信仰とは試しだ。
彼らは日々、試されていた。
導きの灯は戻らなくとも、その身の最後に還樹を賜ると信じていた。
円卓の暗部たちは依然、道を外れた褪せ人を狩り続けている。
手段は問わず、卑劣そのもののやり口でさえも厭わなかった。
ある時は宿敵と見せかけた影を送り奇襲を掛け、ある時は闇に身を隠して忍び寄り、背後から喉を切り裂く。
またある時は遠方から腐敗したボルトを打ち込み、相手が息絶える様を見届けた。
全ては正義の下に行われる。故に彼らは疑いの心を持たず、ただ二本指への献身を続けられた。
繰り返される日々の祈りと、指読みの巫女から伝えられる言葉だけを信仰のよすがとして。
後に伝え聞く限り、二本指が彼らの功績に言及したことなど、只の一度も無かった。
だが、そのような事を気に留める者など、誰一人としていない。
信仰とは双方向の営みにあらず。
最期を迎えた、ただその時にのみ報われるべきなのだから。
◆
「——奴らについて、未だ何の手掛かりも無いのか?」
不機嫌そうな声が地下の聖堂に響く。
顔に傷のある大柄な男は、手元の直剣の手入れをして暇を潰していた。
「はい。大きな進展は、まだ……」
若い密使の男は、それを受けて言葉を濁す。
この話題を、もう何度繰り返しただろう。
赤目の暴徒、彼らの足取りを掴みたくとも、あれから円卓への襲撃はぴたりと止んでいた。
「今、クレプス様があの爛れた血指について調べておられるようですから、今はその報告を待ちましょう」
円卓の暗部に志願をして日々を送る中で、若い密使の男は地道に成果を積み上げ、クレプスと目の前の男と、任務を共にするようになっていた。
だが、目の前のこの男は腕は立つが横柄で、馴れ合う素振りを未だ見せることはない。それに、手がかりが得られない事で日毎に苛立ちを募らせている男と、こうして顔を突き合わせるというのは、新入りである若い密使にとっては気が滅入る事このうえなかった。
若い密使の男は、小さくため息をつく。そうしているうちに、聖堂の通路の向こうから、暗部の長が姿を現した。
二人は顔を上げ、長たるクレプスを出迎える。
このところ、クレプスは爛れた血指の役割を明かすために調べを進めていた。
彼が手にしているのは、まさしくその指であった。しかし、目に映るそれは黒く、小さく縮み上がり、かつて見た禍々しい血の輝きはすっかりと失われているように見える。
彼らの長は居並ぶ二人に近づき、口を開いた。
「——血に爛れた指。この呪具の役割が明らかとなった。これを用いれば、奴らは直ちに褪せ人の元へと侵入することが出来る。原理そのものは、我らの鉤指に込められた術と、やはり等しいようだ。だが、所詮は紛い物。一度使用すれば、その効力は失われる」
クレプスは話を終えると、黒く干からびた、血塗れの指であったものを二人の前に差し出した。
「それではやはり、奴らは褪せ人が王になる事を——つまり、律の修復を妨げようとしているのか? それとも、指を集める理由が他にあると?」
顔に傷のある男が、干からびた指を忌々しそうに睨みつける。クレプスは、まだ話の途中だと彼を制止した。
「その答えを出すのは時期尚早だろう。奴らが何故これを用いようとするのかは、これから突き止めなければなるまい。道具には必ず、生み出された理由がある。我らが用いる、この小瓶もそうだ」
彼は言い終えると、懐から小さな装飾品を取り出した。
今しがた〝小瓶〟と呼ばれたそれは、ガラス製の小さな容器の周囲を覆うよう、黒鉄の美しい細工が施されているものだった。ガラスの容器の内部には、漆黒のもやのようなものがゆっくりと渦巻いている。
