——巨大な蛞蝓が縦横無尽に這い回り、口内を蹂躙しているかのようだ。
その錯覚に、ヴァレーはぞくりと身を震わせた。密接した場所からとめどなく流し込まれる液体を押し戻そうとするが、それに逆らうことは出来ない。
喉奥に押し留められた液体は、飲み下されるのを今か今かと厭らしく待っていた。
「ん……んうっ……! んぐ、うっ……」
耐えかねて、嚥下の反射が訪れる。唾液と混ざり合った甘い液体が喉を鳴らし、身体の中に送り込まれていく。
もう幾度も、この行為を繰り返されていた。男の下で惨めに手足をばたつかせてみても、力の差は歴然だ。
既に、兆候は現れていた。小さな火花が全身の皮膚の下にせり上がり、そのうちに触れられるところ全てが灼けるように疼き、身体を焦らせていく。意識は未だ保たれていたが、感覚の輪郭線は曖昧となり、ぼやけ始めていた。
外に向けられる注意は散漫で、肌の内側からせり上がる熱さだけに焦点が当たるような、酔いともせん妄ともつかない浮遊感が身体を支配していく。
甘くどろりとした薬液と、互いの唾液とを掻き混ぜながら嬲られる口内は、卑猥な水音も相まって熱を帯び、ざらついた舌でなぞりあげられる箇所は痺れるようなひりつきを訴え始めていた。
ヴァレーは目を閉じると、どうにか不快な感覚だけを追いかけようとした。
快と不快。均衡のあわいに揺蕩うそれを、ひとたび快の方向に傾けてしまえばどうなるのか。彼の理性は、それを頑なに拒もうとしている。だが、身体は繰り返された経験と結びつく記憶を求めてやまず、熱の集まる場所をぐらぐらと揺さぶった。
閉じられた瞼の裏にはあられもなく乱れ、淫らな言葉を放ち、男を貪欲に求めてしまう姿が思い起こされる。
眉根を寄せて、どうにかその像を振り払おうとした時に——男の手が乱雑に、服の下へと差し入れられた。
「ひゃ、ぁ……っ⁉」
堪えきれずに声が漏れる。大きく、ざらついた粗暴な手が擦り上げていく肌の上はぱちぱちと火の粉を散らすようで、通るところ全てを焦れた熱に差し替えていく。
——見透かされているのだろう。この後の事も、全て。
脇腹を撫でるように這い上がる手が、胸の先端を掠めてぴたりと止まった。男の太くざらついた指は、その突起を明確な意図を持って撫でさすった。ヴァレーの意思とは裏腹に、男の愛撫に胸の先端がぴんと立ち上がる。男は膨らんだ乳首を摘み上げると押し潰し、くりくりとつねっては弄んだ。
「……んっ……」
雄にとって生物的な名残として残されているだけに過ぎず、この歳まで特別な知覚を得る事もなかったその場所は、こうした行為の度にもたらされる奇妙な感覚刺激を、性愛の快楽と錯誤するまでに至っていた。
男の指が両胸の突起をこね回す動きに合わせ、ヴァレーの腰が揺れ、太腿は焦れたように擦り合わされる。それは薬液のせいで余計な疼きに苛まれる下半身を、密かに慰めようとしたのだろう。
男はその動きを、見逃さなかった。寝台を軋ませて、組み敷いた身体を再び押さえつけると、太腿の間に膝をぐいと割り込む。ヴァレーの下穿きは先ほどの激しい口接のさなかに剥ぎ取られ、何も身に付けてはいなかった。
明け透けに開かれた身体。男の用は、まさしく閉じられていたその場所にある。
控えめにではあるが、ヴァレーの股ぐらに備わる男性としての象徴もまた、確かに膨らみつつあった。足の間に割り入れられた男の膝は、その場所を大股に広げて固定した。再び口内を貪る舌遣いも、胸の先端を転がす指の動きも、いっそう激しさを増していく。頑なに逃がしていた舌は、今や抵抗も虚しく男の良いようにされ、双蛇のように濃密に絡み合っていた。
「ん……んぐっ、っふ……う……」
ヴァレーは息苦しさと止まらぬ快楽に、目元を歪めて身を捩った。飲みきれない唾液が顎を伝い、喉元へと垂れ落ちていく。だが、それを厭わしいと思う間もなく、中心を押し上げる膝の動きにまで翻弄されてしまう。
