「この子は素晴らしい、いや、私も初めて見聞きをしたがこの子は私たちが預かり知らない世界の創生の記憶を持っているのかもしれない。——この子はまさしく神の使いだ」

憔悴していた女は、その言葉に衝撃を受けた。
我が子は悪魔などではなく、神の使いなのだと。

「しかし、預言者様。その神こそは、私たちが云うところの悪魔や邪神の類ではないのですか」

「無論そうと言えるかも知れぬが、お前の信ずる神が他教にとっては如何であるのか考えた事もないのかね。ああ、あれはこの日のためのものだったのか」

女の話も半ばに、男は戸棚を漁ると、瓶に入れられた真っ赤な液体を取り出した。

「これは遥か極東に伝わる、神聖な生き物から齎されたとされる聖血だ。腐ることもなく、今なお生命力に満ち溢れている。この血を飲めばこの子は自らの使命に目覚め、ひとりでに歩き出すだろう」

「まあ、血を飲むだなんて、そんな恐ろしい事——」

「血を飲むのはそう恐れるような事でもない。古くは十一世紀頃から、うら若き処女の血を飲む事で万病を克服することが出来たといわれている。それとも何もせずに夫の待つ家に帰るかね」

女は長考の末に漸くその意を決すると、我が子にその血を飲ませてください、と預言者に請うた。

子どもは抵抗するそぶりも見せず、言われるがままに手を杯のように差し出した。
その聖血が小さな手の中へと注がれていく。彼はそれに口をつけると、ごくりと飲み下した。

杯とした手からは血が滴り、飲み下したその口の周りからも血が伝って、垂れ落ちていく。
それを飲んだ瞬間——それは彼にしか分からない感覚であったのだが——彼の身体はぼうっと熱くなり、指はどくんと甘い疼きを訴えた。

数口も飲み下すと子はその顔を顰め、頭を振った。

「もう十分だろう、あとは己が運命に身を任せるがよい」

男はそう言うと、子どもの口元の血を布で拭ってやった。

女はその光景を見つめていたが、もはや自分のした事が正しい事だったのかは確証が持てなかった。
どちらにせよ賽は投げられた。もう後戻りはできないのだ。

正しいのは、夫だったのか、預言者だったのか。

それとも、どちらの言うことも聞かずに、いっそこの子と行方をくらませてしまえばよかったのだろうか。

 

◻︎◻︎◻︎

何てことを! 神父の妻が異端の預言者なんぞに唆されて、穢れた呪(まじな)いの血を飲ませるなんて!

そんな、あなたの悪魔祓いなんて、あの子には何の意味もなかったじゃないの!

あれはすぐに効果が出るものではないのだ!だから、だから信仰の分からない移民の娘など——

な、何ですって? あなた、それが本心だったのね?

いや、違う、ああ、どうして分かってくれないのだ! お前たちは! 二人とも! 二人とも神を冒瀆している! それがどうして分からないのだ!

厳格な父の手から燭台が飛んだ。
それは母には当たらず、祝祭用の衣装へと投げ込まれた。

火はその白い装束に燃え移り、一際大きく燃え盛り、その勢いを増していく。

——そこからの記憶に、音は残されていない。
その光景は頭の中の見立て遊びのように現実感がなく。

燃え盛る炎、打ち据えられる母、半狂乱の父。
ああ、いつか見た人形劇のようだとも思った。
パンチとジュディ、そんな名の喜劇だったろうか。
あれは最後に悪魔を殴り倒して終わるのだったか。

そうして母は家を出た。
大方預言者のところへでも行ったのだろう、と言う声が聞こえた。
母は行方知れずとなり、父と二人家に残された。
どうして母が連れて行ってくれなかったのか、それは分からなかった。
母も、父も、誰も信用はできない。
私を写すその目に愛はなく、あるのは憎しみや恐れだけ。

父からは度々こう言われた。
このおぞましい——悪魔憑き、と。

父は何事もなく振る舞っていれば機嫌が良かった。

「これはね、私の自慢の息子なんですよ」

今更何を。義理立ててわざわざ喜ばせる必要などありはしないが、大切な使命を敢えて語る価値もない。

七つになると家を出された。もう奉公ができる年だろう。どこへなりとも行ってしまえと。
他の子どもとてそうだろう。さしてそこに感傷などもない。

そうして、今世に於いて与えられた自らの名前を捨て、前世の名を再び名乗り、生きることにしたのだ。

この身に備わったこの記憶と名前、身体に刻まれた三又の痣、そして血の祝福。

全てが溶け合って、一つの答えに収束していく。

ああ、前世からずっと、お慕いしていました。

またかつてのように、私の身にその血の祝別を与えてくださったのですね。

あの日、この身体が血を受け入れたのは偶然では無かったのでしょう。

この世界で信じられるのはただひとり。

今世でも私を愛し、この身を重く、重く取り立ててください——。

 