それは、暗部の秘術である『暗闇』の祈祷——その闇から生じる黒い霧を、クレプス自らが小瓶の中へと封じたものであった。
暗部の者たちはこれを携える事により、特別な祈祷に頼らずとも、自身の立てる音を完全に消し去ることが出来た。
「お前たちは皆、この小瓶を所持している。これを用いれば、暗部間での伝達を行うこともできる。そして、承知はしているだろうが万に一つ、二本指様を裏切るようなことがあれば——これに封じられた呪いが、所有者の命を蝕む」
彼はそう言うと、もやの渦巻く小瓶を手の中で転がした。
「道具の中でもこうした聖具や呪具は、同盟の手段としても用いられる。鉤指は二本指様の、この小瓶は、我ら暗部としての。忌まわしき、この爛れた血指もそうなのであろう。奴等の足取りを追い続ければ、いずれ裏で手を引く者へと辿り着けるはずだ」
「——私からもひとつ、宜しいでしょうか」
話の終わりに、若い男が小さく口を挟んだ。二人の目が、彼へと注がれる。
「情報を集めるにあたり、百智卿と称する古参の褪せ人、彼の協力を仰ぐのはいかがでしょう? 彼はこの地について、独自の情報網を持っていますから。彼の書庫でしか得られない情報も多く……」
その言葉に、クレプスが低い声で応じる。
「確かに、百智卿ギデオン=オーフニールは我らと同じ、二本指様の敬虔な僕だ。助力を求めるのも一考ではあろうが……」言葉を区切ると、少し言い淀む。「彼もまた、褪せ人なのだ。今は導きに護られている。だが、その身にいつ、何が起きるかは分からない。あまり、深入りはせぬ方がよいだろう」
それを受けて、顔に傷のある男もまた若い男へと応えた。
「我ら暗部の存在、そして使命は指巫女様を通じて、既にかの百智卿の知るところだ。協力関係には無い。だが、敵対もしていない。今のところはそれで十分だろう。それに、近頃あの男の周辺は、何やら他の事で立て込んでいるようだからな。珍しく、奴が感情を露わにしていたのは、最近出入りを繰り返している魔術教授のせいだろう? 円卓に褪せ人でない者が出入りするのは歓迎されぬが、ギデオンは指巫女様にも一目置かれている。その知己とあらば目溢しもされるというものか。だが、ここに面倒事を持ち込むというのは如何なものだろうな」
男は言い終えると、下世話な笑みを口の端に浮かべた。その顔を見た若い男は、僅かに嫌悪の情が沸き上がるのを感じる。この男はしばしばクレプスからも諌められてはいるものの、どうにも世俗的な物事に未だ、強い興味を持っているようだった。
事の顛末はこうだった。つい先日、円卓から一人の褪せ人が姿を消した。
それは、かの百智卿が腕を認めるほどの、弓の名手であった。小柄な身体から繰り出される矢はいかなる状況であろうとも的を外さず百発百中。また、その矢尻には特殊な膏薬が塗り込められており、掠めるだけで相手の意識は混濁、射抜かれればどんなに大きな生物でもたちどころに眠りに至る。その戦いぶりから、かの褪せ人は〝眠りのドローレス〟と称されていた。
そして、その褪せ人が百智卿の良き理解者であり、彼に助言ができる数少ない人物であったことを、ここ円卓で知らぬ者はなかった。度々円卓を訪れるレアルカリアの魔術教授も、百智卿、そしてドローレスの友人だった。
ここまでは既知の事実である。
だが、弓の名手である褪せ人が姿を消した理由。
それはあろうことか、彼ら三人の、痴情のもつれであったのだという。
顔に傷のある男はどこからかその情報を聞きつけるや、半ば楽しむように、その事実を彼ら暗部の同志たちへと告げたのだった。
