薄暗い部屋の中に、キーを打つ音が小さく響く。ディスプレイからは青い光が漏れ、その光が画面に顔を寄せて作業をし続けている男の顔をぼんやりと照らし、浮かび上がらせていた。
デスクの上には彼の身分を端的に示す白面が無造作に置かれている。彼はキーを打つ手を止めると、また小さく息をついた。やや前屈みになってしまっていた背中をぐっと伸ばし、背もたれへと体重を掛ける。合革張りの大きな椅子が、彼の溜め込んだ身体の痛みに呼応するかのようにギシギシと音を立てた。
天井を仰ぐと、彼は閉じた目元に片手を添え、眼球の周りを圧迫した。伸ばした背から全身に伝わる脱力感に身を委ねていると、頭の中にひしめきあっていた様々な出来事がザッピングのように瞼の裏に浮かんでは消えていく。その中で、先日もたらされた出来事の想起によって彼の身体が厭わしげにピクリと揺れた。屈辱的な、あの夜の出来事。それはヴァレーの想像以上に、ある種の侵入的な記憶として彼の脳内に傷痕を残していた。あの日、どのようにして管理室を後にしたのかも定かではなかったが、シャワールームの中で熱い湯にその身を打たせながら今にも倒れ込んでしまいそうな疲労感と気怠さの中、医師としてどこか冷静に事後の後処理を行わざるを得なかった出来事が今、まさにフラッシュバックとして生々しくその身を以て追体験されたのだった。
「——ッ……!」
彼は意図せず脳内に襲い掛かり、突然に込み上げた嫌悪の感情を振り払おうとする。
ヴァレーはあの日以来、度々自らに降りかかるこの忌々しい現象——負の追体験が何たるかを、その職能の故に分析する事が出来た。彼にとってあの日の出来事は、ひとつの切っ掛けに過ぎなかった。
白面の医師としてこの装束に身を包み始めてから、同業以外にその身分を明かす事は許されず、ただ自らの職責を全うすべく王都のために尽力してきた。医学徒であった時分に毎朝繰り返し祈り、捧げた誓いの言葉。
黄金の民として生まれ、その律の中で慎ましく生きるを是とすること。また、その献身によっていつか環樹を賜り、再びこの地に生まれゆくこと。因果と回帰——それこそが、この黄金律の礎であるのだと。
緊張から解き放たれ、その反動でズキズキと脈打つように痛み始めた頭の中で、ヴァレーは意識の奥底へと沈澱し、酷く縺れてしまった感情を解きほぐしていった。自らを責め立て、苛んでいる原因。それは不快な相手の言いなりになり、辱められ、その身を暴かれたという事実の所為ではない。日毎増していく対象者たちを捌くために必要だったのは、自らの献身でも人員の増加でもなく、無味乾燥な投薬治療であったというその事実。彼としてもこの現状を目の当たりにして、薬物療法が尤も合理的かつ最適解である事に異論を差し挟むつもりは微塵も無かった。だが医師として、目の前の患者たちに生身の人間として向き合ってきたヴァレーにとって、その選択は今まで確立してきた様々な治療法の否定にうつり、ひいては自我の崩壊のようにも感ぜられたのだった。
彼は自問した。かつて自らは、人を救うために医学の道を志したのではなかったのだろうか。今まで成してきた事は全て、このように画一的な処置が生み出されるまでの繋ぎだったのかと。そうして全てを取り上げられて——何もなくなった後、そこには一体何が残るというのだろう。
ヴァレーは目元を圧迫していた手を離すと、デスクへと顔を戻した。青い光は未だ、手元に置かれている薄笑みを浮かべた無機質な白面を照らし出している。近頃、どうにも此の白面に対して薄気味悪さを感じていた。穏やかな薄笑みを浮かべ、何事にも動じない静謐さを湛える仮面。それは身に付ける者の情報を秘匿する。均質で、特徴の一切を備えないその面は一見不気味にも見えるが、対象者に医師として穏やかに接するうちに、いつからか相手はその白面に慣れ、変わらずに包み込まれるような慈愛を見出し、その貌に安らぎすら覚えるようになる。ヴァレーに対し親愛の情を抱く者や、執着を見せる者も後を絶たなかった。だが、白面の医師たちに等しく与えられるその仮面は、今の彼にとっては個人としてのディテールの一切を奪い取り、闇へと葬り去るデスマスクのようにも思われたのだった。
実態の無いものに恐れを抱くのは精神病理学的にもよくない兆候だ——と彼は思った。そうして白面から目を逸らすと、それに抱いたビジョンを振り払うかのようにデスクトップの電源をパチンと落とした。
