燃える教会。

クレプスは若い密使と交わした話を思い出していた。
それは記憶の奥底にある出来事と、いみじくも符号を見せるものだった。

——あの時に、私は与えられた使命を確かに果たしたのだ。

自らに言い聞かせるよう、彼は心の中で繰り返し呟いた。あれは決して、過ちでは無かったのだと。

細く、蜘蛛の巣のように曲がりくねった石造りの細道を滑るように抜けていく。
少し前の事。顔に傷のある男は戻るなり円卓を立っていた。あの男は戦いに明け暮れている方がよほど、性に合うらしい。
纏う黒衣が無ければおよそ密使には見えず、傭兵とでも云う方が似合いの風体ではあるが、彼も確かに教会で密命をこなしていた信徒なのだろう。試しのひとつである暗部の祈祷にも、難なく馴染めたのがその証左。清廉潔白とは程遠い言動をするものの、素性がどうあれ不必要な詮索は、双方にとって無益である。

クレプスは暗部の証である小瓶を握り込んだ。

——裏切りがあれば、これが始末を付けるのみ。

小瓶の中には、黒い靄がゆっくりと渦巻いていた。

  

聖堂より続く抜け道から円卓に姿を現したクレプスは、疎らに集う褪せ人らには目もくれずに奥の扉へと歩を進めた。

円卓の中央に坐する閉ざされた部屋。
そこに立ち入る事の出来る者は限られている。クレプスは許されし者の一人だった。

——この間を初めて訪れた時には戦慄した。
薄暗い部屋の中。蠢くは大きな二本の指。
それはかの地、大教会で祈りを捧げた黄金の使徒。二本指——即ち大いなる意志の御使である。
その姿を受け入れた時。畏れは直ちに崇奉へと変えられた。

荘厳な扉を重々しく開き、その暗さに目を凝らす。
中には、小さな白い影が揺らいでいた。
そう、この間に存在しているのは何も二本指だけではない。その思索を読み、人語へと介す託宣の巫女——指読みの巫女が、その傍らに小さく佇んでいた。

ずっしりと、威圧的な空気が全身を包み込む。
指読みの巫女がどこか普段とは異なる様子で、二本指と対話をしているのが見えた。
まるで、その場所だけがぴたりと、時を止めてしまったかのようだ。

——今は、この場に立ち入るべきではないのだろう。

クレプスは両者の対話の妨げにならぬよう、そっと身を引いた。
だが、部屋を出る直前に指巫女の意識が引き戻されたのか、嗄れた声が彼の背にか細く呼びかける。

「ほう……そこな坊や……話をお聞き……」

呼び止められたクレプスは、巫女の前へと歩み寄った。
そこで、思いもよらぬ事実を伝えられたのだ。

——狭間に導かれる褪せ人たちが、突如として途絶えてしまったのだと。

「……巫女様……!? それは……真実なのですか」

青ざめたクレプスは、狼狽して尋ねた。
巫女の光無き眼窩が、暗渠の如く彼を見つめ返していた。
その姿に肌はぞくりと粟立ち、得体の知れぬものへの恐怖が呼び起こされる。
目の前の巫女は触れれば砂のように崩れてしまいそうなほどに乾涸び、老いていた。もはや人としての原型を留めず、胎児のように丸められた銅から突き出る枯れ枝のような手足が杖に縋り付く様は、さながら異形にも見えた。

——人智を超えた存在による思索の奔流。それは巫女たちの頭の中を、絶えず夥しい量の情報で埋め尽くしたという。指を介した大いなる意志との対話に耐え切れぬものは徐々に正気を失い、狭間の各地へと消えていった。
円卓に坐する二本指。今その対話はここに住まう巫女、エンヤのみに託されていた。しかし、この老いた指読みの巫女は此の所、度々二本指への違和を溢していた。
伝えられる思索——その波形が徐々に遠のき、読み取れる意図もより、抽象的な概念に変容しつつある。
そして、今まで斯様な事は、一度たりともなかったのだと。