世俗に染まる事は、即ち信仰の妨げとなる。通例、密使である者はいかなる欲をも断ち切るため、常に清貧を心掛けた。若い密使の男も当然のように、そう教えられて生きてきた。だが、所変われば品変わるとは言ったもので、全ての密使、及び狭間の外に生きた修道士らが、そうした禁欲的な心掛けの者ばかりではなかったと知る。
この下世話な男の出自について詮索をするつもりは毛頭なかったが、しばしば持ち出される世俗的な話は教会の習いに背くようで、若い彼の胸にはその度に、不快と嫌悪の情が押し寄せたのだった。
「……待て、今の会話を聞いたか?」
若い男が苦い顔をしていると、後ろでクレプスが鋭い声を放つ。
足を止め、師団長の無言の合図を受けて、続く二人も耳をそば立てた。
聖堂内の抜け道の向こう、円卓の通路では、重厚な鎧を身に纏った褪せ人が、数名の新参と会話を繰り広げているところだった。
「……ああ。本当だよ。曇り川の上流、そこの洞窟の近くだ。あそこでもう、何人もの褪せ人がやられるのを見た」
「相手は変わった短剣を持っているらしいな。攻撃を躱したと思っても、刀身から迸る血の刃に触れるとお終いなんだ。全身から血が吹き出して、一瞬のうちに命が尽きちまう」
「俺も見た。相方を囮にうまく逃げおおせたが、俺はもう、二度とあの場所には近づけねえ。その男自身も、血の海から湧き出るように現れて……だが、あれは怪物じゃない。確かに俺たちと同じ人、それも、侵入者だったんだ」
暗部の三人は壁の向こうの会話を聞き終えると、互いに顔を見合わせた。
「血の海から現れ、血の刃を振るい、褪せ人に干渉する侵入者だと?」
「……この近辺の侵入者、及び敵対者は全て我々が始末したはずだ。だが、今の話は聞き捨てならないな。血を操るのは咎人の特徴だが……茨の魔術でなく、血の刃を振るうなどとは、聞いたことがない」
「侵入者なら、早急に排除するべきだろう。だが、場所はここから少し離れている。どうする?」
「そうだな。一先ずは偵察としよう。できれば——」
「なら、俺が行こう。赤目の侵入者と関係があるか、一刻も早く確かめたい」
男の言葉を、クレプスが遮った。
「いや、私はしばらく別件で円卓を離れる。円卓の戦力が手薄になるのは、あまり望ましくはない」
「——それでは、私が向かいましょうか」
若い密使が、小さく手を挙げる。
「ああ。すまないが、ぜひそうしてくれ。だが、あくまでも偵察だ。相手の出方が分からぬ以上、戦闘は避けるよう」
クレプスは傷の男に向き直った。
「君は引き続き、円卓の監視を頼む。こちらも異変があれば、すぐに合図を寄越してくれ」
クレプスは懐から取り出した小瓶を指し示す。だが、傷の男は心底うんざりした様子を見せた。
「ああ。最近はここのお守りばかりで気が滅入るぜ。面子だって代わり映えなしだ。何か気晴らしでも探さないと、やってられねえよ」
†
「……任せていただき、ありがとうございます」
円卓を立つ準備をしながら、若い男が、クレプスへと声を掛けた。彼にとっては、これが初めての単独任務となる。一人前と認められたのだろうかと、彼は少しの高揚を感じていた。
「この所、うまくやっているようだな。暗部に身を置いて、この使命が簡単なものではないと、よく分かっただろう」
若い男はその言葉に、深く頷く。
「……あの男を偵察に送り出した所で、嬉々として血の短剣を振るう輩と刃を交えることは目に見えていた。しかし、先の話を聞くに、まだ相手の底が知れない。彼を向かわせたとて負けることはないだろうが、万にひとつ、戦力を失うのは数の少ない我々にとって、かなりの痛手になる。単純な調査であれば、君の方が適任だろう。だが、決して無理はするな」