過敏に勃ちあがったそれに、まだ直接的な刺激は与えられないのに、快楽に絆された腰はびくびくと悶えた。
脳髄が蕩けていく。下半身はぐずつき、まるで溶けた金属のようにどろどろと熱く、重くなっていく。疼くように痺れだした全身には、もう上手く力が入れられない。肌はじっとりと汗ばみ、潤む目元はいっそう視界をぼやけさせた。
「薬回ってきたか? おら、後ろの具合も見てやるよ」
密着していた男の身体が離れ、ひとときの解放が訪れる。
そう思ったのも束の間。割り入れられた膝は柔らかく兆していた中心から臀部へと標的を変え、ぐにぐにと揉みしだくように、その場所を左右に広げ始めた。
ヴァレーの目元が不意に、焦りの色を見せた。肛腔内には既に、行為の前に注がれた潤滑用の香油がたっぷりと留められている。男の膝で意地悪く尻たぶを押し開かれる度に、それをはしたなく溢してしまう訳にはいかないと、余計な力が入る。
「——ッ……!」
羞恥に焦り、意識がそちらへと向かった瞬間——男の手が太腿をわし掴み、がばりと左右に押し開いた。晒け出されたそこはじっとりと汗に蒸れ、熱を帯び、誘うように色付いている。ヒクヒクと疼き、媚液が伝う排泄腔の割れ目は、今や男の欲をかき立てるだけの淫猥な性器へと成り下がっていた。
「良い眺めだな。中も確かめるぞ」
太く骨ばった指が、緩く閉じられていた割れ目を内側に捲り込む。
「ん゙、う、……っ」
我が物顔に直腸内部の肉壁を押し分け、ずぶずぶと埋め込まれていく指の動きに、ヴァレーは嫌悪を抱いた。だが、飲み下した薬液と同じ媚薬入りの香油で満たされてしまっていた腸腔内は、男の指による刺激を悦楽と共に受け入れた。
初めこそ、入り口は僅かな抵抗を見せたものの——ひとたび外部からの侵入を許してしまった後は滑らかに、満たされていた香油と共に、男の指を生温かく咥え込んだ。
もうすっかりと感度を高められた神経は、粘膜の表層をなぞるような些細な動きにも敏感に反応してしまう。
ゆっくりと、反応を確かめるように内壁を擦り上げられる度、甘くぐずついた鼻濁音が幾度も漏らされた。
「ん゙……っ、ぁ……ふ……」
「その声、もっと欲しくなってきたんだろ」
その言葉に、虚ろに揺れていた目が男を見据え、苦々しげに喘ぐ。
「好きで……こんな身体になった訳では……っ」
「どうだかな。なら、ここに聞いてやろうか」
男は笑いを押し殺すと、既に複数本が押し込まれていた指を激しく動かした。控えめだった水音は空気を含んだ粘性のものへと変わり、あからさまな音を立てながら腸壁をぐりぐりと意地悪く押し上げる。
「や、あ゙、あぐ、うッ……」
男の目的は明白だった。性感帯へと変えられた前立腺を標的にされ、腰から下の感覚が途端に鮮明になる。強烈な性感に、脊髄がびりりと貫かれた。
弓なりに反らされる身体を伝う電気的な刺激は、それ以上快楽の逃げ場がない指先や足のつま先を、ひときわじんじんと痺れさせていく。
「そこ……だめ……っ、ぃ、あ、ぁ……」
無意識のうちに、縋るように男の被服を握り込む。
——男の嘲るような視線の先。晒され、指で激しく掻き回されている場所がどのような淫乱な色を見せているかだなんて、到底考えたくもなかった。
「もうぐちゃぐちゃじゃねえか。さっさとイけよ……っ!」
「あ゙、あ゙ぁ……イっ、うぅ~~~っ……!!」
腹の中の小さなしこりから脳髄に至る快楽神経そのものを直接的に弄ばれ続けている身体感覚はとうに不快を手放し、せり上がる欲望を貪欲に追いかけ始めていた。込み上げるそれを理性のうちに押しとどめたくとも、男の執拗な追い立てが許さない。限界まで高められた身体は激しく痙攣し、性的な絶頂を全身で迎え入れた。雄の象徴はとろみのある液体を先端から溢れさせ、矜持を失ったままにふるりと揺れる。