◆◇◆◇

「——ねえ、今朝の記事を見ました?」

「ああ、あのお屋敷のでしょう」

「そうそう、まさかねえ」

「あんなひどい事……!」

「だったら当然の報いかもね」

「ペローの『青ひげ』の再来ですって」

「三男坊のことよね?まだ成人そこそこじゃなくって?」

「厩舎の男が証言したそうよ、記事にあった地下室の——。ああおぞましい、とにかくあれは全て三男坊の仕業なんですって」

「それがどうして野犬と烏に?」

「さあ、血塗れで半狂乱になって走り回ってたんでしょ」

「じゃああれよ、ローダナムの常習だったのよ」

「そうに違いないわ、ああ、こわいこわい」

朝から何やら井戸端会議に夢中になっているご婦人方の横を通り、僕は足早にお屋敷へと向かっていた。

今日はちょっと朝寝坊してしまった。
とりあえずの朝食を口に押し込んで慌てて爺ちゃんの家を飛び出した。
いつもはスクラップにするための面白い記事でも無いかと新聞に目を通してくるのだが、今朝はその時間も無くて鞄に新聞を突っ込んできてしまった。

まだ読んでないぞと爺ちゃんに怒られるような気がするが後で謝ろう。
僕は曲がりくねった林道を抜けて、目指すその先へと急いだのだった。

「おはようございます! すみません、今日は少し寝坊してしまいました——」

「おはようございます。よく眠れたようで、何よりです」

ヴァレーさんはそう言って白面の奥の目で微笑んだ。

どうやら、怒ったりはしていないようだ。
僕は内心ほっとした。
いや、怒ったところなどまだ見たこともないのだけれど。
そう、ヴァレーさんは確かに人使いはちょっとアレだし不機嫌を隠すような事はしない人だけど、表立って怒りを露わにする事はあるんだろうか、などと余計な事を考える。

「どうぞ、お入りください」

促されるままに玄関を抜け、広間へ入るといつもの天鵞絨の大きなソファを勧められた。

ドアが開けられた時から思っていたのだが、部屋の中にはいつにも増して甘い香りが残されていた。
あの人が居なくなって初めて分かるが、やはり匂いの存在感というのはなかなかに強いものなのだ。

「なんだかこの匂い、いつもと違いますね。もっとずっと、甘くて」

「ああ、そうですか。昨日は朝からずっとでしたから、鼻が麻痺してしまって私にはもう分からないのですよ。コーヒーを淹れてみたのですがさっぱりです。気分が悪くなるような匂いでなければよいのですが」

ヴァレーさんは目立たないようにあくびを噛み殺すとそう言った。もしかすると、少し寝不足だったりするのだろうか。

「昨日って、朝から来られてたんですか? 香りそのものはいい匂いなので大丈夫ですよ」

「それはよかった。おや貴方、今日は新聞付きなのですね」

「え?」

ヴァレーさんが急に話を変えて、僕の鞄からひょいっと新聞を抜き取った。
あまり町のことは知らないしこういったものも殆ど読まないとは言っていたが、たまには気になることもあるのだろうか。

パラパラと紙を繰り、所在なさげに走らされていたその金色の目が急にピタリと止められた。
いつ見ても綺麗な目と睫毛だなあと、僕はすっかり見惚れてしまう。
そう、所作とてどこか甘やかで。手の動きと言えばいいのだろうか。先程の新聞を抜き取るなんともない手付きだって、その指先の動きに至るまでしなやかで優美なのだ。僕も真似してみたいけど、一朝一夕に出来るものでもないよな、とふわふわと手を動かしてみた。

「あ……」

その綺麗な瞳が、急に酷く忌まわしいものでも見てしまったかのように狼狽え、歪められた。
そのまま口元に手を当てると、新聞が膝の上へぱさりと落とされた。

「だ、大丈夫ですかヴァレーさんっ、気分でも?」

「…………彼です。やはりそうでしたか。いや、しかしここに書かれていることは……」

「え?」

僕はヴァレーさんの膝に落とされた新聞を取り上げると、その記事へと目を落とした。

何々——。

“XX家の三男、遺体で見つかる。
遺体はすでに損壊が酷く、身に付けていたものから身元が判明。人肉片が当たり一面に散らばっているところを近隣の市民が発見、通報。
野犬か烏に荒らされたものと思われる。
事件性は不明。
また、厩舎の使用人が彼の悪行を証言。
地下室に無数の女性と見られる白骨、腐乱死体。
引き続き関連を調査中”

