僕は声かけもせずにこっそりと家に入った。
手帳さえ回収できればそれで良いんだ。
昨日まではきっと、こうして手帳を忘れて中身を見られたところで自分の爺ちゃんなんだし大きな問題はないと思っただろう。
しかし、今日僕は気付いてしまった。ひい爺ちゃんと、このお屋敷との繋がりに。
爺ちゃんの不穏な発言が脳裏にチラつく。
「悪魔には関わるな」だっただろうか?
それは一体、誰の事を——いや、勝手な想像は良くない。とにかく僕が今やるべき事は、手帳を回収してお屋敷に帰る、それだけだ。
僕は自分自身に言い訳をしていた。
そう、別に仕事のことだってつきたくてついた嘘じゃない。お屋敷の事は他言無用、その理由だってしっかりと分かっている。自立して爺ちゃんに世話をかけたくない、それだってそうだ、庭の仕事だって全部丸々嘘ってわけでもない。
でもどうしてだろう、僕が至らないんだろうか。なんだかどちらにも悪い事をしてしまっている気がする。
言いつけを守らずに手帳に書いてしまったから?
爺ちゃんを喜ばせようと、少し打算の入り混じった嘘をついたから?
一度悪い想像力が働いてしまうと、小さな石ころが崖を転がり落ちて遂には大事故に繋がってしまうような、幼い頃に聞かされた、全くもって実感の湧かない両親の落盤事故とやらを何故だか連想してしまって。ふとそんな思いに囚われた。
いや、きっと大丈夫、手帳はすぐに見つかるし爺ちゃんだって気づいていない。
ほら、きっとそこに置かれたままの手帳を僕はしたり顔で拾い上げるし、そのままお屋敷に戻って書斎でゆっくり本を読む、そう、それで全ておしまいだ。
さっき知ってしまったあの事実、ひい爺ちゃんが血の指だったということと、今の今まで気にも留めていなかった「悪魔には関わるな」という爺ちゃんからの不穏な発言。
——そこに何も関連はないといいのだけれど。
僕は部屋に着くと、ぐるりと見渡して手帳を探した。
ない。
こっちにも、ここにも。
部屋だってそう広くはないし僕が移動した場所なんて限られているはず——。
そう思っていると、ふいに後ろから僕を射抜くような声がした。
「探しているのはこれか」
「あ……爺ちゃん」
そこには爺ちゃんが立っていた。
「そ、そうだよ! ありがとう。なあんだ、わざわざ持っててくれたの、助かるよ」
ぼくはへらへらと間に合わせの笑顔を貼り付けてその手帳を貰おうとしたのだが、爺ちゃんの言葉にぴしゃりと跳ね除けられてしまう。
「——お前もあの悪魔に魅入られてしまったのか。父の事があったのとその趣味のせいでまさかとは思っていたが」
「お前も? あ、勝手に見るなんて酷いや——」
苦々しそうに声を絞り出した爺ちゃんを見て、ああ、やっぱり、と思ってしまった。悪い予感は当たりやすいのだ。良い予感よりももっと、ずっと。いや、印象に残るからそう思い込んでいるだけなのかもしれないが。
爺ちゃんは庭師の仕事を見つけたと嘘をついた事に対して怒るわけでもなく、なんだか酷く不味いものを食べてしまったような、僕が見たことのない顔をしていた。
「父だけでなく孫まで奪われるのか。儂が一体何をしたって言うんだ?」
爺ちゃんは僕に話しかけるでもなくそう言った。
その言葉で、僕は大体のことを理解した。そして、何も言えなかった。いや、言いたくなかったんだ。僕は卑怯だった。今はその言葉に向き合うことよりも、とにかく手帳を返してもらって、この場を離れたいという気持ちの方が強かった。
「あの、それ——返して」
爺ちゃんは僕を一瞥し、手帳を放り投げるとこう言った。
もう——帰ってくるな、と。
僕は足取りも重く、お屋敷へと向かっていた。
感情がぐちゃぐちゃになっていた。ひい爺ちゃんがいない事で爺ちゃんが大変な思いをしていたのは近くで見ていた僕が一番良く知っている。
でも僕もいつまでも子どもじゃないし家だって世話にならないように早く出るつもりだった。爺ちゃんだって、いつまで家に居座るつもりだと、事あるごとにそう言っていたじゃないか?
