翌る日から、ヴァレーは医師見習いとしての経験を積むこととなった。

下級医の実習室は医療棟の地下を降りた先、狭い石段から続く奥まった場所にある。
その先の空間、石造りの壁はじっとりと湿り、天井からは水が滴り落ちていた。床には古びた木の板が、どす黒い水溜まりを覆うように点々と並べられている。

そこに踏み入った瞬間、ヴァレーは思わず顔を顰めた。生臭さと薬品の匂いが折り重なり、入れ替えられる事もなく停滞し切ったような独特の臭気が鼻をつく。燻された薬草の束が、うず高く積み上げられているのが目に留まる。
ヴァレーは手で鼻を覆い隠すと、ゆっくりと部屋の中心へと足を進めていった。

物々しい部屋の中央には、いくつもの台が置かれている。麻布をかけられ、膨らんだ台から突き出しているのは、造り物のように色を失った幾人もの人間の足だ。運び込まれたばかりの真新しい死体は順番待ちをしているかのように密やかに、そして整然と安置されていた。

ヴァレーは異様な光景に、ごくりと息を呑んだ。

医師として、生きている人間とのやり取りを思い描いていた彼の期待は、幻想のうちにあっさりとかき消えた。こうして並べられる死体こそが、ここに集められた下級医師たちの医学的対象となる。死体の群れは地下の空間と同じ冷たさを湛え、無機質な存在として、じっと彼らを待っていた。

一人の医師の合図と共に、医療用のナイフが深く差し入れられる。対称に開かれていく皮膚の下に現れるのは、目も眩む光景。白い皮膚、黄みがかった脂肪、鮮赤色の肉、どす黒い血液、色とりどりの臓腑と、鮮烈な死の匂い。それは静謐な修道院で過ごしてきたヴァレーにとってはあまりにも生々しく、刺激が多すぎたのだろう。繰り広げられていく凄惨な行為に、彼は終始込み上げる胃液をどうにか逆流させまいと——顔を顰めながら、部屋の中でただただ吐き気を堪え続けていた。

「……はぁ。暫くは何も食べる気になれませんね……」

医療棟を後にしたヴァレーは、誰に聞かせるでもなしに呟いた。脳裏に焼き付いた光景と、鼻に残る異臭は未だ拭えない。ただ、少しでも清らかな空気を吸いたいと、彼の足は自ずと大聖堂中央の、礼拝堂へと向かっていった。

——礼拝まではまだ、時間がある。しばらくは人の入りも少なく、心を落ち着けることが出来るだろう。

そう思いながら、重厚な扉へと辿り着く。
開かれたその場所を潜り抜けた瞬間から、心地の良い静寂が身体を包み込んだ。
礼拝堂は、厳かな雰囲気に満たされていた。天井から差し込む光は柔らかで、先ほどの実習ですっかりと冷え切ってしまった身体に心地よい熱が与えられる。ステンドグラスの窓から差し込む光の彩りは、床に幻想的で美しい模様を描き出していた。

ヴァレーは肺の奥深くまで息を吸い込むと、先ほどまでの淀んだ空気を全て吐き出した。
気を取り直した彼がくるりと辺りを見渡すと、ふと、見覚えのある黒いケープの男が目に留まる。

——それは同室の、修道士の彼だった。
ヴァレーは他の信徒の邪魔にならぬよう、そっと、彼に近づいて声をかけた。

「随分と、お早いのですね。礼拝まではまだ時間がありますよ」

「ああ。そういう君もだな。さては、実習を終えたところか?」

黒衣の彼も顔を上げて応じる。隣に身を寄せるヴァレーに間合いを譲ると、思いがけない出会いに小さく笑みを交わした。
二人を、穏やかな光がふわりと包み込んでいく。

「ええ。生憎、向こう一週間の食欲と引き換えでしたが……」

「医師見習いの洗礼か。まあ、そうだろう。だが、じきに慣れるさ。君が、そう思わなくともな」

「……そうですか。はぁ……。今はあまり、考えたくもないことですね……」

他愛のない会話に時は過ぎ、やがて時刻が変わろうという時分になると、礼拝堂には信徒や学徒の群れが続々と集い出した。彼らは謙虚な足取りで礼拝堂に歩み入ると、めいめい席へと着いていく。
礼拝の始まりを告げる司祭が祭壇に立つと、辺りはいっそう静まり返った。捧げられる祈りの言葉は静謐でありながらも厳粛で、響き渡る声に、信者たちは熱心に耳を傾けた。