「はーっ、はーっ……はぁ……ぁ……」
「ここまで解れたら、もう充分だな」
無理矢理に絶頂させられた身体は、未だ痙攣を繰り返す。ヴァレーはだらしなく喘ぎながら、脱力感にふわふわと身を預けていた。ずるりと圧迫感を失って引き抜かれた男の指。解され、緩んでしまった後孔から、腸腔内を満たしていた香油が溢れ落ちていく。こぷ、ぐぷ、と音を立て、弛緩と収縮の合間に液体を吐き出すそれは、情交の後に訪れる卑猥な感覚を思い起こさせた。身体の最奥へと吐き出された男の欲が溢れ、肌を伝って流れていく、あの感覚へと。
その想像に、ヴァレーの下腹がずくんと疼いた。きゅう、と窄まりが締まる感覚に合わせて、またこぷんと熱い媚液が垂れ落ちる。
「好きでもなけりゃ、そんな顔しねえだろ」
聞き慣れた、ベルトを外す音の後に晒け出される男の下半身。その中心にぶら下がるものは、今や柔らかく萎れてしまったヴァレーのそれとは似ても似つかないものだった。その先端は嵩高く張り出し、赤黒く充血した皮膚の表面には、くっきりと血管が浮かび上がっている。見るからに征服的な雄の形状を体現したそれが、ヴァレーの下半身に迫り——蕩けている窄まりに、ぐちゅんと押し当てられた。
「……ん、はぁ……っ」
少しずつ、ほんの少しずつ中心へと割り込むような動き。
ヴァレーはその緩慢な動きにもどかしさを感じると、上気した顔、ぼやけて濡れた瞳を男に向けた。身体は火照り、汗が肌を伝って滴り落ちていく。身体の奥に波のように訪れる、甘いむず痒さを逃すのも、そろそろ限界だった。たっぷりと奥まで塗り込まれた媚薬は、先ほどの指などでは到底届かない場所にも、ひりつくような疼きを与えていた。
——早く、長く太いそれで中を擦ってもらわなければ、頭の奥がどうにかなってしまいそうだ。
「その顔、誘ってるのか? すぐにでも挿れて欲しそうだな」
ヴァレーは何も言わず、男を抱き寄せようとする。
「今日は抵抗しないのか?」
男は自らの怒張を掴むと、鞭打つように割れ目へと叩きつけた。
「早く終わらせてください……もうすぐ礼拝の時間が……」
「まあ、ギリギリまで楽しませろよ。俺が奴らから助けてやらなければ、今頃どうなってたか。言ってみろ」
「それは……」
ヴァレーは、辛そうに眉根を寄せ、目を伏せる。
彼の瞳を縁取る、特徴的な白い睫毛が薄明かりに揺れていた。
「手遅れにならなかっただけ良かっただろう。お前が望むなら、すぐにでも元通りだ」
男はそう言うと、ヒクついていた場所を指で捲り上げた。敏感になっていた粘膜への入り口を乱暴にこじられ、痛みに瞳が見開かれる。
「……ツ……っ!」
「壊されてないだけマシだろ。既に散々遊び倒したって見た目だがな。まあ、ここを見るやつの目的なんざどれも同じだから、別に構やしねえか」
「……貴方も彼らと同類でしょう。今更善人ぶって……」
「なんだ? 俺が目をつけている限り、あいつらは手出し出来ない。だから俺の情夫になるって話だったろう。お互い合意の上での関係じゃないか。そろそろ素直に欲しがれよ」
「……私が好きで、こうしていると?」
「勿論。もう限界近い事くらい、お見通しだ」
男はそう言うと、下腹をぐりぐりと押さえ込む。
「ん゙、うッ……!!」
逃げられない腰がビクンと跳ねる。男の手には、柔らかなヴァレーの中心が握り込まれていた。
「媚薬を浴びてももう、こっちは半勃ち程度にしかならないなら、どこが何を求めてるかなんて一目瞭然だ」
「ッ、分かりました……分かりましたから、もう、良いでしょう……? 中が……熱くて……貴方のそれで、早く……」
「はっ、最初からそう言や良いんだよ」
男は目の前に晒された、性器と化した尻の割れ目に向けて——興奮に赤黒く張り出した楔を暴力的に、こじ開けるように深く突き挿れた。