クレプスはその言を聞き、老女の姿を見るにつけ、この巫女は一体、どれほどの時を指読みとして捧げてきたのだろうと思わずにはいられなかった。
しかし今、彼にとって重要なのは褪せ人が途絶えたという事実そのものだった。
クレプスは唖然として、言葉を失っていた。円卓を訪れる褪せ人の数は減るばかり。導きを失い、暗部に志願する者も、この所は途絶えて久しい。残る者たちも志半ばで命を落とし、今や数えるほどに僅かである。だが、暗部としての使命が成しとげられるまで、決して歩みを止めるつもりはない——。彼はそう、固く誓っていた。
それでも、王となる器の者は、いつ現れるのだろうか?
先ほど頭の中に渦巻いていた言葉が、再び心を苛み始めていた。

——あれは、過ちではなかった。私が教会の意志、そして二本指様に背いたことなど、断じて無い。でなければ、なぜまたこうして黄金の祝福たるこの地へと呼び戻されよう?

「ッ……」

刺すような頭の痛みと共に、燃える教会——。その炎が、瞼の裏へと克明に蘇る。
黄金樹信仰の中、炎は禁忌とされていた。伝説に拠ると、女王マリカに平伏した巨人は今も山嶺の頂で、巨大な火の窯を監視しているのだという。

 燃える教会。
 逃げ惑う人々。
 助けの手を差し伸べる事はなく、あの日、全てを焼き払った。
 全ては信仰の、そして大義の名の元に。
 自らが教会の密使として生きた、最期の日。
 炎の勢いは止まるところを知らず、建物全てを焼き尽くした。
 理由を問うことなど、許されなかった。
 余計な口を利かぬから、駒は駒たり得るのだ。
 不穏な情勢、そして象徴的な出来事は、後の信仰をさらに強固なものとしたのだろう。
 私は、信仰の元に正しく殉ずる事が出来たのか? 問いかけても答えはない。
 いや、そう思う事すら傲慢なのだ。
 信仰とは断じて、見返りに裏付けられるものではない。
 クレプスは目頭を押さえると、その光景を振り払うように頭を振る。
 言いようのない閉塞感が、辺りを昏く包み込んでいた。

 

  †

クレプスが聖堂内へと戻ると、そこには若い密使の姿があった。

「あなた様もお戻りでしたか」

「……ああ、君も。無事でなによりだ」

クレプスは安堵の表情を浮かべる。

「——それで、何か成果は見えたか?」

その声に、若い密使は興奮冷めやらぬ様子で応えた。

「ええ。曇り川の暴徒は間違いなく赤目、そして爛れた血指と関係しています。血の短剣を携えた男は剣士である褪せ人を狩り、その指を無残にも切り落としました」

だが、そこで言葉を切ると、申し訳なさそうに残りの言葉を告ぐ。

「彼自身が赤目であるのかは……正直分かりませんでした。圧倒的な力の差を感じ、近づくことすら出来ずに……あれ以上は危険と判断し、帰還に至りました」

「……そうか。いや、賢明な判断だ」

クレプスは部下を労うと、伏し目がちに口を開いた。

「私からも報告がある。だが、良い知らせではない。指読みの巫女様によると、この地に導かれる褪せ人が、突如として途絶えたそうだ」

「え!? そんな……。ですが、まだ……」

「ああ、しかし状況がどうあれ、我々は我々の為すべきことを為す。それだけだ。……曇り川の男については、早急に始末をするべきだろう。だが、相手がそれ程の手練れとなると……。こちらの戦力も、今は限られている」