「仕事が見つかった」「家を出る」
これだけだったらきっと何も言われなかっただろう。現に手帳を見られるまではそうだった。
相手が、彼だった、というだけで。
そう、たった一つそれだけだ。爺ちゃんにとってそれは辛い過去を思い出させる事で、そうして僕がまたその人と通じているだなんて、その事がどうしても許せなかったんだろう。
爺ちゃんの気持ちはよくわかる。僕が爺ちゃんの立場でも、きっとそう思っただろうし同じ行動をしただろう。
でも、でも僕は。
お門違いにも程があるのだが、僕は少し、ほんの少しだけ爺ちゃんに苛立っていた。自分の大切なものを、その生活を否定されたような気がして。
そうだよ、爺ちゃんだって僕の事を何も知らないじゃないか——。
ヴァレーさんに出会ってからというものの、降り掛かる出来事は良くも悪くも、鮮烈に僕の心を揺さぶった。
彼の使命、初めは何も考えずに気軽に賛同してしまったのだけれど。ああしていつも王朝のために、信仰のためにと言っている穏やかなヴァレーさんの姿を見て、しなやかで強い人だと思っていた。でも、ヴァレーさんの話を聞くに前世でも彼の望んだ王朝は開かれず、そして今世でもその機会は未だ訪れていないのだそうだ。
今朝の姿と、彼から聞いた言葉の数々をふと思い出す。
その長生が故の迫害、外野からの謗り、信徒からの嫉妬、裏切り、その末路——今までもずっと、その使命を成そうとする中で向けられてきた感情や言動を、全て、全て一人で切り分けて処理して呑み込んで、消化して彼は生きてきたんだろうか?
たったひとつの信仰を拠り所にして。
そこに僕なんかが口を出していいのかも分からないし、どうすることもできないのは百も承知なのだが。
「辛く——なかったのかな」
僕はそう、その身を案じてしまったのだ。
誰かに話を聞いてもらいたかった。でも、誰に? ふと、ポケットに手を入れると石ころが手に触れた。そうだ、お使いのあれ、取りに行かないとと思って入れっぱなしだったんだ。
僕はお店の青年が言っていた物を取りに行くことにした。お屋敷に真っ直ぐ戻っても良かったのだけれど。今は少しだけ、誰かと話をしてこの気持ちの整理をしたかった。
「ごめんください——」
僕は初めてお店にきた時とは真逆で、できるだけショーウィンドウのご婦人を見ないようにしながら薄暗い、歪みのついたオルゴールの音色や人形たちの動く音が騒がしく響くそのお店の中へと入っていった。
「ああ、いらっしゃい」
お店に入ると、早速店主のお爺さんが声をかけてくれた。
「入れ間違いの件かい、わざわざすまなかったね」
お爺さんはそういうと、倉庫の方へと声を掛ける。二、三度その名前を呼ぶと、倉庫の中からまた埃まみれの青年が姿を現した。
「あ、来てくれたんだね。これだよ」
青年はそういうと、小さな瓶に入った抽出液を僕に渡してくれた。
「馬鹿もん、おまえが謝らんか」
「はあ、すみませんね」
僕はありがとうございますと言って預かっていた石ころをポケットから取り出して渡し、代わりにその抽出液をポケットに入れると、ちょっと勇気を出して目の前の青年に声をかけた。
「あの、聞いて欲しい話があるんだけど」
「僕?」
青年はキョトンとしたそぶりで応えると、店主のお爺さんにこう言った。
「父さん、ちょっと出かけてきてもいいかな」
「ああ、ぜひそうするといい」
お爺さんは先程までの呆れたような顔を緩め、少し嬉しそうにそう言うと僕たちを快く送り出してくれた。
僕たちは特に会話もないまま、近くの公園へと辿り着くと、手近なベンチへと腰を下ろした。
「——で、話って何?」
ぐしゃぐしゃ頭の青年が尋ねる。僕から誘っておいてなんなのだがのっけからそのものズバリの話が出来る気持ちではなかったので、少しお茶を濁すように違う話題を探した。
「うん、ちょっと色々あってね——。そういえば、君はどうして血の指になったの?」
「僕? 父さんの希望だよ」
「へ?」
「僕、捨て子だったんだ。双子が生まれちゃいけない村の双子で、本当だったらすぐに殺されてたんだって。それが呪術師に拾われて、ある程度育ったら呪術の贄にされる予定だったらしいんだな。それをまた助けてくれたのが今の父さん」