——こうして異なる背景や経歴を持つ者たちがひとつの信仰に集い、心を清め、神に対する感謝や祈りを捧げているというのは、なんと不思議な事だろうと、ヴァレーは常々感じていた。そして、今のこの瞬間がいたく神秘的で、心から居心地のよいものであるように思われた。

足を踏み入れた時と同じく、また肺の奥まですう、と深く息を吸い込む。

穏やかな時間は、ゆっくりと過ぎていく。
礼拝堂の中には、信仰と祈りの香りが漂っていた。

 

 

  †

まだ冷たい空気が肌を刺す早朝、クレプスは教会の外にある訓練場へと向かっていた。
身廊を抜けると、正門を目指して大きな中央のホールを足早に進む。早朝ではあるものの、すでに人の影は多い。その中でまたクレプスは、あの同室の医師見習いの姿を目にしたのだった。

ヴァレーは何やら、物乞いの男と話し込んでいるようだった。クレプスが初めて出会ったあの日のように、彼は老人の手を嫋やかに取り、柔和な笑みを浮かべて説話でもしているかのように見える。しかし、物乞いは彼の話などそっちのけで、握られた手を腑抜けたにやけ顔で眺めていた。

その背後から、衛兵たちがぞろぞろと姿を現した。ヴァレーは振り返ると、彼らにも微笑みかけ、挨拶をする。互いに顔見知りなのだろうか、衛兵は声掛けに応じると、通り過ぎざまに彼の肩や腰に、馴れ馴れしく手を置いた。そうした接触にもヴァレーは笑みを返すのみで、さしたる抵抗は見せなかった。

クレプスは、その様子を見て僅かに表情を曇らせた。あの衛兵たちの一部は無法者からの成り上がりで、立場の弱い者や新入りに恐喝や暴行を働くなど、良い噂を聞かない一団である。なぜこの厳粛な教会に、彼らのような衛兵が呼ばれるのか。クレプスは常々疑問に感じていた。だが警護の腕は確かなようで、衛兵たちは定期的に、この協会へと配属されていたのだった。

ヴァレーを取り巻く一団の動向に目を向けていると、巡礼者の群れがクレプスの前を横切る。列に遮られ、注視していた彼らの姿が見えなくなる。

——しまった。見失っただろうか。

数秒ののち、視界が開けた後には物乞いの男も、衛兵たちの姿も既に失われていた。クレプスはヴァレーの姿を見失ってしまった事実に焦りを抱くと、急ぎ、辺りを見回した。すると、人々の群れから離れるよう、ゆっくりと医療棟に向かう白衣の後姿が見えた。それがヴァレーのものであると気付いた時に、クレプスはほっと胸を撫で下ろした。

——どうにも同室となったその日から、それとも、初めて道を尋ねられたあの時からだろうか。修道士の彼は、ヴァレーの事が気になって仕方がなかった。彼自身、孤独な密命に身を窶す内に、知らず知らずのうちに他者との関わりに飢えていたのかもしれない。ヴァレーと顔を合わせ、言葉を交わす度に、彼の心の内にはいつしか喜びにも似たざわめきが走るようになっていた。
そして、そうした自分の変化への驚きと、今までに感じたことのない甘やかな心の揺らぎに乱される平穏に、どこか小さな不安を感じずには居られなかった。

 