暗部の長は顔を上げると、若い密使の瞳を見据えた。

「すまないが、もうひとつ頼まれてはくれないだろうか? 密偵の君に適している任務だ。油断は禁物だが、うまくやれば危険は少ないだろう」

若い密使は、身を固くして頷いた。
次の任務が語られる中——ふと、クレプスの目が止まる。彼は若い密使の腕に残る、負傷の痕を見て問いかけた。

「その傷はどうした?」

包帯の中心に滲む出血の跡。それは適切な処置により、既に止血されていた。
若い密使は決まりが悪そうに、おずおずと答える。

「……ああ、これですか。実は曇り川での調査の後、一度円卓に戻ったのですが……自主的に、訓練でもしておこうと思いまして……」

やや弁明するように話す理由は予想がついていた。若い密使はどうやら、あの傷の男が苦手らしい。大方、顔を合わせたくはなかったのだろう。

「そこで、不覚にも怪我をしてしまって。見知りの医師がたまたま近くに居たので、手当てをしてもらいました」

その言葉に、クレプスの眉がピクリと動く。

「医師……? この地の医師は全て従軍し、行方知れずであると聞いたが。君は、あの戦場の介錯者と知り合いなのか?」

何処か咎めるように射抜かれた瞳。予期せぬ表情に、若い密使はたじろいだ。

「いや、知り合い、と言いますか……。私も初めは、その姿に警戒しておりました。ですが、幾度か話すうちに——彼も我々と同じ、褪せ人だと知れたのです。元は医療教会で手技を治め、戦火で負傷兵らの手当てをしていた医師だったのだと。見た目こそ、この地の従軍医師らとほぼ変わりませんが。彼は肩布をゆったりと湛えた、古典的な医師の装いをしております。少なくとも、危険な人物では無いでしょう」

「肩布を湛えた古典的な装い——か。確かに狭間の地、介錯者としての従軍医師は皆、軽装であったと聞く。身に纏う布でさえ、戦地で治療を施す医師にとっては貴重な物資となるからな。だが、戦場を飛び回り——兵士の息の根を止めるだけの者たちにとって、それは邪魔となったのだろう」

「そうでしたか。随分とお詳しいのですね」

感嘆を込められた相槌に応じる事はなく、少しの間を置くと、暗部の長は再び口を開いた。

「——君は、未だ禁欲の誓いを守っているか?」

変えられてしまった話題に、若い密使の頭は少しばかり理解を遅らせた。だが、強められた語気に気を取り戻すと、一拍ののちに言葉を返す。

「え? ——ええ。勿論ですよ」

向き直った男の顔。沈み込んだ暗灰色の瞳が、僅かに揺れる。

「……それは良き心掛けだ。他方、我らは人間の欲にも敏感でなければならない。そうした場所にこそ、人の本質が隠されている。しかし、それに触れたとしても、自らは決して欲に呑まれてはならない。堕落は即ち悪徳に通ず。くれぐれも、清廉潔白を心掛けるよう」

そう言い残すと、暗部の長は身を翻す。
若い密使は新たな任務と与えられた言葉を反芻し、彼の背を見送った。

 
 

自らの部屋に辿り着いたクレプスは、大きな黒檀の作業台へと身を預けた。
乗せられているのは暗殺用に調整された愛用の黒鍵。壁には同志に受け渡すためにと複製されたクロスボウが、整然と並べられていた。
同じく作業台の上、膏薬の込められた壺には矢尻の先端を浸すよう、螺旋を描く優美な意匠のボルトが幾本も突き立てられている。そして、机の中ほどに放られているのはあの、干からびた血指だった。
クレプスは干からびた血の指を摘み上げた。呪いの気配を消してしまったそれは、今や何の力も宿してはいないと見える。それは聖具である彼らの鉤指を侮辱するかのように、醜く萎れていた。

彼は目元を不快に歪ませると蔑むようにそれを一瞥し、ぐしゃりと握り潰す。
冷ややかな視線が移された先にあるのは、使われるのを待つだけのボルト。
その先端は、朱い煙を僅かに立ち昇らせていた。
螺旋を象られた意匠は放たれた折、回転を加えながら相手の身体を抉るよう奥深くに突き刺さる。それは致命傷を与えるだけではなく、塗り込められた朱い膏薬を確実に標的の体内へと送り込むためのものだった。
壺の中の朱い膏薬はただの毒に在らず。この狭間の地、かつての勇猛なる赤獅子の大地を汚辱し、今尚も腐敗させ、恐れられている腐れ病である。
朱に染まるボルトを眺める黒衣の口元は、先ほどの目元と同じく歪んだ薄笑みを浮かべていった。