クレプスが気付くことはなかったが、その言葉の直後、若い密使の顔に僅かな落胆が浮かんだ。〝単純な調査〟などと言われたことで、先ほどの高揚はあっさりとかき消えてしまったのだ。長の言葉に煽る意図などないと分かってはいたものの、どうにもあの傷の男に無駄な対抗心を抱かざるを得なかった。
「……口伝頂いた暗部の技は、全て扱えるようになりました」
「この短期間で? 飲み込みは早いようだな」
クレプスは驚いたとばかりに目を瞠った。
その対応にやや気をよくした若い密使は、続けざまにこう告げる。
「——いえ、習得には大変苦労しました。あなたの伝える秘術は、いわゆる黄金の祈祷とは理論が根幹から異なりましたから。あれらの技を、あなたは一体どこで?」
「そこまで理解していたとは、大したものだ。歩法、暗闇、影送り。これらはいずれも、独自に編み出した祈祷に相違ない。斯様な生き方を決めた時、私は自らに何が出来るかを考え続けた。それが形を成した時、これら暗殺の法が生まれたのだ。それは陰惨な使命に縋る者の、呪いの祈祷。同じ景色を見た同志にしか、会得の糸口は掴めぬだろう」
「そう——でしたか」
陰惨な使命。その言葉を聞き、若い男はふと、戦場で暗躍していたという従軍医師たちの姿を思い浮かべた。息も絶え絶えの兵士の背後へと忍び寄り、一息に慈悲を与えたという介錯者。書物に描かれた挿絵のひとつを思い浮かべる。それと同時に、教会の廃墟で出会った男の姿が重なった。
他愛のない記憶の連想による意識の繋がりは、あの男と話した時に抱いた、狭間の地に辿り着く以前の過去を想起させる何かを、再び思い起こさせたのだった。
若い密使は、目の前の長へと再び問いかける。
「クレプス様、あなたは、この土地に来る以前のことを覚えていますか?」
「ある程度はな。だからこそ、この地でも信仰を失わずにいられた。君はどうだ?」
「……記憶そのものは大きく抜け落ちてしまっているようですが、私も同じく、信仰の根幹は失っておりませんでした。元居た場所は大きな聖堂だったと、朧げながら覚えています。ステンドグラスに描かれた聖女の姿と——」
ああ。君も、大教会の出身だったのか。あれはどこも似たようなものだからな」
「修道士、書生、訓練中の医学徒に、警備兵たち。彼らに混ざり、私も日々祈りながら過ごしていたことでしょう。ですが、大半は恐ろしい記憶が占めています。この辺りは鮮明で……。燃え盛る炎、黒く立ち上る煙。崩れ落ち、逃げまどう人々。私も必死で逃げようとしたのですが、目の前で老いた修道女が落下した瓦礫に足を挟まれました。私は助けようとして近づきました。その時に、頭上から轟音が鳴り響き——そこで私の記憶は途切れ、目覚めると地下墓地のような洞窟に一人、立っていたのです」
◇
剣士の舞は流麗で、打ち合いでは決して後れを取ることはなかった。剣の流れには、その使い手同士にしか分かり得ぬリズムがある。舞うごとに拍子を取り、呼吸と共に繰り出される、ほんの僅かな隙を縫い、射抜くような一振りを浴びせかける。
確実に急所を狙う剣士の舞は、過去に対峙した全ての手練れを悉く葬り去ってきた。
しかし今、剣士は戸惑っていた。
対峙している攻撃はどれも荒々しく単調で、間合いは読みやすい——筈だった。
だが、どれだけ間合いを詰めようとも、攻撃に合わせて拍子を取ろうとも、相手の刀身から放たれる血の斬撃はこの世のものとは思えない禍々しい瘴気を纏って剣士の動きを絡め取る。
更に始末の悪いことに、相手の手数と勢いは、衰えるところを知らないようであった。既に、剣を交えてから半刻ほどが経っている。そろそろ、互いに疲れが見える頃合いである筈だが——何かがおかしい。
剣士は、焦りを感じ始めていた。