「っえ、今の時代にそんな……」
「地方の村に行けば別にそう珍しい事でもないよ。土着信仰なんて星の数ほどあるから。
あ、ごめんごめん。君何か言いたい事、あったんだよね」
青年は話を途中で切り上げて僕の方を見た。大方自分の話をし過ぎたと思ってくれたのだろうか。僕としては興味深い話だったから、彼にとってその話題が嫌でなければ、全然その身の上話を聞くことに抵抗はなかったのだけれど。そう思って話を続けてみた。
「あ、それは……そうなんだけど。でもまだ聞かせてほしいな、君のお父さんはどうして君に?」
「呪いに詳しいから」
「へ?」
僕は二度目の素っ頓狂な返事をした。
「うーん、でもまだ言っていいのか分からないし。やっぱり君の話聞かせてもらおうかな」
「そう、なんだ。わかった」
彼が呪いに詳しい事と、店主のお爺さんが彼を血の指に志願させた事とは何の繋がりがあるんだろうか。先程の爺ちゃんとの件もあり、なんだかいろんな符号がふわふわと繋がらないまま頭の周りを飛び交って、とても気になってしまったのだが、食い下がるのも違うと思ったので僕も一先ず本題に入る事にした。
「ものすごく失礼な話だって事は自覚してるんだけどさ、どうしても考えちゃって。その——。ヴァレーさんってさ、あんな風に一人でずっと生きてきててさ、強い、よね。僕ならきっと耐えられないと思うんだ。一つの使命のために人を集め続けて、色んな人から色んな感情を向けられて」
「まあ、それが生きる意味だからでしょ」
「それはそう——だけど。辛くないのかなって」
「うん。信仰の殻ってね、人によってはすごく硬いんだよ。あまりにも硬くて、誰も太刀打ちできない」
彼はそう言うと、足元の少し大きめの石ころを二つ拾い上げてコツン、コツンとぶつけた。片方は白く、片方は黒っぽい。
「そしたら、辛いとかの感情は無いってこと?」
「殻、だからね。ペルソナ。それは彼のお面そのものだよ。殻は無理に壊そうとするとその中身まで壊してしまう。何かを強く信じる人はね、迷わない。信じるものがあるからもう迷う必要は無いんだ。そこに全てを委ねてしまえるからね。だけど人は、本来迷う生き物なんだよ。その度合いは各々によって異なるけれど。彼はおそらく、元々は自らの生き方に、その在り方に疑問を持ち続けて迷い続け、何処かに救いを求め続けていたんじゃないかな。そうして、その経緯(いきさつ)までは分からない。それが望んでそうしたのか、強制されたものだったのかどうかも分からないけれど——自らの神に出会ったんだろうね。先日彼の前世の話を聞いた時に、なんだかそう思ったんだ。君もあの話を聞いて、何か思ったの?」
「い、いや、僕は初めて会った時は全然……」
「へえ、初めての時に聞いたんだ? 初めて会った時だと、僕はまだ幾分か警戒されてた気がするなぁ。まあ、それはいいや。あの様子だと彼の殻の内側にはまだ、誰も踏み入ってないんじゃないかな。あ、物理的な話じゃなくてね。そうだ。君、ヴァレーさんの顔、見たことある?」
「え?! ……あ、うん……まぁ」
僕は顔を真っ赤にしてしどろもどろに返答した。
「……ふうん、いいなあ。僕まだ知らないんだ。どう? 素敵だった? また今度、こっそり教えてよね」
青年は僕にそう耳打ちすると悪戯っぽく笑った。
「そう、話を戻すけどね。いくら硬くてもその殻は決して壊れないわけじゃない。ただ、無理に壊そうとするとその中身もろとも、バラバラに瓦解してしまうだろうね」
その手で弄ばれていた二つの石を、彼が勢いよくガツン、とぶつけるとその白っぽい石がボロボロと粉々になって崩れ落ちた。
「——そう、か。僕なんか本当に短い付き合いだから。やっぱり、辛くないだろうかとか、そんな彼の立場を知ったような事、考えるのも失礼だったのかな」
「うーん、付き合いは長さじゃない、と僕は思うよ。例えば君みたいに思ってくれる人、過去にどれぐらいいたのかな。その信仰を否定せずに、ただ純粋に、その身を案じてくれる人。独占欲や執着からではなく、その使命と共に歩もうと望んでくれる人。まあ、その人”たち”、かな。——あ、そうか。だから、今なのかもしれないね」
