冷たい雪の降る夜。老いた修道女は日々の勤めを終えると、隙間風の吹く薄暗い側廊を、カンテラの灯を頼りに足早に進んでいた。
通り過ぎる女を見下ろすのは、聖堂の中央壁面に聳え立つ金髪の女神像だ。
今夜はどうやら、マリカ様のご機嫌が悪いようだ。
老いた修道女は、そう思った。
暦の上ではもう春を迎えたというのに、外は風が吹き荒び、更には雪まで降り出す始末であった。
穏やかな笑みを浮かべて聳える女神の像は両の手を、迷える子羊たちを包み込むかのように柔らかに広げている。伝統に倣い、無垢金で彩られた髪は祭壇の薄明かりでも厳かに光り輝いて見えた。
だが、修道女が身を捧げるこの女神は、決して寛容と慈愛の象徴ではない。
古くは伴侶たる武神と共に荒ぶる巨人族を前線に立って打ち破り、人類に栄華と繁栄を齎した豊穣の女神。そして、苛烈にして熾烈な戦神として伝えられていた。
「あれは……」
施錠をするために扉口へと辿り着いた女は、正門から続く簡素な石造りの階段に、大きな籠が置かれているのを見た。
風に煽られて軋んではいるが、その重みで吹き飛ばされるには至らないと見える。吹き付ける雪が、籠から覗く布の色をすっかりと変えてしまっていた。
彼女は思わず、どきりとした。修道院の前に、こうして置かれる籠の中身が何であるかを、長くこの場所で過ごしてきた彼女はよく知っていたからだ。
嵐のただ中でカンテラの灯は儚くも消え、辺りが一段と暗くなる。
彼女は駆け寄ると籠の中、幾重にも覆われた布を捲り上げた。
そこに居たのは、やはり小さな子どもだった。
雨のせいで身体は冷えきり、泣く事もままならないと見える。
このままではいつ、生命の灯が消えてしまうとも分からない。彼女は聖堂の中に子を連れ帰ると、小さな体を懸命に温めた。
修道院の前へと置き去られる子どもは未だ貧富の差が激しい中、さして珍しい事ではない。大抵は、こうした人目につかぬ時分に捨て置かれる。
それ故に、発見された時には既に野外をうろつく生き物の糧となってしまっていたり、渇きや飢え、暑さや寒さに耐えかねて呼吸を止めてしまっている事も少なくはなかった。
——幸運な事に、この子はまだ生きている。
彼女は寝所に居た他の者たちにも声を掛けると火をおこし、清潔な水を汲み、体を温め、交代で付きっ切りに世話をした。
その後、女たちによる献身的な庇護のおかげですっかりと回復をした子はすくすくと育ち、この小さな聖堂で、日々の勤めを果たす事となった。
ある朝、領主直系の医療教会から使節団が訪れた。この地に於いて、医療は施しと同義である。
使節団は修道女らと共に勤めを果たしていた少年の元へ向かうと、こう告げた。
——医師としての訓練を受けるにはまだ幼いが、大教会に居を移し、然るべき時が来れば学びを受ける事が出来るだろう。
身寄りのない彼にとってそれは、学びを得るまたとない機会であった。
それに、老いた修道女——彼女がここの修道院長であったのだが——は、このささやかだが歴史のある女子修道院に、これ以上少年から青年への過渡期を迎える齢の者を留め置くことが出来なかった。
話を聞かされた彼は、学びを得るのは喜ばしい事だとの言葉に大いに気を良くした。
そして自らの転機と、日々祈りを捧げた二本指に、深く感謝を捧げた。
†
「着きましたよ。さあ、起きてください」
やや訛りのある御者の声で目を覚ました青年は、まだ眠い目を擦りながら起き上がった。御者に礼を言うと、ポケットから通貨を手渡して馬車を後にした。
降り立ったその先、大教会を見上げた彼の口から漏らされたのは、感嘆の溜息だ。
「——はあ……。これは……」
そこでは目に映るもの全てが大きく——そして、力を持っていた。
あの小さな聖堂で一生を終えていたなら、決して知る事は無かっただろう。
天を衝くほどに高く伸びる尖塔。壁面を埋める聖者の彫刻。純白のファサード。
青年は圧倒されたまま、巡礼者らの群れに流されるように開かれた扉から中へと入った。
身廊を超え、祭壇へと向かう。整然と並べられた椅子に座り、懸命に祈りを捧げる信徒たちの姿。その手に覗くのは二本指の聖印だろう。彼は自らも懐に備えるその聖具を、固く握り込んだ。
正面に見えるのは、まばゆいばかりの光を受けたステンドグラスだ。
そこに描かれるのは、祈りの時に何度も聞かされた神々の象徴。