部屋の中がまた一段と濃く、暗くなる。ヴァレーは立ち上がると、まだ痛む頭を抱えながら仮眠を取るために自室へと戻ることにした。足元に巡らされた誘導灯により、目を凝らさずとも室内に置かれている物の輪郭程度は捉えることができる。彼は僅かな光を頼りに、部屋の出入口へと足を運んだ。地下空間であるのだから日中と変わらずに灯りを点ければ良いだろうと、事情を知らぬ者が見ればそう思うところではあるのだろうが、陽の当たらないこの空間でそのような事をしてしまえば、すぐに体内のリズムが狂い、心身に不調をきたしてしまう。
それに、この施設はどこもかしこもがあまりにも白く、眩しかった。見通しの良い、真っ直ぐの長い廊下。清廉、潔白、潔癖を具現化したかのような場所だ。彼の身を包む白衣も、その理の中に組み込まれているのだろう。
しかし、彼が日々相対している人間の心はそう綺麗な物ではない。猥雑で、入り組んでいて、粘ついて重たく、どす黒い。一度その中に潜り込めば見通しなどは全く立たない。
この真っ白な、染み一つ許さない場所で無機質に対象者へと薬を与え、流れ作業のように惰性で日々を送るよりも。過ちを犯した人々の、その心の中の泥濘みに足を取られながら、全身が汚れてしまうほどの血肉の通った懊悩に触れること。それはどろりとした剥き出しの欲に塗れ、時には悍ましく、うんざりするほどの悪臭に満ちていた。だが、出口の見えないその道を掻き分け、手を差し伸べて在るべき場所へと導く時、それを通じて彼こそが救われているのだと、この愛を感じられない使い捨ての閉じた空間の中で、それこそが生きた心地を感じられるものなのだと、彼はそう思い始めていた。
「……う……っ!」
突然、目の奥に鋭い痛みが走った。赤い火花のような閃光が、固く閉じた瞼の裏に瞬く。ここ最近のひどい頭痛によるものだろう。ヴァレーは額に滲む汗を拭った。どうにも、身体からのサインも全て、個別具体的な事象として捉える事ができたが、だからといって心身の不調が癒えるわけではない。
部屋を出ると、小さな駆動音が鳴り、鍵がロックされる。仮眠を取ったとして、次に目覚めるまで残されているのは僅かに数時間ほどだ。ドアにもたれ掛かりながら、彼は大きな溜息を吐いた。
ここから抜け出す事など出来はしない。全ての情報は管理され、余りにも多くの事を知り過ぎた医師たちは、許可なく王都から出ることも許されていない。
彼は自覚せざるを得なかった。
名もなき白面として、ただ職務を全うする事——それこそが、この黄金樹の元で祝福を受けて生まれた、自らに望まれている価値の全てなのだと。
◻︎
「……、…………」
呼びかける声に、はっと意識を戻す。声の方を見ると、部下の青年がヴァレーの方を心配そうに見つめていた。
「——先輩、大丈夫ですか? 少しお休みを取られてはどうでしょう。先月認可が降りた薬のおかげで、私一人でもかなりの人数を捌けるようになりましたし」
「ありがとうございます、いえ……問題ありませんよ」
「顔色も良くなさそうで、あまり問題ないようには見えませんが……。あ、違法薬物の常習で逮捕される者が、急激に減り始めたそうですね。まだしばらくは、治療対象者でリストが埋まっていますが、薬物の取り締まり部隊も首を傾げていると——」
そう言って青年がヴァレーの方を見ると、彼は何も聞こえていないかのようにぼんやりと一点を見つめていた。青年は、また自らの声が届かなくなってしまった事に気付くと、やや躊躇しながら彼の肩にそっとその手を置いた。次の瞬間、ヴァレーの身体がビクリと跳ね、肩に置かれた手をパシンと小さく弾き飛ばした。
「あ……すみません」
驚いた青年の口から、謝罪の言葉が小さく漏れた。その声にヴァレーは気を取り戻すと、狼狽えた素振りを隠すように、青年に向けて申し訳なさそうに言葉を返す。
「いえ、こちらこそ……」
あまり目にした事のない、歯切れの悪そうな上司の姿を見て、部下の青年は再び労わるように声を掛けた。
「差し出がましい事を言うようですが、やはりもうしばらくしたら、本格的に休暇を取られては? 避暑地で羽を伸ばして来てはどうでしょうか。今年はリエーニエの気候がとてもいいそうで、数年ぶりに輝石ホタルがたくさん見られるようですよ。毒ホヤの大量発生で一時はその数が激減してしまっていましたが、景観保持のためにカーリアの有志が駆除作戦を決行し、それが功を奏したのだとか」
突如もたらされた他愛のない話に場の空気が和らげられ、それと同時にヴァレーの口元から小さく笑みが溢れる。
「ふふ、全く貴方と居ると、食事の誘いや休暇やら、普段忘れてしまっていることを色々と思い出させてくださいますね。ですが一つ、お忘れのようで。我々はもう王都の専属医師ですから。職務以外で他の地域に行くためには、許可が必要なのですよ」