クレプスが一日の勤めを終えて部屋に戻ると、そこには既に、ヴァレーの姿があった。医師見習いの彼は灯り石から放たれる淡い光源を頼りにして、熱心に医学書を読み耽っている。黒衣のケープを脱ぎ去ると、クレプスはそっと、ヴァレーの隣に腰掛けた。そして、写本のための古びたインクとペンを手に取り、こう言った。

「……医学の道はどうだ? 厳しいか?」

投げかけた言葉への返答を待つ僅かな間にも、胸の高鳴りに襲われる。ヴァレーと言葉を交わす時間に、密命と共に張り詰めていたクレプスの緊張はふわりと溶かされ、ひとときの多幸感に包まれるのだった。そして、その胸の奥に揺らぐ感情のざわめきを、彼はいつもの手習いで落ち着けようとしていたのだろう。

「私の、思った以上には……まさか、死んでいる人間が相手だったなどと……」

低く、心地の良い声がため息混じりに響いた。
声の主であるヴァレーは、解剖用図版が載った大きな本を捲りながら、うつらうつらと頭を揺らしていた。落ちかけた瞼に抗おうとしているのだろうか。だが、その抵抗は、あと数分と保たなさそうに見えた。

「……見習いはどこも苦労が絶えない。終わらない雑用、地味で陰鬱な作業の繰り返し。その合間を縫って、自力で何かを掴み取らねばならないのだからな」

そう声を掛けて横を見ると、ヴァレーは既に眠りの世界へと船を出し、くたりと机に伏し始めたところだった。すとんと瞼を閉じた横顔に、長い睫毛が影を落とす。その無防備な姿に、クレプスはどきりとした。
そしてふと、彼は今朝の広間での事を思い出した。修道院という、ヴァレーの生まれ育った特殊な環境の所為もあるのだろうか。だが、ああした振る舞いを見るに、彼は年齢の割にはいわゆる世間一般の不条理に対して無知が過ぎるように見えた。

この場所ですら、同室の者が必ずしも善良な人間であるとは限らない。人間の悪しき欲はそうした相手にこそ強く表れると、修道士であり、影の密使たる彼は常々教えられてきた。ヴァレーの言動や行動の前提には、相手の善性を信じ切っているようなところが見えた。
それが彼にとって、ここでの立場を危うくすることが無いようにと——クレプスは一呼吸を置くと、先ほどよりも大きな声で切り出した。

「その……、もしまだ起きていればだが。君の話し方や仕草には……少し、気をつけた方がいい」

その声に、ヴァレーの指がピクリと動く。

「…………私の? 気を付けるとは、どういう事でしょう。誰かを不快にさせでもしましたか……」

机に臥したままの声だけが、滑舌を失ったまま気怠げに応じる。

「……いや、その逆だ。ここは教会ではあるが、全ての悪しき心の者を排除できるわけではない。君のように誰彼構わず話し込んでいると付け入られる。物乞いに付き纏われたり、酷い時には恐喝紛いの目に遭わぬとも限らないぞ」

諫めるような声に、ヴァレーは上体を起こすと、眠気に閉じかけていた目を擦り、数度瞬かせた。

「この……神のお膝元に、斯様な者たちが? ですが皆、真面目に話を聞いてくれますよ。今までもそうした危険は……」

「今までは運が良かったんだろう。君が思うほど、この場所は理想に満たされてはいない。——とにかく、忠告はした。特に、衛兵の集団には気を付けろ。あれは恐喝や暴行の噂の絶えない連中だ」