——導きを外れた者を、黄金の力により正しく葬るなどは言語道断。外道は外道らしく、異端の病の只中で腐り落ち、再誕なき後悔の末に苦しみながら死に至るのが似合いであろう。

クレプスは、異端の者へと向けた憎しみは誰よりも強いという自負があった。
この地で見えた腐れ病。それは、かつて対峙した疫病を彼に思い起こさせた。
再び脳裏には、遠ざかっていた記憶の断片が浮かび上がっていく。

疫病、教会、炎——。そして、一人の医師。

それは先程の若い密使との話に想起された疑念を、ゆっくりと手繰り寄せるかのようでもあった。
大教会。かつての居所と、同室の男。
教会に誓いを捧げたその日から、クレプスは厳しい戒律の元で常に自らを戒めて生きてきた。
だが、一人の医師と出会い、共に過ごすうちに、何かが少しずつ変わっていく気がしていた。
物心ついた時より密使として生き、何人にも心を許したことなど無かったというのに。

聖堂のホールで初めて声を掛けられたあの時。振り向きざまに見えた不安そうな顔。目を引いたのは珍しい、白く透き通る睫毛だった。差し込む光、捉えた煌めく光の粒子を目にした時に——それを美しい、と思った。
見知らぬ土地の装束に肌を包み、頭には白布を被る修道女の如き姿。そこに覗く健康的な肌、そして精悍な顔立ちとの対比。仕舞われた栗毛の髪に薄い唇。すらりと通る鼻梁と柔らかな目元、そして琥珀色の瞳。
あの時に、既に心を奪われていたのだろう。今なら確かに、そう言える。空虚だった部屋、閉ざされていた心の中に、彼はするりと入り込んだ。まるで、それが必然であったかのように。それから日毎、薄灯りの中で共に勉学に励んだ。
一つの灯りに身を寄せ、横顔を盗み見て。私は淡い心を、夜な夜な育て上げたのだ。
その先など、望むべくもない。それだけで満ち足りていた。隣に彼が居て、互いに研鑽を続けられれば。

そう——思っていた筈だった。
 
 
 
  †
 
近頃、ヴァレーの様子がおかしいと感じていた。
長い密命から帰還した時、顔を合わせるなり、彼は驚いた素振りを見せた。
お戻りでしたか、と告げられた声音はどこか上擦り、他者の存在そのものが、今の彼にとっては都合の悪いものであるかのように思われた。

その日から、私は再び彼と部屋を、夜を共にした。だがそこで、明らかな異変を知ることとなる。
寝台の下段から漏れる声。助けを求めるかのよう、切なく聞こえる喘ぎを初めて耳にした時には、心臓がぎくりと飛び跳ねた。断続的に繰り返されるその声に、熱病ではあるまいかと様子を見に近付いた。彼の横に腰を掛け、そっと額に手を当てる。

体温はやや高く、汗ばんではいるものの、あからさまな高熱はない。
ならば、悪夢にでもうなされているのだろうか。
しばらく、彼の横で様子を見た。次第に苦しげな喘ぎはおさまり、後には穏やかな寝息と静寂が訪れた。
朝になり、挨拶をする彼に問いかけた。昨晩、うなされていたようだが、大丈夫かと。
途端、彼は顔を曇らせ、どのような様子でしたか、何か口走ってはいませんでしたか、と捲し立てるように問い質した。その剣幕に、私は驚きを隠せなかった。