最後の言葉は僕に向けられたものではない気がしたが、それだけ言うと、青年も黙ってしまった。
その後は、僕たちは黙ってぼんやりと空を眺めていた。そうして空が朱色に染まり出した頃に、僕たちはようやく重い腰を上げて各々の場所に帰る事にしたのだ。
人形師の青年は彼のお店に、僕はヴァレーさんの待つお屋敷に。
二股に分かれた道で僕たちは分かれた。
「今日はありがとう、じゃあ——また」
「うん、また近いうちにね」
綺麗な秋晴れの夕焼けの下を歩きながら。
僕の心はまだどんよりと灰色に染まっていた。
ぼやぼやと考えながら歩いていくと、あっという間にお屋敷に着いてしまった。
一階に洋燈の灯りがついている。ヴァレーさん、体調——良くなったのかな。誰か来てたのかな?朝に此処を出た時と同じように、裏口からこっそりと戻って、一階の広間へと向かう。
広間には灯りがつけられていたが、そこには誰もいなかった。不思議に思って廊下に出てみると、書斎から僅かな光が漏れていた。誰かいるのだろうか。
そちらに向かい、その中を覗いてみた。
「あれ?店主の——」
書斎の小さなソファに座っていたのは先ほどの店主のお爺さんだった。
「ああ、君か。先程はうちの倅が迷惑をかけなかったかね」
「いえ、こちらこそ話を聞いてもらっちゃって。あの、どうしてこちらに?」
「今朝の新聞を見て様子を見に来たのだ。彼とは先ほどまで少し早めの夕食を共にしていた。それに、見たところ体調にも問題はないだろう」
「そうでしたか、それは良かった」
僕は安堵のため息をついた。それと同時に、店主のお爺さんが微笑んだ気がした。
「やはり血は争えない、というところかな。君は、ここに入ったのは今日が初めてかな?」
「あ、そうです」
「君の曽祖父がここに来ていた事を知ったのも?」
「あ、はい。え、なんでそれを?」
「君の曽祖父は儂の古い友だったのだ。いつも怪しい古い文献を漁って未開の奥地に出掛けては世界中の怪異を知りたいなどと言っていた。変わったやつだったよ、君の曽祖父は。白面の彼とは十数年以上の付き合いだったのではないかな」
「十数年?!」
「ああ。君の曽祖父が四十を過ぎた頃からだっただろうか。君の曽祖父とは古い仲で、よく色んな事を話したよ。旅の話や、各地の伝承、信仰や呪い、そして、白面の彼についてもな」
「ヴァレーさん、について?」
「そうだ、儂は君の曽祖父が彼と出会う前からの付き合いだからな。初めは奴も血の指の事については何も言わなかったし、儂も何も知らんかった。そして、君の曽祖父が血の指となってから十年ほど経った頃だろうか。ある日、こんな悩みを打ち明けられたのだ。
ああ、ひとつ。君の曽祖父は情熱的な人だったから些か聞きづらいような話もあるかもしれんが、まあそこは大人の事情と云う事で適当に流してくれ給え」
◻︎◻︎◻︎
「——もし、もし君が永遠の命を手に入れたらどうする?いや、永遠とまでは言わなくても例えば数百年単位の寿命だとか」
「ほほう、不老長寿の薬か?お前、ついにソーマでも見つけたのか。それとも始皇帝の秘薬かね」
「茶化すんじゃない。これでも真面目な話なんだ」
「お前はその『もし』から始まる話が好きだな。まあ退屈していたし乗ってやろうじゃないか。ちなみに、長寿であるという事以外には何も条件はないのかね?」
「いや、それがあるんだ。先ず、ある使命のために生きなければならない。必然ではないのかもしれないが、『そうしなければならない』と本人が強く望んでいる。不死かどうかは分からない。それに、自らの使命に同調してくれる信徒を集め続けなければならないそうだ」
「何かと思えば。誰のことなんだ一体。乗りかけた儂が馬鹿みたいじゃあないか。ああなんだ、分かったぞ。どうせお前はまた新しい魔女擬きにでも入れ込んだんだな」
「魔女擬き、か。どうなんだろうな。一筋縄ではいかないんだ。すごく複雑なんだよ。彼は導く者であり、迷える子羊であり、また聖女であり、魔女でもある」
「やはりまた君の色恋沙汰かこの伊達男め。しかし今、彼と言ったか。聖女だなんだのと宣っているが相手は男なのか?」