クレプスは語気を強めると、一息に言い切った。普段と様子の異なる彼の姿に、ヴァレーも小さく気圧されたように見えた。

「……そうでしたか。余計な気を遣わせてしまいましたね。ご忠告、ありがとうございました。今の言葉は、胸に留めておきます」

気落ちした顔を見せるヴァレーに、クレプスは僅かに心を痛めた。だが、その場を取り繕うような気の利いた言葉が出せるほど、彼は饒舌ではなかった。

その後しばらくは、眠気の覚めたヴァレーが医学書を捲る音と、クレプスが紙にペンを走らせる音だけが、少しの気まずさを残したまま部屋に響き渡っていった。

そんな折、再び沈黙を破ったのはヴァレーの声だった。

「あの……明かせなければ結構なのですが。貴方はここで、何を見てきたのでしょう。修道士たる貴方は私よりもずっと、教会の内に根差した重要な使命を託されているのだと……」

「私か? それは……」

クレプスはその問い掛けに口籠った。密使たるもの、自らの使命について軽率に明かすなどは御法度である。だが、目の前の彼は今や、この教会に身を捧ぐ同志。修道士の裏の顔など、風説に流布している程度であれば、いずれ嫌でも耳にも入るだろう。その程度であれば、話しても問題はなかろうと、クレプスは判断した。

何より、先ほどの良かれと思った忠告で失ってしまった会話の機会を、再び逃したくはなかったのだ。

「……私は修道士の中でも、密命を受けて任務を遂行する密使だ。その中には、およそ人には聞かせられないような事もある。だが、君は今や同志だ。それに、今から明かす話は、君に関係がない訳でもない」

「——と、言いますと?」

「解剖で日々君が見ている死体。その全てが、咎人であるだろう?」

クレプスは机に開かれている、解剖のスケッチが描かれた大きな本を目線の先で示した。

「ええ。彼らは罪を受けた者。それ故に、死後、身体を傷つけられる事に目を瞑られている。それはいずれ医学の礎になり、彼らの身体と魂は、その糧となるのだと」

「解剖用の死体は全て、我々密使が秘密裏に処刑した異端者だ。中には、私が手を下した者も含まれる」

「——貴方が? まさか……」

ヴァレーの椅子が、小さく音を立てた。
まさか目の前の男の手がすでに殺人を犯し、血に汚れたものであるなどと、穏やかな場所で育った彼には、思いもよらない事実であっただろう。だが、ここで止める訳にはいかないと、クレプスは尚も話を続ける。

「壁のクロスボウは——君も分かっては居るだろうが、あれはもちろん、護身用などではない。闇に紛れ、我が得物である黒鍵を手に、私は教会の密命に忠実に、咎人に裁きを下し続けてきた。決して相手には知り得ない場所から、使命の通り命を奪う」

「そんな……」

ヴァレーの目が、恐れの色を孕んでいく。
だが、それと同時にヴァレーもまた、この場所で自らに課せられている役目の後ろ暗さを思い起こしていた。

——死者への冒涜とされる、死体を損壊する行為。身体の内部を晒け出し、白日の元へと明らかにする事。それを医学の礎とし、咎人の身体を医療の糧と成す事。神の名における学問の発展、その担い手として自らの手を血で染めているくせに、目の前の彼の行為を非難する資格など、あろう筈も無いのだと。

クレプスの声が、また部屋に響く。

「全ては大いなる意志の名の下に行われる。司教様はそう、我々に教えてきた。ひとりひとりの働きは取るに足らないものであろうが、励めばいつか、かの黄金の大樹を実らせ、大いなる真理に至る事ができるだろうと」

「——そのために、我々は死と、罪と向き合い続けている……」

「ああ。必ず誰かがやらねばならない。そしてそれは民ではなく、神の使い、神により近い者にのみ課せられる。我々は、選ばれし存在なのだ。それを忘れてはならない。信仰とは試しだ。我々は生涯をかけて、その献身を問われているのだから」

滔々と語る瞳には熱が篭っていた。修道院で生まれ育ったヴァレーは、自らの信仰をひとときも疑った事はない。だが、彼のそれは、ヴァレーのものよりもずっと、深く、深く心に根ざしているように見えた。

「神に、より近い者に……」

こうした使命は、民衆に明かされる事はない。かたや危険な異端者を手に掛け、かたや咎人の身体を切り開く。
この陰惨な使命は同志である彼らにとっての、特別、かつ秘密の共有事項であるのだ。