「うわ……。物騒な事件ですね。この名家の三男坊って、もしかして昨日の……?」

「ええ、行方不明の彼です」

ヴァレーさんはそれだけ言うと、面の口元に手を当てたまま大きな溜息を吐いて目を閉じた。白銀の長い睫毛が瞼の動きに合わせて小刻みに揺れた。

「あの、大丈夫ですか?」

「ええ、少し頭が——」

「今日は少し休まれてはどうですか?もし何かすることがあるなら僕が代わりにしておきますよ」

僕はそう申し出た。僕なりに精一杯空気を読んでみたつもりだ。今は一人になりたいのではないかと、なんとなくだがそう思ったのだ。

それを察してくれたのかは分からないが、ヴァレーさんが言葉を返した。

「——ありがとうございます。それでは、ご好意に甘えましょうか。今日は急ぎの事はありません。貴方も休暇ということでご自由にどうぞ」

それだけを言うと、ヴァレーさんは足早に二階へと向かっていった。
やはり、気疲れだろうか。
行方不明の彼はあまり好ましくないと他の人たちも言っていたけれど、血の指である事には変わりはなかったのだから、ヴァレーさんとしては彼の失踪とその変死にどこか責任のようなものを感じているのかもしれない。
体調も気になるし、また昼食のタイミングにでも声を掛けてみたほうが良いだろうか。

うーん、そうなると僕は今日は何をしよう。
ああ、そういえば少し前にこんな事を聞いたんだった。

“本も、趣味ではないものもたくさんいただいたのでどうぞお読みになってください” って。

ヴァレーさんの蔵書、興味あったんだ。
休暇とは言われたけど今日は書斎の片付けなんかをしつつ、読書の日にでもしようか。
僕はヴァレーさんの様子が気になりつつも、胸を高鳴らせながら書斎へと向かった。
書斎は一階突き当たりの左の部屋だそうだ。

「あ、この部屋かな」

鍵穴はあるものの、鍵はかけられていなかった。
木製のずっしりとした扉を開く。
部屋は暗く、ひんやりとしていた、そしてこれは、そう、紙の匂いだ。

カーテンを開けて、部屋の中に外の光を取り込む。
部屋には壁一面に本棚が置かれており、本は整然と並べられていた。
見ると新しく綺麗な本が殆どだが、下の方には古めかしい本もたくさん並べられている。

「わあ、書斎というか、図書室じゃないか」

僕は感嘆の声をあげた。
そう言えば、ここへ来てから目まぐるしかったから、ゆっくり本を読む時間なんてなかったなぁ。
昔にたくさん貰ったヴァレーさんの趣味じゃない本ってどんなのだろう?
気になった僕は本棚に目を走らせた。

「医学典範」
「医学新実地」
「解剖医療体系」

ああ、こっちは専門書の棚か、文学とかは読まないんだろうか。
僕は部屋の中をぐるりと見渡した。
あ、こっちはどうだろう。新しくて殆ど手付かずな感じがする。

「解き明かせ! 知られざる巨人戦争の謎」
「巨大隕石墜落! 100年目の真相」

ううん。内容はまあまあ面白そうだけどなんだか微妙なタイトルだな……。
趣味じゃない本ってこういうのの事かな。
作者は誰だろう、えーっと……。

…………ん?

ええええええええ!!!!!

ひい爺ちゃん!!!??

ちょっと待って、どうしてひい爺ちゃんの名前がこんなところに——って、あれ?
そもそも、このお屋敷の話を聞いたのはひい爺ちゃんからだ。
そう言えばヴァレーさん、僕に初めて会った時に何処かでお会いしましたか、って。

いや、まてよ。僕は昔ひい爺ちゃんに連れられて図書館によく来ていた気がする。
その時にひい爺ちゃんはそこの司書というかシスターと話を……。あ、それって、もしかしてここ——。

そうか。
僕、ここに来たことあったんだ。

頭にカミナリでも落ちたような衝撃で、僕は呆然と立ち尽くしていた。
どれくらいそうしていたかは分からなかったが、ややあって気を取りなおすと、もう一つの事実に思い至る。

ヴァレーさん、ここの本はほとんど全部頂き物だって言ってた。
ヴァレーさんに贈り物をしていたという事は……。そう、その意味も今の僕ならよく分かる。
多分ひい爺ちゃんは……血の指だったんだ。

僕の心臓はあまりの驚きにばくばくとうるさいぐらいに高鳴っていた。そうか、だからヴァレーさんは初めにあんな事を? 僕の事を、ひい爺ちゃんの孫だと知っていて?
初めて会った時に、どんな話をしただろう。
僕は無意識のうちに手帳を取り出そうと、ポケットに手をかけた。

「あれ? ——ない」

手帳がない。
まずい、お屋敷の事は他言無用、記事にする事もダメだと言われていたのにあの手帳にはここで起きた事がたくさん書いてある。

一体どこで——。

あ、そうか。
朝急いでいたから爺ちゃんの家に忘れてきてしまったんだ。

急に全身から汗が吹き出してきた。
背筋をつうっとその雫が伝う。

なんだか嫌な予感がした。
裏口から出て、早く手帳を取りに帰らないと。

僕は再び、爺ちゃんの家に向かって走り出していた。