光背を携え、黄金の子を抱く女王マリカ。その頭上を司るのはさらに高次の存在の御使たる二本指と、その大いなる意志を表したとされる光の流星。
余りにも壮麗な光景に場違いではなかろうかと、青年は辺りを見回した。
行き交う人は多いが、誰も彼を気に留める者などいない。
その心許なさに、先程までの感動とは一転、彼は一抹の不安を覚えた。
ふと目に入ったのは、祭壇に向けて祈りを捧げている黒衣のケープを纏った男。
その背格好から、年のほどは同じか、やや上だろうか。
黒衣の男が祈りを終え——立ち去ろうとする隙を見て、青年は声をかけた。
この場所はあまりにも広く、入り組んでいる。書簡に指定されていた場所がどこを示すのか、小さな修道院からやってきた青年にはまるで分からなかったのだ。
「……すみません、貴方はここの方ですか? この場所へ行きたいのですが、地図が分からなくて……」
彼はおずおずと、書簡を差し出した。黒衣の男は無言で、そこに記された略図を覗き込む。その時に、ケープで隠されていた顔がはっきりと見えた。あまり、日に当たらないのだろうか。青ざめた色の乏しい表情は、どこか冷たい印象を与えた。
「この場所は医療棟だ。許可無しで立ち入る事は出来ない。君は?」
ケープの中から、鋭い目が向けられる。青年は、自らの名を告げた。
「私は医師見習いとして参りました。名を、ヴァレーと申します」
「ヴァレー……。家名は?」
「家名? ああ、私は身寄りがありませんもので。片田舎の、小さな修道院で生まれ育ちました」
出自を隠す様子もなく、屈託なく話す彼を見て——黒衣の男は、自らの姿勢を改めるように顔を上げた。
「それはすまない。不躾なことを訊いてしまったな。私はクレプス。私も、君と同じく身寄りは無い。幼少の頃にここへ来た」
「おや、そうでしたか。奇遇な事もあるものですね」
黒衣の彼は、ヴァレーと名乗った青年と目を合わせたその時に——顔の造作、そのひとつに目を奪われた。
それは瞬きするたびに透き通るように揺れる、白い睫毛だった。
「——それでは、ここの事はかなりお詳しいのでしょうね」
その声に、黒服の彼ははっと意識を戻す。
「まあ、それなりに……全ての場所を知るわけでは無いが、中を案内できる程にはな」
「でしたら、色々と教えていただけませんか? ここはあまりにも大きくて……」
ヴァレーは人好きのする笑みを浮かべて近付くと、徐に男の手を取った。
「……?!」
クレプスは突然触れられた手に驚き、さっと身を退ける。
「……っ、すみません、どうかされましたか?」
「いや、君こそ突然、何を……」
クレプスはその言葉に、怪訝な表情を浮かべる。
「おや……修道女たちにしっかりと作法を教え込まれたのですが。〝話を聞く時は穏やかに笑みを絶やさず、相手の手を取り慈しむように〟ですとか。何か、失礼がありましたか?」
ヴァレーは少し困ったような顔をすると、顔を上げてクレプスの目を見つめた。
その眼差しに、彼はどきりとした。
「そうか……。いや、そうした慣習に馴染まない私の問題だ。こちらこそ、すまなかった」
黒衣の男は、先ほどの接触に密かに心を乱されていた。それに、彼の話によると、貞淑な修道女たちに育てられたというのに——少年から青年への過渡期を迎えた彼から発せられる嫋やかな仕草と口ぶりは、精悍さを増しつつあるその外見との錯誤を見せ、何故だか感じたことのない、奇妙な胸の焦燥を抱かせたのだった。
「……それでは、私はこれで」
医療棟への道のりを、書簡への書き添えを交えながら話し終えたクレプスは席を立つ。
壁に備えられた大きな時計の長針が、あと少しで天を衝こうとしている。礼拝の時間が迫っていた。
「ご親切に、ありがとうございます。おかげで助かりました」
ヴァレーが瞳を輝かせて言う。
「またどこかで、ご一緒できるといいですね」
「そうだな、機会があれば」
黒衣の男は僅かな名残惜しさを覚えながら、足早に礼拝堂へと向かっていった。
◆
石造りの薄暗い通路を超えた先、灯り石が点々と置かれている向こう。古めかしい木戸の前に立ったヴァレーは、ドアを数度ノックする。初日の手続きと雑務を終えた彼は、修道士や書生たち、そして医師見習いのためにあてがわれる、簡素な小部屋へと辿り着いていた。
「……初めまして、今日からこちらの部屋にお世話になります」
木戸には簡易錠が掛けられており、内部に誰か居ることを示していた。