「ああ。実は出会ってからはもう十年近くになる。この歳月の間に私は彼を愛してしまった。尤も、彼は私をそう云う目で見てはいないのだろうが。しかし、その身に起きている出来事がどれ程超自然的で、また介入を許さないような物であっても、もはや私は彼を放ってはおけないんだ。彼自身は先程の長生を神から授かりし力そのものだと信じているのだが、私にはそれは、呪縛にしか見えない。私はどうにかその呪いを解く方法を突き止めようと試みているのだが、未だ成果は上がっていない。君は、呪いやその類のことには詳しいのでなかっただろうか?ぜひ力を貸してもらえると助かるのだが……」
「十年だって? 初めて聞いた上に今まで一切話題にも出さなかったじゃないか。それにしても十年とは、いつになく執心のようだな。しかし、見たこともない誰かのために、はいそうですかと助力をするやつはおらんだろう。君の想い人を紹介してくれと云うつもりも毛頭無いが」
「いや、もし会ってもらえるならば、ぜひそうして欲しい。君にもきっと、私の言わんとしている事が分かるだろう——」
——君の曽祖父には、彼との長い付き合いの中でその終わりなき孤独な生き方が、あたかも地獄の責め苦のように見えていたのだろう。彼に寄り添う人が居て安息を得る事があっても、それはごく一時的なもので、彼の人生の大半は他者への失望と、使命を成せぬ自己への後悔に呑み込まれ、囚われていたのだから。
そうして、君の曽祖父は自らの生涯をかけて、彼をその長生の呪縛から、そしてその使命の重さから解き放とうと、ずっと世界中の怪異や呪いを調べていたんだよ。
そして、偶然の一致であるのかも知れぬが、ついに君の曽祖父は彼の身に起きているものと同じ謂れを持つ伝承を探り当てたようだった。
それは、遠い葦の地の伝承だった。
葦の地に、一人の旅巫女がおったそうな。
旅巫女は老いることがなく、諸国を巡礼していた。その巫女はかつて竜の力を供物として取り入れ、八百年の長寿を得たそうだ。
ある時、殿様が重病になった。巡礼に来ていた旅巫女が残りの寿命を殿様に譲ると、殿様の病は治ったという。その後巫女は深い洞窟に入り、そのまま行方知れずとなった。その旅巫女は真っ白の尼僧の姿をしており、名を白比丘尼、またはその年齢から八百比丘尼と呼ばれたのだと云う。
彼の血の施しが何であるかは知っているかね?
あれはつまるところ生命力であり、その生をほんの少し分け与えるものなのだ。
君の曽祖父が探り当てた、葦の地の伝承の巫女と同じ由来の力であれば、恐らく、彼が望めばその寿命を任意に振り分けることができるのではないかと、我々はそう仮説を立てたのだ。
そして、君の曽祖父は白面の彼から一度だけ、その身の上の話を聞いたことがあるそうだ。
彼は幼い頃に何処かに伝わる謂れを持つ聖血を飲み、その力を受け入れたことで使命に目覚めたのだという。その血こそが、葦の地に伝わる竜の力、そして不老の源なのでは無いかとな」
「そ、そんな事が……」
僕は呆気に取られてその話を聞いていた。ひい爺ちゃんがヴァレーさんに入れ上げていたと言うところを聞いて、なんだか尻の座りが悪くなってソワソワしてしまったけれど、いや、全部吹っ飛んでしまった。
僕が思っていたような簡単な話じゃなかったんだ。裏でずっとそんな話が進んでいたなんて。
僕はただ、あの終わりのない生き方は——辛くないのかなと。本当に何も考えずにそう思っただけだったのに。
「正直、この話は未だ仮説に過ぎず、確証は無い。儂もずっと裏取りを続けて来たのだが、全てはただの徒労に終わるかもしれない。彼がもし、心から望んで儀式を行えば。その肩の荷を少しでも託そうと思ってくれるのならば。彼の寿命は分かたれ、長き孤独な生の呪縛からその身を解放し、彼の使命を我々皆で支える事が出来るのではないかと、そう考えたのだ。そして、その機会が来ればぜひ挑んでみて欲しいと、君の曽祖父から頼まれたのだ」
僕はふと、先ほどの青年との話を思い出した。信仰の殻、その中身——。
「あの、ヴァレーさんはその提案を受け入れてはくれるのでしょうか?」