目の前の開かれた本の中、解剖を行われた人体の挿絵がヴァレーの目に映る。

——初めて目の当たりにした皮膚の下。脂肪を切り開き、骨に沿って肉を削ぐ。溢れ出る血、体液の海に揺蕩う、生温かい臓腑。吐き気を催すような非日常が、特別な使命へと変わる時。穏やかに眠る死体の群れ。名も知らぬ彼らに慈悲を与え、その身体に再び意味を与える事。

——それが、この場所で与えられた役割。

高鳴る鼓動と動揺の中、瞳に新たな決意を宿したヴァレーを、クレプスはただ見つめていた。
彼自身、罪人であれ神の名の下に命を奪う行為に葛藤がないといえば、嘘になる。だが、決してそのような揺らぎを口にすることは許されない。こうして誰かに使命を話すのも、彼にとっては初めての事だった。その告白に、どこか肩の荷が降りたような気がしていた。

「——君が居てくれてよかった」

安堵とともに、思いがけない言葉が口をつく。意識を戻していたヴァレーは穏やかに微笑むと、そっと彼に頷いた。

 

  †

彼らがめまぐるしく日々を送るうちに、再び季節が巡ろうとしていた。

ヴァレーとクレプスの間には、もうすっかり親密な感情が芽生えていた。互いに尊敬し、意見を交わし、辛い事があれば慰め合う。多感な時期から大人へと至る彼らにとって、特別な使命を与えられたという自負は信仰の元での自我を確立たらしめ、互いの結びつきをよりいっそう深める契機となったのだろう。

そんな折のこと。クレプスに、一週間の潜入任務が与えられたのだ。

「——潜入任務ですか。場所はどちらまで?」

黒檀のクロスボウの手入れをしながら、ヴァレーが問いかける。すっかりと板についたその姿に、クレプスは目を喜ばせていた。

自らが黒鍵と呼ぶ暗器の手入れを申し出てくれたのは、他ならぬヴァレーからだった。自らの分身とも言える愛弩を慈しむように整備してくれる彼の姿を、クレプスは日々好ましく思っていた。物騒な武具には似つかわしくない、白衣の頭布を被った男が、丁寧に黒檀と銀を磨き上げる姿。

——これが楽器などであるならば、それは随分と絵になったことだろう。彼の育ちに根差した特有の美しい所作と、黒く光る陰惨な使命を負った暗具とはどこか不釣り合いではあるものの、その対比が一連の動作の神秘性を、より際立たせているように見えた。

見惚れるあまり、先ほど投げかけられた質問に間を空けたことに気づくと、クレプスははっと口を開く。

「仔細までは明かせぬが、そこは権力者が集う非合法の地下遊戯場、だそうだ。潜入用の資料はここにある。私もこうした場所は初めてでな。少し緊張しているよ」

「私が見ても構わないのですか?」

「ああ。直接の場所ではない。ただの資料だから、問題はないだろう」

クロスボウの手入れを終えたヴァレーは、机の上に置かれた資料から適当な一冊を手に取ると、ぱらぱらと捲り始めた。互いに資料へと目を落とす中——突然、ヴァレーのあっと小さく驚いたような声が響く。

「どうかしたか?」

「……いえ、あの……。貴方は、その遊戯場に招待者として紛れ込むのですか……? それは、ええとつまり……」

歯切れの悪い調子で、彼は言いかけた言葉を飲み込んだ。開いた本で顔の下半分を隠すと、琥珀色の瞳を覗かせて尋ねる。

「まだ分からない。その時の状況次第だろう」

「……そうですか。ふふ。地下遊戯場とは、かなり刺激の強い場所のようですね?」

ヴァレーはそう言うと、開いた本の内側を彼に向けた。

「……ッ?!」

そこには裸で絡み合う人々の姿が煽情的に描かれていた。互いに素性を隠したまま、あられもない体勢で重なり合う。テーブルには豪華な食べ物が置かれ、権力者と見られる者の周囲には、無数の金品が散乱していた。