白い睫毛に縁どられた、薄金に染まる目が大きく見開かれ、涙が滲む。待ちかねた性感に、儚く揺れる。
「んっ……、ひあ……、ッ、あぁっ……!!」
双丘の中心は、ずぷずぷと押し込まれる欲望の塊を抵抗なく飲み込んでいった。
「強がるだけ無意味なんだよ、この淫乱」
「あ゙っ、ん゙っ、は、ぁ、やあ゙ぁああぁっ……!!」
「嫌がる奴の身体には見えねえがな……ッ」
男はヴァレーの太腿を手痕が残るくらいに強く掴むと、肩上まで押し上げる。
部屋中に響き渡る、激しい行為の音。男の欲望がヴァレーの直腸内を貫き、蹂躙する度に、組み敷かれた場所からは潰れた濁声が悲鳴のように押し出されていった。
それは男にとって聞き慣れた、鞭刑に処される者たちが懇願する叫びに似ていた。その声に、男の下半身がぶくりと張りつめる。嗜虐心を煽られ、より一層の興奮を滾らせると、楔の根元までを深く押し込み、がっちりと下半身を密着させ、一定のリズムでヴァレーの体内を犯し始めた。
「ん゙……っ、ぐ、ぅっ……あ゙っ、は……あっ」
男の体重に乗せて、身体の奥深くへと異物が押し込まれる。内臓を押し上げ、あらん限りに腸腔内を捏ね回され、なす術もなく揺さぶられる身体は、突き挿れられる圧迫と引き抜かれる解放の繰り返しに、正常な感覚を手放していった。
ぐちゅ、ぐちゅん、ぐちゅっ。一定のリズムで繰り返される音。排泄腔を慰みものにされ、嬲られてしまっているのに、頭と身体はそれを淫らに求めていた。
「……ぁあ……ッ、それ……もっと……ぉ」
男の指で散々に虐め抜かれた、あの腸壁の奥のしこりを竿の先端が掠め、押し潰す度に、突き抜けるような快感が全身を駆け巡る。
指先がいっそう甘く痺れ、無意識のうちに男を求める言葉が放たれる。
脳の奥が享楽に堕していた。覚えてしまえば、二度とまともではいられないのに。
頭を、背中を、腰を、逃げないように抑えつけられ、体位を変えながら飽きもせず挿入を繰り返される。あまりの快感から逃れようと身を捩り、這いつくばった身体を逃すまいと、のしかかった巨体が上下する。赤黒い剛直がずぷっと引き抜かれ、また全体重と共に押し込まれては体内に全て収められる。打ち付けられるたびに尻肉は潰れ、腰骨がギシギシと悲鳴を上げた。
度重なる行為の末、数え切れないほど絶頂に導かれた身体では、もはやまともな思考で言葉を発することは出来ない。見開かれた目は中空の一点を見つめたまま。未だ萎えるところを知らぬ剛直を押し込まれる度、喉奥から潰れるように放たれる濁声だけが、ヴァレーの意識が未だ飛びきってはいない事を示していた。
「ん゙ぉ゙っ、お゙、ッ……、ん、ぐ、う……あ゙ッ」
「涎垂らしてよがりやがって。このまま奥ぶち抜いて飛ばしてやるよ」
男は荒い息をつくと、尻の上に手を当てがう。
「可哀想にな。最初にあんなもん打たれちまったら、もう普通じゃ満足できねえだろ」
ヴァレーの目の前に、小瓶が差し出される。
蕩けた琥珀色の瞳が、傾けられた液体を追って小さく揺れた。
「さあ、お待ちかねだ。お前も医師の端くれなら、身体のどこまで何がぶち込まれて、最奥にぶちまけられるか。しっかりと思い描いておけよ」
「あ゙……はぁ゙……っ……いや……、……これ以上は、もう……」
息も絶え絶えの中、取り戻された意識はそれ以上の快楽を本能的に恐れるよう、、譫言のように拒否を繰り返した。だが、男はそれを非情に遮る。
「俺だって慈善でやってる訳じゃねえ。やることはやらせてもらわねえとな」
男は怒張を引き抜き、再び扱き上げるとヴァレーに見せつけた。
ヴァレーはその光景に、ごくりと喉を鳴らした。ぐらぐらと最奥がぐずついていく。あの場所を無理やりにこじ開けられ、激しく犯されてしまったら。
表面的な否定など、もう何の意味も成さなかった。躾られていた。この男にはもう、逆らえない。
ふと、同室の彼の姿が頭をよぎる。