「正直、難しいだろう。現に、君の曽祖父は提案を試みたが失敗し、彼と袂(たもと)を分かってしまった。
言い聞かせようにも一筋縄ではいかないだろうし、無理に事を進めると我々全員が反逆者と見なされて、放逐される可能性の方がずっと高い。その先どうなるかは、今朝の新聞を見た者なら察しがつくだろうが——。まあ、あまり考えたくは無いな。
だが、我々は何も王朝への忠誠心を忘れているわけでもなく、その本分を無視しようとしているわけでもない。
もちろん、今ここから彼の云う王朝の開闢に見える可能性もゼロではない。それは、今までもずっとそうだったのだから」
お爺さんはやや決意を込めたように一息に言い切ると「うまくいけばやっと、君の曽祖父にも顔向けができるだろう」と僕に微笑んでくれた。
「そう言えば、ひい爺ちゃんは既に死んでいるのですか?爺ちゃんに聞いても消えたの一言で。七歳頃の記憶以降、僕との思い出も途絶えてしまったんです」
「ああ、奴は心臓を患っていた。最後はまた何処かの船に乗り込んで旅をして、帰ってきた直後だったか、突然の心臓発作で亡くなったよ。儂が見届け、弔ったのだから間違いは無い」
「そう、だったんですか」
「彼には伝えていないがな。先ほども話したが、既に二人は袂を分かっていた。それからというものの、君の曽祖父の話題は一切出た事がない」
お爺さんは想いを馳せるように、だけどきっぱりとした口調でそう言い切った。
ひい爺ちゃんの話と、ヴァレーさんの身について考えを巡らせていると、突然お屋敷のベルが鳴った。
「あれ? 今日は誰も訪問の予定は——。僕、ちょっと見てきますね」
書斎のお爺さんにそう言い残すと、僕は急ぎ、玄関へと向かった。
廊下を端まで走り抜け、ギィィ、と重いドアを開けると、そこには見知った顔が二つ並んでいた。
「あれ? お二人ともお揃いで」
「示し合わせて来たわけでは断じてないですからね。たまたまそこで鉢合わせたんですよ」
調香師の彼が腕組みをしていつものように捲し立てた。
「あーごちゃごちゃうるせえな。坊主、見ただろ新聞だよ新聞、仕事が終わったら様子を見に来ようと思ったんだ」
「私も朝から来たかったんですが……どうしても外せない用があってこんな時間に」
「ああ、そうでしたか。ヴァレーさんは少しお休みになっているようなので——どうぞ」
「大丈夫なんですか? 君、ちゃんと体調の確認はしてくれてるんでしょうね」
「ええ、まああの、僕じゃなくて店主のお爺さんがいらしてたので、問題ないと言ってました」
「あ、あの人も来てるのか。専属の医者みたいなもんだしそりゃ安心だな」
「とにかく中に入れてください、さ、そこを退いて!」
「わ、危ないっ」
僕は押し退けられ、よろめいたが何とか踏みとどまった。玄関先で僕がどうぞと促したにも関わらず、自分から体調はどうだと聞いてきたんじゃないか、と言い返しそうになったが、ヴァレーさんの事が心配で堪らないのだろうと思い何とか溜飲を下げる事にした。
僕は彼らと広間の方へ向かった。
そこには既に店主のお爺さんが居て、お店から持参した機械人形の調整をしていた。
「来客はこちらのお二人でした」
「爺さんも来てたのか」
「ああ、君たちか。先ほど二階にも声を掛けたから、そろそろ彼も降りてくるのではないかな」
そう話していると、上の部屋から足音が聞こえて、ヴァレーさんがその姿を現した。
「あ、ヴァレーさん、お加減はいかがですか?」
「ええ、問題ありませんよ。ご心配ありがとうございます。皆さんも、ご足労をおかけしました」
ヴァレーさんはこちらを見渡すとそう言った。
「最近、少しお疲れだったりしませんか?先日も掃除の時に倒れられたと聞きましたし」
「掃除? ——ああ、いえ、そういう訳ではありませんが……。
私はこの身に備わる血の指を集める使命と力、それを昔からずっと行使してきました。
しかし、今世に於いて私への執着を拗らせた者が行方知れずとなり、死んでしまうのは此方の導きが足りなかった、若しくは誤っていたのではないかと、どうしても自責の念に駆られてしまうのです。