「ああ! そうでした……でしたら、先輩の分の休暇願いも出しておきましょうか?」
彼は半ば本心を交えつつ、冗談めかした。ヴァレーはその言葉に小さくかぶりを振る。
「ご心配には及びません。さ、無駄話はこれぐらいにしておきましょう。急ぎませんから、またこちらに目を通しておいてくださいな」
部下の青年へ、さっと資料が手渡される。そこには先日検証を依頼されていた遺体の写真と、凶器の候補として二人が提示した短剣が写っていた。ヴァレーは紙を捲りながら、話を続けた。
「──どうやら、我々の予想は当たっていたようですね。捜査部隊から資料館に照会を掛けてもらっていましたが、慈悲の短剣がひとつ、なくなっていたそうです。ご丁寧に模造品と差し替えられていたために、職員もこちらから指摘をするまでは盗難に気づかなかったのだと。入館記録にも当たり始めているようですから、うまくいけばかなり容疑者が絞り込めるでしょう。逮捕も時間の問題かもしれません」
白面の青年はそれを聞き届けると、資料を取り込むために手元の端末を取り上げた。画面に目をやると、新着通知のバナーが見える。何かの速報のようだ。
「ん? 先輩、これ見てください。動力炉の式典みたいですよ。一斉放送でしょうか、今はどのチャンネルもこればかりだな……先ほどの件といい、良い知らせが続きますね。この調子で、こちらの仕事を脅かす薬物汚染も下火になればいいんですが」
青年の端末を覗き込んでいたヴァレーがふと顔を上げた。
「動力炉……そういえば貴方、もうじき学会ですが、発表の準備は進んでいますか?」
「い、いえ実はまだ……!」
青年は慌てて両手を自らの前で大きく振る。まだ、とは言ったものの、内容自体は細々と纏まりつつあった。ここに配属されてからの事例を集め、彼なりに薬物中毒に陥った人々の社会復帰についてケース分析を行っていたのだ。だが、いかんせん学会での発表は初めてのため、全く勝手が分からない。そこで、青年は自らの先輩にこう提案した。
「あの……もしよろしければ、リハのチェックをお願い出来ませんか?」
その言葉を受けて、目の前の、白面の奥の瞳がにっこりと柔らかく細められた。肯定的なサインだろう。
「──それは良い事ですね。ふふ、楽しみにしていますよ」
ヴァレーはそう言うと、チラリと時計を見て踵を返した。始業まではまだ少し、時間がある。
青年は、向けられた眼差しに見惚れてしまっていたのだろうか。暫くその後ろ姿を見つめていたが、ふっと我に返ったように頭を振ると、足早に自室へと駆けていった。
◇◇◇
ヴァレーは仕事のために部屋へと戻ると、すぐに先ほどの動力炉の記事を調べ始めた。そこに少しの引っ掛かりと、ある心当たりがあったからだ。
キーを打つと、先ほどの祝典のニュースを順に流していく。
【魔力と祈祷の融合、エネルギー不足解消に目途】
やはりそうか、と彼は思った。
——それは、まだ違法薬物が取り沙汰される前の、数年前の学会でのことだった。
その学会では魔術によるエネルギーの諸問題が取り扱われており、とりわけてヴァレーが出席する必要は無かったのだが、かつての上司である分析機関の所長から、案内状に同伴者の枠があるから、と半ば無理矢理に参加させられたものだった。
テーマとしては普遍的だが、王都にとっては非常に重要な主題を含んでいた。文明が進むにつれ、せいぜい数百年前までは十分に供給されていた動力が、どうやらあと数年で需要が上回る見込みであるらしい。半ば大袈裟な試算ではあるのだろうと資料を見て感じていたが、確かに急な災害や戦争などが立て続けに起これば耐えられそうにない。
パラパラと幾つかのレジュメに目を通している内に、進行役が前説を始め、一人目の発表が行われた。
ヴァレーは専門外のために動力の供給源である魔術や祈祷の理論がどうのと言われても今ひとつピンとは来なかったが、資料の見やすさだとか、話の伝え方だとか、彼もしばしば登壇する機会がある以上、そういった事には知らず知らずのうちに目が向いた。
尤も、発表の内容が秀でていさえすれば、話し方などはただの付属品にすぎない。だが、それがいかに大仰で、ある種大衆操作的に見えたとしても、こうした評価の伴う場では相手の興味を引き、目に留めてもらう事が肝要なのだ。どれだけ真実を伝えていても、それがあまりにも難解で誰の理解も得られないのであれば、宝の持ち腐れに過ぎない。
そう思っていると、一人の研究者の発表が目に留まった。
論旨は難解だが、資料は簡潔、要点も分かりやすい。心なしか会場もややざわつき、軍事科学者たちも、その資料を見ながら顔を突き合わせて話し込んでいる。何やらメモのやり取りをしているようだ。そのうちに、数人が会場を退席するのが見えたが、登壇している人物は特に気に留めるでもなく、淡々と役割をこなしていく。