短剣での攻撃は全て躱しているものの、死角から退路を塞ぐように放たれる血の斬撃を、数度制し切れなかった。その時に負った傷から滴る血が、じわじわと体力を奪っていく。彼は歯を食いしばり、失われていく血に耐えていた。だが、判断能力と動きの鈍った身体に襲い掛かる血の斬撃と勢いは増していくばかりだ。
ついに、深い一撃が鳩尾を抉る——それと同時に、夥しい量の血が迸った。
「が……はぁ……ッ‼」
剣士がくず折れ、曇り川の水面に膝をつく。
「これで終わりだ」
抑揚のない凍てついた声が、頭上から浴びせかけられる。
次の瞬間。剣士の背に、無慈悲な一撃が振り下ろされた。
「……今日も順調のようですね」
血溜まりの中に佇む男は、剣士から切り取ったばかりの指を無造作に掴んだまま、現れた声の主へと顔を向ける。赤く輝く三又の槍の紋章と共に姿を現したのは、白い面を被る従軍医師の姿をした者だった。
「当たり前だろう。何人掛かって来ようが、全員指を切り落としてやる」
血溜まりに立つ男は切り取った指を懐に仕舞い込むと、血濡れの短剣をびゅんと薙ぎ払った。
辺りに血飛沫が散り、それが白面の装束を微かに汚す。白面は嫌そうな目を男へと向けたが咎めはせず、両の手を重ね合わせたままに、その場に佇んでいた。
「それはそうとヴァレー。勧誘は上手くやっているのか?」
ヴァレーと名を呼ばれた男は、ため息を吐きながら言葉を返した。
「おや? 貴方には、関係のない事でしょう」
「その様子だと、今日も収穫なしか。あんな場所でただ待つだけなどと、俺の役割であるのなら、とうに発狂していただろうな」
くくっと笑みを漏らした男に、冷たい声が飛ぶ。
「口を慎みなさい、ネリウス。モーグ様が直々に、このヴァレーに託された使命に意見するなどと。許される事ではありませんよ」
「ふん、俺は我が君主に意見したつもりはないぞ。その口調で誤魔化しているつもりかどうかは知らないが、お前こそ、よほど血の気が多い」
「貴方も、血の高揚でいつもより口がよく回っているようですね」
二人の身体を、男の短剣から発せられているものと同じ、赤い瘴気が包んでいた。
褪せ人の血を糧となす彼らにとって、どうやらこの瘴気は、ある種の高揚を与える効果があるらしい。血の飛沫を浴びたヴァレーと呼ばれる男にも、それは例外でないようだった。
「勧誘の暇つぶしに、この短剣を貸してやろうか?」
「いいえ、結構ですよ。私一人が倒せる数など、たかが知れています」
この蛮賊が、とでも言いたげに、白面の男の瞳が怪訝に細められた。
「ああ。だが、意外と襲われたとて返り討ちにしているみたいだな。そんな武器ともつかないもので」
男が顎をしゃくると、ヴァレーは徐に中空から彼の得物を取り出す。赤い光を纏って現れたそれは、世にも珍しい——薔薇の花束を模した鎚だった。
白銀で出来たその鎚は、一見して、美しい花束そのものに見える。だが、よく見ると花弁の一枚一枚が、剃刀のように鋭利な刃物によって設えられているのだった。
その薔薇を模した花のひとつひとつは、生々しく赤く濡れている。夥しい数の刃先の先端が、赤く滴るように濡れている理由。それは敢えて語られるまでもないだろう。その意匠はさながら、大輪の赤い薔薇が咲き誇るようであった。
「——うふふ、美しいでしょう? いつ見ても惚れ惚れしますね。このヴァレーが、モーグ様から直々に授かった贈り物なのですから」
モーグという名を出す度に、ヴァレーはうっとりと恍惚の色を瞳に浮かべた。
ネリウスはその姿を見て呆れるような顔を向けると、話題を変えて白面の男に問いかける。
「それで? 前に言っていた密使の男はどうだ。血の指にできそうか?」