「いや……特には、何も」

「そうでしたか……。貴方のお手を、煩わせてしまったようですね」

閉じられた瞳に見える安堵の表情。だが、その顔は曇り、何かを隠しているように見えた。

「どうかしたのか? 私にできる事があれば——」

「いえ、ご心配には及びません。お邪魔になりませんよう、気をつけますから……」

会話を遮り、切り上げるように告げると、彼は足早に立ち去っていった。
あれから助けを求めるような切なげな声が、眠りのさなかに幾度も漏らされた。
それは私の注意を捕らえて離さず、その声を聞くにつれ——私の中には、ある感情が息づき始めていた。
毎夜、うなされるほど抱え込んでいる悩みがあるのだろう。
だとしたら、友として助けに、力になりたいと。
かつて私がそうされたように、彼も誰かに慰められることを期待しているのではないだろうかとの、淡い幻想を抱きながら。
そしてある日。私はついに、ひときわ苦しげに喘ぐ身体を、肩を——闇に紛れて、掴んだのだ。

「ッ……! あぁ……もう、それ以上は……!!︎」

だが、訪れたのは明確な拒絶だった。
弾き飛ばされた身体は何が起きたのか分からず、受け身も取れずに寝台の柱へとぶつかった。

「——ッ……!!︎」

「貴方……!?︎ すみません、お怪我は……!」

ヴァレーの声音は努めて平静を装おうとはしていたが、耐え難い不快を孕んでいた。
それは、明らかな嫌悪の情。
私は愚かだった。一体、何を期待したというのだろう? 彼を癒すことで、自らを求めて欲しかった? それとも、ただ、身を寄せて眠りたかったと? もしそれが叶ったとして、その次は——そして、その先は。胸の奥から込み上げる欲求を、抑え続ける事が出来たのだろうか?
自らの浅ましさに、私は深く恥じ入った。あの日の月明かりに照らされた、熱っぽい性急さと、濡れた瞳。妖艶で、こちらを誘惑するような、それでいて過敏な皮膚の表層だけを掠めるようなぎこちない口付けに、ずっと囚われてしまっていたのだ。
あれしきのこと、彼にとって何のことはなかったのだろう。きっと、あの行為に私を揶揄う以上の意図はなかった。

だからこその、明確な拒絶。
それ以上の接触など、望まれはしない。私だけが思い違いをしていたのだ。
そのことに気づいた私は、居ても立っても居られずに部屋を飛び出した。
背後から、呼び止める彼の声がした。だが、傷ついた身勝手なプライドが、振り返ることを許さなかった。

 
 
あの日から、私は彼から目を背けた。自らの仕事に誠実に向き合い、昼も夜もなく励んだ。ヴァレーとの接触は会話も含め、最低限に留めることにした。
唯一、黒鍵の手入れだけは知らぬうちに施されていた。それだけが、残された僅かな繋がりとなっていた。

このところ、情勢は不穏を増していた。暗殺の依頼が絶えることはなく、それは即ち、下級の医師たちにとっても解剖の対象が絶えぬ事へと繋がる。その中で、ヴァレーもまた忙しかったのだろう。彼の容姿にも、徐々に変化が見てとれた。伸びた髪はいつしか束ねられ、目元は以前よりも隈が濃く落ち窪み、口元にもまばらに髭が覗いていた。
大丈夫かと、声を掛けたこともある。少し、休息を得たほうがいいのではと。
だが、彼は首を振り、こう答えた。
起きていたほうが、こうして何かに没頭しているほうがずっと良いのです、と。

ある日の朝。司教様からの呼び出しを受けた。
隣国の貴族、異教の徒が反乱を起こした。間者として直ちに、密命にあたるようにと。
久しぶりに訪れた同室の隅には、薄らと埃が積もっていた。すべての支度を終えると、私は愛弩に手を掛けた。
そしてその夜。顔を合わせたヴァレーに、こう告げた。