発表が終わると、会場からはまばらな拍手が聞こえた。進行役が引き継ぎ、質疑応答の時間になったが、手を挙げる者は現れなかった。質疑応答が盛り上がるものだと踏んでいたヴァレーはやや拍子抜けすると、隣の席の所長に小さく声を掛けた。
「今の発表、貴方はどう思われましたか」
「先鋭的だったが、リスク部分の見通しが甘いように感じたかな。質疑応答ではその辺りのことが突っ込まれるものかと思ったが、まだ誰も反応していないようだね」
「ええ。私としても、もう少し反応があるものかと思いましたが」
——学会が終わると、ヴァレーは連れ立った上司に後で落ち合うと断りを入れ、気になっていたその人物へと声をかける事にした。
「先ほどの発表、お疲れ様でした」
「いや、まったく手ごたえがなくて、恥さらしに来たようなものです」
研究者の男は気落ちしたように言葉を返した。
「いいえ、そうは思いませんでしたよ。魔術と祈祷の融合、夢がありますね」
肯定的な意見を耳にして、暗く沈み込んでいた男の瞳に光が差し、饒舌になる。
「ええ、お解りになられましたか。資料の通り、融解反応が起きないよう慎重に制御する必要はありますが、システム通りに行えばまず問題ありません。従来の魔術のみを応用した動力炉では無駄が多く、エネルギー化効率が良くありませんでした。しかし、祈祷の魔力防護壁で外殻を作り、補助を行うことにより、動力炉内の輝石魔術の反応速度と密度を促進し、より純度の高いエネルギーを得ることが可能となるのです。炉内の圧力が高くなりますので、実用のためには今よりもずっと大きな施設が必要にはなりますが。
ただ、ひとつ個人的な話をすみません、研究中は何度も非難に遭いまして……」
「非難?」
「はい。王都にとって祈祷は神聖であり、決して他の魔術などと混ぜるべきものではないと。私の両親は研究者でしたが、かつて異端の魔術を応用した研究を行ったことで思想犯とみなされ、投獄されたのです」
「そう、だったのですか」
「私自身、その事件以降複数回の尋問を受けています。もちろん、異端の魔術など見たくもありませんよ。ただ、真っ当に生きていても今回の研究が奇を衒ったものだと、そうした方向に話を持って行きたい者も後を絶ちませんで。研究に打ち込みたいのですが、度々邪魔が入るために困っているんです。
……ああ、一方的にこちらの事情ばかりすみません。貴方はどちらの所属で?」
研究者の男が尋ねた。
「申し遅れましたが、私は王都の専属医師です。身分については、それ以上は明かすことが出来ません。こうしてむやみに他人と接触することも本来は禁じられているのですが、貴方の発表を拝見して、つい声を掛けたくなりまして。素晴らしい発表でしたよ。事情を知らない私が口を差し挟むことではありませんが、これからも、どうか貴方の理想を追い求めてください」
それが、ヴァレーがその研究者と交わした、最初で最後の会話だった。
——数カ月後、王都で新たなプログラムが提唱された。先の学会で示された、あの研究者の理論を踏襲するものだった。あの時はあんなに反応が薄かったが、こうして名を連ね、評価されたことで彼も少しは報われただろうかと。そう思い、論文に目を通す。
だが、著者名の項目を見てヴァレーは目を疑った。違う——別人だ。いや、あの研究者の名を覚えていた訳では無いのだが、そこには軍事科学者らの名が連ねられていた。
聞き逃していただけで、彼はそこの所属だったのだろうか?キーを打ち、検索画面を開く。科学者らの所属を確認し、ざっと目を通す。やはり、あの研究者らしい名は見当たらない。関連もなさそうだ。それに、先の学会の内容がいつまで経っても更新されていなかった。
背筋をつう、と冷たいものが走る——そんな馬鹿な事があるだろうか。
彼は無名の学者だった。ヴァレーも、面と向かってその名を確認はしなかった。彼はどこの所属で、何と名乗っていただろうか。
調べを進めるにつれて、ヴァレーは確信を持った。やはり間違いない。あの研究者の発表した論文が流用されているのだと。
その事実に気付いてから、もう数年が経っていた。
結局、あの学会での内容だけが未だ更新されないままとなっていた。不自然ではあったが、異を唱える者は誰もいない。所長ですら、その手の事にはあまり深入りしたくないなと一笑に付すのみだった。その後も何とか思い出せるだろうかと、彼の面影や、それらしい名を思い付いては検索にかけてみたが、全く何も引っ掛からなかった。