ヴァレーは薔薇の花束を、貰ったばかりの少女のように嬉しそうに眺めながら答えた。
「ああした素性の者は今までも幾度か手中に収めましたが、彼は少し違う。そのうちに、面白い事が起きるかもしれませんよ。彼はどうも、あの暗部の一員のようですから」
その言葉を聞くや、ネリウスは目の色を変えて詰め寄った。
「なんだと? 最近蠅みたいに煩わしい、あの暗部の一員か? おい、お前。なぜ奴がそうだと分かった?」
「もう少しお待ちなさい。いずれ、ゆっくりと話してさしあげますよ」
「勿体ぶるんじゃないぞ。どういう技を使っているのか知らないが、血の指がもう何人もやられている。次に見かけたら俺に教えろ。すぐに殺して指を千切り取ってやる」
暗部と聞いて途端、ぎらついた殺戮者の眼差しへと変貌したネリウスに、ヴァレーがくすくすと笑みを溢す。
「誰が、血の気が多いですって? 先程の言葉をそのままお返ししましょう。それに、頭に血が昇りすぎているようでしたら、瀉血でもして差し上げましょうか。ほどよく血が抜けて、おとなしくなりますよ」
彼は先程まで可憐に弄んでいた凶悪な花束を、手の上で数度弾ませてみせた。それは鎚ではあったのだが、地金か、その構造のせいだろうか。ヴァレーが扱うさまは羽のように軽やかで、金属的な重みをまるで感じさせない。それはやはり、花束と呼ぶにふさわしく、どこまでも優美で、艶やかだった。
「——それに、まだこちらの手が通用するか、試してはいませんのでね」
そう言うと、ヴァレーは自らの腰から太腿を、曲線をあらわにゆっくりと撫で下ろしていった。
その仕草に、ネリウスは胡乱な目を向ける。
「全く、お前のやり方には付き合いきれねえな」
「何をおっしゃいますやら。未だ元の地での欲を忘れられない者への効果は絶大です。どれほど屈強な戦士であろうとも、そうした欲を覚えている限りは抗えません。それに——私がいなければ、新たな王朝の騎士が増えることは無いのですから。褪せ人を狩るしか能のない貴方に、私のやり方を非難される謂れはありません」
嗜めるような言葉とは裏腹に、彼特有の勧誘の手法に思いを馳せる目は、どろりと愉悦に歪んでいた。花束を弄び、腰を揺らす仕草は、さながら恋人との逢瀬を待ち焦がれているかのようだ。
「それに円卓の暗部。彼らを滅する事は、今仰せつかっている重要な任務のひとつでもあるのですよ」
「ほう? 秘密主義のお前が、いつになく饒舌じゃないか」
真下に倒れる剣士の身体から流れ続けている夥しい量の血が、曇り川の浅い水を真っ赤に染め上げていた。
血の高揚は、未だ二人を包んでいる。
「打ち明けておく方が、動きやすいこともあればこそ。暗部の長、クレプス。彼の事はよく知っていますから」
ネリウスは、ふいに声音の変わったヴァレーへと目を戻す。そして白面の奥の瞳から、その下に潜むであろう表情を思い浮かべてゾッとした。
——この男は複数の人物に向けて自らの身体を用いた親密な関係性を武器にはしているが、基本的に、他者に興味を示すことは少ない。その証左に、今まで関係した輩の顔も名前も、殆ど覚えてはいないようだ。だが、特別な興味を抱いた人物に対する執着は常軌を逸していた。そうした標的は絶対に逃がさない。そして、この男の元から逃げることも決して、許されない。
血濡れの薔薇の花束。先程軽んじたあの武器が、ヴァレーを裏切った者にどのように使われるのかを、ネリウス自身知らない訳はなかった。薄刃の花弁で幾度殴りつけられようと、決定的な致命傷は与えられない。それは長時間相手を痛めつける時にこそ、その真価を存分に発揮するのだろう。血の君主に使える同志ではあるが、馴れ合いたくはないと——常々そう感じていたのだった。