「この本は、どこから? まさか、貴方の蔵書ではないでしょうね?」

「ち、ち、違う! と、賭博場に娼館と聞いて、その資料を……」

狼狽し、両の手を顔の前でぶんぶんと振る彼の姿がよほど可笑しかったのだろうか、ヴァレーはついに吹き出した。

「うふふ。勿論、冗談ですよ。ですが、一週間の任務とは、寂しくなりますね」

手入れを終えた黒鍵を手に取ると、クレプスへと手渡して言う。

「どうか、ご無事に帰ってきてくださいね」

それから一週間が経ち。先の言葉の通り、ヴァレーにとっても密使の彼が不在である時間は、随分と長く感じるものだった。二段に分かれた簡素な寝台の下へと潜り込むと、一日の勤めを終えたヴァレーはすうと目を閉じる。すっかりと寝入った夜半、古びた木戸の軋む音に、ヴァレーは僅かに覚醒した。

目を凝らす先に見えたのは、ふらふらと疲れ切ったように部屋の中を移動する姿。その見覚えのある影は、眠っているヴァレーを気遣ったのだろうか。暗闇の中、灯りも点けずにケープを脱ぎ、そして手袋を外すと、クロスボウを壁に預けた。そして、どさりと力の抜けたように座り込んだのだ。大きなため息の後に聞こえてきたのは、後悔の言葉だった。
ヴァレーはその声に、ゆっくりと上体を起こす。

「……すまない、起こしてしまったか」

ヴァレーの動きを捉えたクレプスが、口を開いた。それと同時にふらりと立ち上がり、寝台へと影が向かう。そのまま梯子で上段に向かうと思われたそれは、ヴァレーの予想に反して彼の横たわる寝台に雪崩れ込むと——どさりと覆いかぶさった。

「——ッ、どうかなさいましたか?」

「……すまない。少し、このままで……」

クレプスは今、どうしようもなく悔悟の念に駆られていた。地下遊戯場での使命は成し遂げた。だが、想定外の犠牲者を出してしまったのだ。堕落と淫蕩に耽る地下遊戯場の主である宗教的異端者の主を、人気のない個室に誘い出した所までは指示通りだった。だが、一週間に及ぶ潜入で疲労と眠気がピークに達していたクレプスの手元は、あろう事か絶好の機会であった初撃を外し——慌てて逃げ出した相手を仕留めるさなか、遊戯場内に居た無関係の者を射抜き、殺めてしまったのだ。
当初の計画通りに地下遊戯場は摘発され、内部に居た者は殆どが逮捕された。二つの遺体もそれぞれに引き渡され、大教会の司祭と通じている警察は、全てを異端者たちの愚かな抗争として幕引きをした。

「…………」

押し黙り、無言で身を預けているクレプスを、ヴァレーはただ黙って受け入れた。孤独な使命を知った上で責めもせず、自らを知り、慰めてくれる姿。慎ましやかな修道院で育ち、その場所以外を知ることの無かったこの青年に、クレプスはいつからか、単なる友情を超えた感情を抱き始めていたのだろう。初めて出会った時、心をざわつかせたあの日から、ヴァレーは貞淑で勤勉な信徒として、さらには唯一の弱みを分かち合える隣人として、隣に存在してくれた。

初めて彼の前で任務への弱音を吐いた時、ヴァレーはただ黙って、こうして身体を包み込んだ。それはかつて、小さな修道院の前へと捨て置かれた事を憂い、悲しみに暮れていた彼を、修道女たちが代わる代わる慰めてくれたやり方なのだという。そして悔悟の告白をするたびに、ヴァレーはそうして、クレプスを慰めた。