……あぁ……貴方だけには……。
こんな姿を知られたくないと、そう思った瞬間。
「い゙、っぎ……ひあ゙、あ゙、ぁぁあ〜〜〜〜ッ!!」
最奥を貫かれる。目の前が、火花を散らすように激しく明滅した。
否定を繰り返した意識に反して、身体の感覚は待ち詫びた快楽刺激を強烈な絶頂と共に迎え入れた。貫かれた身体は完全に屈服し、男の竿に媚びるような痙攣で嬉しそうに吸い付いては、吐精を導こうと誘いを掛ける。
数週間前までは何も知らなかった無垢な身体がここまで淫らに熟れるのかと、男は感じ入っていた。最奥を我が物顔で蹂躙する剛直は、決して実らぬ身体に種付け、本気で孕ませようと狙いを定めていた。その先を求め、受け入れようと乱れる蠱惑的な身体。
「自分から腰振りやがって……! 溜め込んだ分、全部注ぎ込んでやるからな。一滴も溢すんじゃねえぞ、この淫売が‼」
男の抽送が止まると同時に身体が大きく震え、長く、小刻みな痙攣に変わる。
「あぁ……まだ……まだだ……っ、孕め、この……ッ……‼」
吐き出される欲望を体内に感じながら薄れゆく意識の中。ヴァレーは、別の男の姿を思い描いていた。
†
——初めは、ただ圧倒されていた。
薄暗い部屋の中、居並ぶ者たちが洋燈の灯りに照らされた中心を取り囲み、熱心な眼差しを向ける。
中央に横たえられているのは、首から下を切り開かれた人間の肉体。
衆人環視の元へと晒された骨や臓腑は次々と、食肉の解体場のように手際よく、そして鮮やかに取り上げられていく。
固唾を呑んで見守られる中。静かな狂熱が過ぎ去った後には、虚ろな空洞だけが残されていた。
切り分けられた肉と骨と臓腑は、木桶の中へと無造作に投げ込まれる。血桶に揺蕩うそれは、さながら肉体のスープだ。
医療とは、何も生者にのみ行われるものではない。
彼らは人体の内部を覗き見る事により、その神秘を解き明かそうと試みていた。
死してなお人体を傷つける行為は、下級の医師たちにのみ任ぜられていた。より上位の医師たちは、自らの手を不浄の穢れになど染めはしないからだ。
死体は、その全てが悪人である。死刑囚に罪人、咎人——そして、宗教的異端者たち。
人としての権利の一切を奪われ、異議すら申し立てることの出来ない身体は、物言わぬ被験者となった。
首から下を切り開かれ、臓腑の一切を取り去られた身体。だが、その顔は穏やかに、柔和な薄笑みを浮かべていた。死後間もないころに残されていた苦悶の表情は、硬直の弛緩と共に全てが消え失せる。
台に乗せられている今この瞬間が、死後、彼らが最も穏やかに見える瞬間なのだ。
穏やかに、眠るように横たえられている身体は薄笑みのうちに、そうして何もかもを奪い取られる。
彼らに隠しておける場所などは、もうどこにもない。
知らされないのは、罪人の名前。そして生前に、どのような人物であったのか。
脂肪と、その下の筋肉。赤と白の組織に覆われた骨。更にその下を流れる生温かい体液と共に、体腔を満たす色鮮やかな臓器。
それらを指示書の通りに取り出し、記録し、廃棄するのが、彼ら医師見習いたちの勤め。
そうした日々の繰り返しに、下級の医師たちは少しずつ、慣らされていった。
全ての記録を終えたころ、大きな扉が開かれ、薄暗い地下室に光が差す。
上位の医師が現れると、彼らに記録の報告を求めた。下級の医師見習いたちは手早く処理を終えて遺体を安置する。
読み上げられるのは人間の身体をただの物質と、測量の対象に変えてしまうだけの言葉。
型に嵌めたやり取りを終えると、下級の医師見習いは様々な体液で汚れてしまった装束を脱ぎ去った。
その下に身につけられた白い被服が、薄暗い部屋にぼんやりと浮かび上がる。
そうして、彼らも大きな扉の向こうへと消えていく。
解剖台の上の遺体は白布に包まれ、未だ穏やかな薄笑みを浮かべていた。