「さて、どうされますか? 貴方はもう少しこの場所に?」
「……ああ。血の指はまだ集め足りない。それに、他の野郎にも負けていられねえ」
「ウフフフッ。どうも近頃は、凶手の彼の勢いに負けているようですからね」
白面の奥の瞳が、意地悪そうに弧を描く。
「おい。聞き捨てならないな。俺があいつに、後れを取っているだと? 姿を隠して急所を切り裂くような通り魔擬きと、俺のやり方を一緒くたにするんじゃねえ」
「そうですか。それでは、これからも期待していますよ」
「……チッ、まあいい。今日はもう一人、獲物がいるみたいだからな」
先程の話に苛立ちはしたものの、ネリウスは新たな気配を感じていた。途端、彼の目つきが捕食者のそれへと変わる。纏う空気がひりつき、血塗れの刃をすうと撫でる。
ヴァレーはその姿を目にすると、薄笑みを湛えた仮面のまま——赤く輝く聖槍の紋章と共に、姿を消した。
†
曇り川の上流に若い密使の男が辿り着いた時、既に辺りには異変が生じていた。
かち合う剣戟の音、水面は激しく揺れ、飛沫が舞う。そこで彼は、噂に聞いていた男を目撃した。
——あれが、血の短剣を持つ侵入者。
彼は身隠しの祈祷を絶やさず、物陰からそっと、男たちの戦いに目を向けた。
例の侵入者と相対している剣士は、かなりの手練と見えた。血塗れの男の斬撃をいなし、踏み込み、強烈な一太刀を浴びせかけようとする。
だが、噂の褪せ人狩りから繰り出される血の斬撃は、剣士の軌道を読むかのようにその退路を断ち——死角を埋めるよう、とめどなく放たれていた。
剣士は既に、防戦一方だった。
この様子だと、防ぎ得ぬ一手を繰り出されたその時に、彼の命運は尽きるだろう。
若い密使の男が固唾を吞んで見守っていると、背後に何者かの気配を感じた。
姿を消しているために気づかれる事はないだろうが、敵襲であればまずい。そう思って振り返ると、そこに居たのは剣士と同じ腕章を付けた甲冑に身を包んだ、小柄な兵だった。恐らく、あの剣士の従者なのだろう。
彼は震えながら、剣士と短剣の男が打ち合うさまを、食い入るように見つめている。筋肉のつき方から、まだ戦闘には向いていなさそうだ。小柄な従者へと目を向けていると、彼の口から、あっと小さく声が漏れた。
剣士と、血の短剣を振るう男との打ち合いに若い密使が意識を戻すと、ちょうど剣士の身体から、夥しい量の鮮血が迸る様子が見えた。
剣士は口元からも大量の血を吐くと、がくりと膝から崩れ落ちていく。
そうして血濡れの男の眼前に膝をつき、晒された無防備な背中へと——容赦のない一振りが下ろされた。
「うう……ッ……!」
従者は声を押し殺し、悲痛な面持ちでその光景を見つめていた。
だが、それで終わりではなかった。血濡れの男は、背を貫かれた剣士を組み伏せると——彼の指をぎざ刃の短剣で、無造作に切り落としていったのだ。
既に虫の息であった剣士の断末魔が岩壁に反響し、この場所まではっきりと届く。
まさに今、目の前の侵入者は褪せ人を狩り、その指を惨たらしく切り落としたのだ。
目の前の男はあの円卓を襲った赤目の一員、爛れた血指を集める反逆者に違いない。
——だが、あれほどの手練れだ。今や戦闘は終わり、いつこの場所にも危険が及ぶかは分からない。これ以上、この場に留まるのはリスクが高すぎる。一先ず円卓に戻り、長への報告が最優先だろう。
若い密使の男は再び身隠しの祈祷を掛けると、その場から身を引く。
未だ気づかれてはいない小柄な従者の横を通り過ぎる時に——彼が小さな声で剣士の仇を討たんとするため、自らを必死に奮い立たせようとしているのを聞いた。