「——夜更けに、ここを立つことになった。此度の反乱が収まるまで、戻る事はないだろう。数ヶ月になるか、数年になるか。君と共に励むことが出来て、光栄だった」

「今夜、ですか。それはあまりにも急な……」

「事態は一刻を争うという。私は間者として密命を与えられた。夜明け前には、隣国の境界近くに着いていなければならないだろう」

伏せられていたヴァレーの顔が上がる。互いに歳は重ね、苦労を色濃く残したが、未だ若き学徒としての瑞々しさは失われていない。出会った日と変わらぬ面影を見て、私は思いがけず、こう切り出していた。「君さえ良ければ、最後に見送りに来てはくれぬだろうか」と。

だが、その返答は意外なものだった。

「……私も共に、ここを出る事は叶うでしょうか」

「君が、どうして? 学ぶ事は、まだ沢山あるだろう」

「軍医として、お役に立てるでしょう。司教様に、お伺いを——」

共にここを出たいと、ヴァレーは訴えた。だが、急ぐよう踵を返そうとした身体を——私は焦りの中、咄嗟に制したのだ。

「……戦場の医師となるには、君は若すぎる。外は危険だ。然るべき時が来るまでは、この場所で研鑽を積む方が安全だろう」

ヴァレーの動きが一瞬、僅かに止められた。彼は向き直り、ゆっくりと腕を振り解くと、笑みを浮かべて言う。

「ここに居た方が安全、ですか。……私の身を、案じていただけるのですね。ふふ、そうでしょう。貴方の忠告が間違っていたことなど、一度もありませんでしたから」

口元に手を当てて溢された声音、どこか諦観の混じる気怠げな動きに、目を奪われる。向けられた瞳はもう、期待に満ちてはいなかった。
今からでも、再び彼の手を取れたら何か変わるのだろうか? だが、あの日の拒絶が、そうした思いを挫いてしまっていた。
ヴァレーは自らの腕を握り込み、小さく震えているように見えた。向かう季節は既に、冬になろうとしている。夜の空気はもう、すっかりと冷え込んでいた。

「……ここは冷えるな。もう、戻ろうか」

「あ……貴方……っ」

立ち去ろうとした背に浴びせられた声は、どこか縋るようにも聞こえた。
はっと振り返り、彼を見る。こちらを見つめる瞳。その瞳孔は僅かに開いていた。

「どうした……? どこか体調が?」

「いえ……」

彼の様子は、先ほどまでとは明らかに異なっていた。目は虚ろで、呼吸も浅く早く、繰り返している。

「私も、もう行かなければ……」

「こんな時間に? 一体、何処へ——」

「ああ、やはりこの身体では……。私の事はどうか、お構いなく。必ず、見送りには参りますから……」

ふらつき、足早に立ち去る姿。その姿が何かを隠そうとしている事は明白だった。無論それを、彼の問題だと見ぬふりも出来ただろう。もはやこの地を離れ、彼に関わる事など無いのであれば、当然にそうすべきだったのだ。
だが、私は感じていた。今、彼の身に降りかかろうとしている事そのものが、彼を酷く憔悴させ、夜毎うなされるまでに至らせた原因なのかもしれないと。
密使として秘密を暴く事を生業としている以上——そして、彼への執心を取り戻しかけてしまった以上、私は浅からぬ好奇心に負けてしまった。構わないでくれという彼の頼みを、私はついに聞き入れなかったのだ。
そして、見てしまった。模範的な修道女と姿を重ね、懸想すらしていた高潔なはずの彼。その男が、まさかあのような——。

 

記憶の澱から意識を戻すと、クレプスは苦々しげに息をついた。
 
赤目の暴徒。
褪せ人が途絶えたという報告。
そして、若い密使の出会ったという医師。
その全てが纏わりついては離れない凶兆のように、重く立ち込めていた。

——だが、あり得ない。堕落と享楽に耽り、爛れきった悪辣。業火の只中に崩れ臥した身体。その身に再誕の祝福など、与えられる筈がない。

「堕落と異端の背信者どもが……、正しく死ねると思うなよ……!!」

吐き捨てるように言い放ち、黒鍵に手を掛ける。そうして腐敗のボルトを携えると、薄暗い部屋を後にした。