クレプスはヴァレーに覆いかぶさったまま、また深く身を沈める。突然の重みにヴァレーは驚いたようだが、纏う空気を察したのか、彼はその身体をぐっと抱き寄せた。そして安らぎが訪れるようにと、彼の背を両の腕で包み込んだのだ。

身体の下、そして抱き込まれた腕の体温がじわじわと広がっていく。こうして互いに肌を重ねる体勢が、一週間に渡り目の当たりにし続けてきた潜入先では醜い欲望の象徴そのものであったにもかかわらず——突然の接触に身じろぎもせず、ただ純真に抱擁を続けてくれる彼に聖女のような清らかさと、そうした行為の一端を思い起こしてしまった自分に愚かな罪悪感を覚えていた。

ややあって気を落ち着けたクレプスは寝台に手をつき、上体を起こすと口を開く。

「……すまなかった。私は、君に——」

下敷きにしてしまっていたヴァレーの顔を覗き込んだ瞬間、はたと目が合う。暗闇に慣れた目と、明け方に差す光の元で、今や互いの顔ははっきりと見て取れた。
クレプスはその時に初めて、ヴァレーの顔が紅潮していたことを知る。

「……体重をかけすぎてしまったか!? 重いなら重いと言って——」

「……いえ、貴方の潜入先を思い出して……その……」

ヴァレーは泳ぐ目を逸らして、口元を手で覆った。琥珀色の瞳が、戸惑うようにふらふらと揺れている。

——ただひとつ分かるのは、彼のその姿を、その顔を見た時に、きっと何かに惑わされてしまったのだろう。今まで慈愛の抱擁として授けられてきた身体的接触に、クレプスは僅かでも他の意味を見出してしまっていた。

そして、それは決して許されない、許されるべきではなかったのだが。

「……?!」

彼は見下ろした先の赤面し、目を逸らしている顔を自らに向き直させると、顔を寄せ、唇を触れ合わせた。だが経験のないそれはただ、その場所を無遠慮にぶつけただけに終わる。

「……? 今のは、一体……」

ヴァレーは何が起きたのかわからないという風に、目を瞬かせた。気まずい沈黙が、二人を包む。クレプスは、弁明するように口を開いた。

「……い、今のは私なりの、親愛の証だ。……忘れてくれ」

のぼせていた頭から、彼は既に正気に戻っていた。これは、断じて惑わされた欲望の発露ではない。他者への愛情、慈しみの感情であるのだ。そうに違いない。いや、そういうことにしておいてほしいと——心の声が言葉にならずに、クレプスの胸の中でぐるぐると渦巻いていく。

起き上がり、しどろもどろになっている彼を見て、ヴァレーは、ついに吹き出すのを堪えきれなかった。

「手を取るよりも早く口接を? あなたの作法の方が、余程驚かされますよ」

意趣返しだと言わんばかりの、幼子を諭すような口調で付け加えられたそれに、クレプスは俯き、何も言い返せなかった。ペースはもう、すっかりとヴァレーに飲まれている。

「……本当にすまなかった。忘れてくれ」

顔を背け、寝台の梯子に手をかけたその時に、ヴァレーの手がクレプスの肩を引き寄せ、頬の稜線に触れた。そして。

「——ッ」

「私からも、お返ししますね」

互いに、暗闇に目は慣れていた。窓から流れ込む夜の光が、二人の姿をぼんやりと浮かび上がらせる。

「……な、それは、どういう……」

クレプスは今起きた出来事に、理解が追いつかなかった。ヴァレーはそれ以上何も答えずに彼の横をするりと抜けると、寝台の縁に寄り掛かる。白い衣装が、月明かりに照らされて幻想的に浮かびあがっていた。

「貴方にとっては親愛の証、なのでしょう? でしたら、何も問題はありませんよね。少なくとも、今は」

くすくすと楽しそうに笑うヴァレーに、クレプスは耳までをも真っ赤に染める。

——その後は、寝台の下から聞こえる穏やかな寝息を耳に、密使の彼はいつまでも眠る事が出来なかった。