だが彼は腰が抜け、まともに立ち上がる事も出来なさそうだ。いくら主人の仇とはいえ、あの凶悪な男に刃向かったとしても勝ち目はないだろう。
若い密使はすれ違いざま、従者に気づかれぬようにそっと、身隠しの祈祷を掛けた。
——どうかこの効果が切れる前に、彼がここを立ち去る判断を下せるとよいのだが。
密使の彼は振り返る事なく、足早に曇り川を後にした。
†
聖槍の紋章は一瞬のうちに、曇り川の上流からヴァレーの身体を転移させていた。
彼が辿り着いたのは、吸い込まれそうなほどのまばゆい星空の元。それはリムグレイブや、リエーニエで見る星空とはまるで違っていた。
なぜ地下世界にこのような美しい星空が存在するのだろうと、初めてこの光景を目の当たりにしたヴァレーは、思わず感嘆のため息を漏らしたものだ。
そう思い見上げた先、遥か古代の遺跡と見られる白亜の霊廟は崖の上に聳え立つ。
そこは今や神人たちの閨。彼の敬愛せし王朝の君主が、伴侶と睦み合う場所。
その甘美な想像に、ヴァレーの心はいつも僅かに乱された。
ヴァレーはひとときの休息のため、霊廟近くの洞窟へと身を寄せる。そして、冷たい岩肌にひたりと背を預けた。そのままゆっくりと腰を下ろし、幾度目かのため息を吐く。昼も夜もなく同じ場所で褪せ人を待ち続けるのは、そう若くはない身体には堪えるのだ。
ふと、どこかから讃美歌が聞こえるような気がした。
心地の良い歌声にゆるゆると瞼が沈み、意識は泥濘に呑み込まれてゆく。
敬愛する君主から授かりし使命が、ヴァレーの脳裏へと浮かび上がっていった。
——為さねばならぬ使命。即ち円卓の暗部を瓦解させる事。
彼らが興ってからというもの、血の指の活動が頓に阻まれていた。ただでさえ、血の指として適合する者など少ない。それなのに、こうも邪魔立てをされるとは。
暗部の長。彼の姿を初めて捉えた時は驚いた。
まさか、彼もこの地に来ていたとは。
そして互いにまた、相容れぬ場所に身を置いている。
彼の仕える神は、紛い物だ。なぜあのようなものに献身が出来る?
醜いからこそ、その醜さを知っていればこそ、信徒を欺く美しい嘘をつき続けることができる。そして、縋る者はそれに騙される。いや、騙されたいのだろう。その方が楽になれる。全ての判断を委ねてしまえる方が、ずっと。
真実を知らぬ者は愚かだ。真実の美しさとはほど遠い、醜さに塗れた偽りの世界の中で全てを使い捨てられ、誰に顧みられることもない。
我が敬愛するモーグ様には、力と、意志と、愛がある。モーグ様こそが、真実に見えし気高き血の君主。
ああ、そのような存在のあの御方も、伴侶たる神人様の元では欲に溺れる事があるのだろうか。いや、そのような……私は、何と不敬なことを……。
自らの抱いた浅ましい考えを振り払うよう、ヴァレーは固く目を瞑りながら頭を振った。
混濁していく意識の中、取り止めのない思考の靄が、頭の中を塗り潰すように埋めていく。
厳かな讃美歌の声が、より一層強く感じられた。身体の周辺の温度が、数度上がる感覚がする。
——これは、血の高揚だ。
曇り川とは比べ物にならない程の強さの赤い瘴気に包まれながら、ヴァレーは感じ入っていた。
——ああ。今日もまた、十分な血が集められたのだろう。モーグ様がたった今、血の閨で伴侶と睦み合っている。
白面に匿された姿から伺うことは出来なかったが、彼は小さく微笑んでいた。
息が次第に荒くなる。全身が、甘く疼いていた。
ヴァレーは身を縮め、腕を強く握り込んだ。かつての場所で、そうしていた記憶が脳裏を掠める。
頭がぼうとする。視界が歪む。
——瞼が、ゆっくりと落ちていく。