大教会での暮らしが長い者に、ここでの生活の作法などを教わるのだそうだ。
小さな返事があり、木戸を押して中へと入る。
足を踏み入れると、そこには剝き出しの石壁と、一枚板を渡しただけの木製の机。それに、小さな椅子が二つ。更には上下に分けられた寝台があるのみだった。
部屋として必要最低限の機能のみを備えたそこで、既に一人の男が机に向かって写本をしていた。その顔には見覚えがある。
それは今朝、ヴァレーが言葉を交わした黒服の修道士だった。
「ああ、この部屋にもついに人が入るのか」
顔を上げた男もまた、相手がヴァレーだと気づくと驚きに目を見開く。
「ふふ、一人の時間をお邪魔してすみませんね」
「いや……。そういう訳では無いが……確か、君は」
「ヴァレー、です。今朝はありがとうございます。おかげで助かりました」
黒衣の男は小さく頷いた。そして手元の作業へと意識を戻すと、薄明かりを頼りに再びペンを走らせる。特徴的なケープを外していた彼は、やはりヴァレーより年長ではあるものの、まだ青年というに相応しい相貌をしていた。
「知った方のお顔が見られて、私は少し安心したのですがね……」
ヴァレーは薄笑みを浮かべると、男の隣へと椅子を寄せた。
灯り石を頼りに写本をしていたクレプスは、その動きに顔を向ける。橙色の灯に照らされるヴァレーの目元は、柔らかく緩められていた。
クレプスは長くここで過ごしたが、特別他者に親しみを覚えたことなどなかった。密命により、暗殺をも生業とする彼にとって、訓練中に他者と交流するなどという事は許されず、また、厳かな年長者から受ける指導は厳しく、辛いものばかりだった。
それは彼にとって、全て畏敬の対象であった。
だが此度のように、若輩の者に自らが指導をするというのは、初めての経験となる。その事実に、彼は小さく身の引き締まる思いがした。
同室となる青年。それは偶然にも、今朝出会ったばかりの彼だった。
肩ほどまで無造作に伸ばされた髪、すらりと伸びる鼻梁、そして、どこか憂いを帯びた視線。慣れない土地で、やや疲れを見せたと見える貌。その目元を縁取るのは、初めて出会った時にも目を惹かれた、珍しい、白い睫毛。薄灯りに照らされて、それは彼が瞬きをするたび、小さく光を反射した。
——不意に、手を握られたときに感じたものと同じ、胸のざわめきが甦る。
ヴァレーは物珍しそうにクレプスの手元、写本の内容を、頬杖をついて覗き込んだ。
「……本とは、このようにして複製されるのですね」
机の上には朱や黒のインクが整然と並び立ち、木製のペンに残される指型の凹みが、長年行われ続けてきた手仕事の勤勉さを物語っていた。
僅かな光源の中で、写本をよく見ようとしたためだろう。ぐっと寄せられたヴァレーの顔。どこか危うさのある身体的な距離の詰め方に、クレプスは自らの心理的な領分が侵されるような焦燥的な危うさを抱いて小さく身を引いた。
「……気の遠くなるような作業ですね。完成までに、どれくらいの時間がかかるのでしょう」
「長いものだと、一年以上になることもある。訓練で昂った心を落ち着けるには、良い手習いだ」
クレプスはそう言うと、壁に掛けられているクロスボウに目を遣った。
黒檀に銀の細工が光り、良く手入れの行き届いたそれがただの飾りなどでない事は、武器を扱った経験の無いヴァレーにもはっきりと見て取れた。
「立派なものですね。貴方は、これを?」
「ああ。ここで過ごすうちによく分かるだろう。私の使命も、そして、君の使命も」
会話の切れ目に、大鐘楼から鐘が鳴り響く。それは一日の終わりを告げる荘厳な音色だった。
鐘の音に向けて共に礼拝を済ませると、クレプスは灯り石に蓋を被せた。ふっと視界が暗闇に奪われ、手の感覚だけが頼りになる。
彼らは小さな寝台の、上下へと分かれてそれぞれの床に着いた。
眠りにつく前に、ヴァレーがぼそりと溢す。
「……すべては二本指様のお導きなのですね。貴方と出会えたことも。小さな教会でも、私は十分に幸せでしたが……身に余ります。こうして学ぶことができるとは」
「ここに来たからには、我々は日ごと勤勉であるべきだ。勤勉さ、そして誠実さを欠いてはならない。手を、身体を動かし続ける。さすれば、世俗の欲に乱される恐れなどない」
「そのようですね。私に何ができるかはまだ分かりませんが……為すべきことを為す。それが私たちの導き、そして勤めであるのでしょう」