それに、あの名家の彼などは濡れ衣を着せられてしまいました。おそらくは私しか知り得ない事ですが、記事に書かれていた凄惨な事件の首謀者はこの厩舎の男です。ただ、あの彼とてそれを見知っていたのですから、全く罪がないわけでもありませんが……」
ヴァレーさんは今朝の新聞を机の上へと置いた。
「そして、先程お聞きしましたが貴方は書斎をご覧になったのですね。貴方の曾お爺様について、私から言い出せなかったことを謝らねばなりません。かつて、私は彼と志を共にしましたが、ある事を切掛にその袂を分かちました。
その後、再び会う事はありませんでしたが私が拒絶してしまったのであれば、おそらく彼も……」
ヴァレーさんは目を伏せて僕に辛い事を打ち明けるように、そう言った。
いや、違うんだ。さっき聞いたばかりだけれど僕はその話を否定できる。僕のひい爺ちゃんは古い友であるあのお爺さんに看取られて亡くなったんだ。でもこれは、お爺さんから聞いたとは言わない方が良いだろうか——。そう思って、ほんの少しだけ僕は詳細を伏せることにした。
「ひい爺ちゃんが血の指、だったのは正直びっくりしました。あの、でも、ヴァレーさんは少し勘違いをされているかもしれません。ひい爺ちゃんの最期について、僕は心臓発作だったと聞いています。旅の帰りで突然のことだったようですが、どなたかにきちんと看取りもして頂いたと」
ヴァレーさんははっと目を上げて僕の方を見ると、安堵したように僅かにその目元を緩ませた。ちらりとヴァレーさん越しに店主のお爺さんの方を見ると、目配せをしてくれた。よかった。どうも肯定的なサインのようだ。
「ああ。そう——だったのですね。ずっと、ずっとその事を後悔していました。どうにか、何処かで生きていてくれたらとも。
ですから、貴方を見た時に、申し訳なさと、そして、どうにも懐かしくなってしまいまして、つい長話を。
それに、あくまでも貴方の意思に任せるつもりではいましたが、あの時は些か強引な勧誘をしていたかもしれません」
「え、そうでしたっけ」
初めて出会った時のことが、もう随分と前のことのように思われた。
はっきりと覚えているのは、甘くて、美しくて、儚くて、ちょっぴり毒のあるこの空間。
僕は酷く魅せられて、ヴァレーさんにこの手を取られて、そうして僕からもその手を取り返したのだった。
なんとなく、正直にそう伝えてみた。
ヴァレーさんは伏し目がちにしていた白面の奥の目を丸く見開いて、そしてくすくすと笑ってくれた。
そう、ヴァレーさんにはこういった表情が一番似合うのだ。何かに心を砕いて、苦痛に顔を歪めて欲しくはない。そんなの、もうきっと嫌と言うほどしてきた筈だから。
「ええ、もちろん私と曾お爺様との事について、貴方には何も関係はありませんよ。貴方は貴方で、自ら血の指となる道を選んでくださった。私にはそれで十分です」
でも、僕にはもう一つ言わなきゃいけない事が残っていた。
「あの、こんなタイミングで申し訳ないんですが僕、謝らないといけない事があるんです。実は、他言無用と言われていたのですが僕のうっかりミスで手帳を落として、ここの事を祖父に知られてしまったんです。曽祖父の事があったので、祖父はここの事をあまり良く思っていなかったようで……」
僕は先ほどの経緯をかいつまんで説明した。
「貴方のお爺さんが? ——そうでしたか。それは申し訳ない事を……」
ヴァレーさんは少し考え込むと席を立ち、暫くして戻ってくると、「もし機会があれば、これを渡していただけませんか」と小さな箱を僕に手渡した。
「貴方の曾お爺様の忘れ物です。何処かで存命であればと願い、いつか会う事があればお返ししようと思っていたのですが。今は、形見になってしまいましたね」
もちろん僕は二つ返事で引き受けた。僕も、僕の問題として爺ちゃんにはもう一度顔を合わせておきたかったからだ。
「——そうですか。今から行かれるのですね。貴方には全てをお任せしてしまってすみません。直接出向く事も望まれないでしょう。それに、その箱は貴方のお爺さんの手元にある方がきっと、ずっと良いでしょうから」
ヴァレーさんはそういうと、少し寂しそうに、その目の奥で微笑んだ。