旅——ですか?
長い睫毛に縁取られた、珍しい色をした瞳が静かに揺れる。
ローデリカは今しがた朝食を終えたばかりだった。
何故か急に、喉の奥が閊えるような感覚がした。軽く咳き込み、小さな声ですみませんと告げ、話の主に続きを促す。
「祝福が戻った者が居るそうよ。何かの思し召しかしらね」
祝福——。
失われし黄金樹の恵み。
それはローデリカの先祖の代に失われたものなのだと、幼い頃にお付きの者が教えてくれた。
狭間の地。
黄金樹に祝福されし土地。
ローデリカは昔話で聞いた言葉を反芻する。
“彼の地で祝福を受けし者たちは死せるとも黄金樹に還り、再び生まれゆくのだ”と。
ローデリカの先祖は戦士であり、かつて狭間の地の小国の王であった。
先祖は黄金樹の恵みを受け、自然豊かな土地を治めていたという。
——ところがある時、神々の乱心だろうか。
先祖の瞳からは、突如として祝福が失われた。
それは狭間の地全てで起きたのだと。
瞳が褪せた者たちは皆一様に、”祝福無きもの”として狭間の地を追放された。
勿論、王族であったローデリカの先祖も例には漏れなかった。
彼等は狭間の地を追われ——霧の海を抜けて、此処に流れ着いたのだという。
本当だろうか。と、幼い頃から思っていた。
生まれ変わりなんて、御伽話のようだ。
そんな世界があったとして、人は簡単に死ねるのだろうか。
その死を受け入れて、黄金樹に還る事が出来るのだろうか。
ローデリカは、この昔話に恐れを感じていた。
他の王子や公女たちは、皆一様に黄金樹の物語を好んでいたようだが——彼女はどうも好きにはなれなかった。
——彼女は、幼い頃から死を恐れていた。死の存在を感じる事があったのだ。
城内での立場が強く無いこともあり、精神に問題があるとあらぬ疑いを掛けられては堪らないので、今まで誰にも打ち明けた事は無かったのだが。
それに、自身でも何かの間違いだろう、と思っていた。
きっと、臆病で死を恐れるあまり、見えるはずのないものを見てしまうのね。
きっとそうだ。私の弱い心がそうさせているのだ。
窓の外に目をやった。
小鳥が二羽、戯れに飛んでいた。
——それでね、貴方にもそろそろ、戻るんじゃないかしら
「祝福」
ぼうっと考えを巡らせていた頭が現実に引き戻された。
「今——、何と仰いましたか」
声の主に向き直る。
いつものように流せる話ではなさそうだ。
「導きよ。祝福が戻った者には、導きが見えるらしいわ」
「導き?」
「居るのよ、もうすでに。王族の中にね」
——旅の支度も済ませているらしいわ。
「旅の支度、ですか」
この話は何故か良くない結果を招くような気がした。
話の腰を折るように。
相手が言わんとする事を失礼のないように、しかしはっきりと否定する。
「いえ、私にはまだそのような変化は感じられません。導きも見えません」
「ウフフ。そう言わないで頂戴。貴方の瞳はお母様に似て、とっても素敵な色をしているもの。きっとそのうちに、祝福が宿るでしょう、ね。それにもう、従者もたくさん選んだわ。王族として何不自由なく旅が出来るように」
貴方のためよ——。
ローデリカは元来素直で、人を疑う事をしなかった。
どれほど自分の意に沿わずとも、陥れられたり、謀られたりすると云う事は考えもしなかった。
——祝福を受けたら、導きが見える。
導きが見えたら、狭間の地に向かう使命がある。
黄金樹の物語も、全く好ましく思う事は無かったが、成人の王族としてこの華々しい使命が与えられるのはきっと、とても名誉な事なのだ。
何の取り柄もない私に、祝福と導きが?
使命の旅とは、どのようなものなのだろうか。
何を成せば、良いのだろう。
何の取り柄もない私が選ばれたのだ。
あぁ。きっと、喜ぶべき事なのに。この胸のざわめきは何なのだろうか。
——強く、ならなければ。
◇
旅立ちの日は、直ぐに訪れた。
彼女の為に、そしてこの日のためにと設えられた真紅のフード。
高価な薄絹を何層にも重ね、金糸や銀糸で手の込んだ刺繍が施されている。
装束も、素晴らしいものだった。
金属の糸をふんだんに用いた純白の長衣は、袖を通すと朝日を受けた水面のようにきらきらと滑らかに美しく輝いた。
——王族たるもの、みだりに顔を出してはなりませんよ。
言いつけを守り、真紅のフードを目深に被ると、すうっと力づけられるような心持ちがした。
「それでは、使命の旅に参ります」
これは臆病な私が、何の取り柄もない私が、変わる契機なのかもしれない。
従者たちは皆、亡き母に縁のある者たちだった。
私が旅路で気を遣わなくて良いようにと、公妃さまが配慮して下さったのだ。
私なら使命を成し遂げられると皆、信じてくれている。
期待に、応えなければ。
ローデリカ達の乗った船は、城の皆に見送られて港を立った。
城では小さいながらも宴が繰り広げられ、それは夜まで続いたのだった。
「素敵でしたね、あのフード」
「——あら、貴方もそう思うかしら」
宴の余韻に浸りながら、公妃はくつくつと笑い、満足そうに侍女に告げた。
「そうね。それはもう、特別なフードなのよ」
——ローデリカは、知る事はないのだろう。
真紅のフード、その本当の意味を。
それは、使命なき旅へと贈られる。
遥か彼方、二度と帰ることのない旅立ちに。
それは流離する、王族のための装束。
もちろん彼女には、導きなど見えていなかった。
——つまりはそう、体のいい厄介払いだったのだ。
◆
星空が、瞬いている。
航海は、驚くほど順調だった。
ローデリカたちは霧の海を抜けた。
霧を抜けてからは時間の間隔が薄れ、夢を見ているようだった。
どうやって辿り着いたのか、航海は順調だったのだが、誰も良く覚えてはいなかった。
これが導き——なのだろうか。
ローデリカはふと思った。
岸が見えてきた。
砂浜が広がっている。
あれは、古い遺跡の残骸だろうか。
白亜の柱が聳え立つ砂浜にそっと、彼女らは船を寄せる。
崖下の洞窟を見つけ、中に入った。
どうやら、ここは大きな墓地のようだ。
ローデリカは、何かの気配を感じた。
何かというには控えめなそれは、
流れ着き、死して尚死にきれない者たちの声なき声であった。
これほどはっきりと死者の存在を意識できたのは初めてだ。
怖い。
止めどなく頭の中に流れてくる死者たちの声。
彼女自身まだその声の意味を拾う事は出来なかった。
目深に被ったフードと洞窟内の暗さで見えないが、彼女の顔は青ざめ、その指先は震えていた。
「——先を急ぎましょう」
異変に気付いた従者の女がローデリカの肩を抱き、歩みを進めた。
墓地を抜け、石造りの昇降機に乗る。
眩しい。
目の前に、広大な土地が広がった。
これが——狭間の地。
黄金樹の恵みを受けた、ローデリカの先祖が追放された場所。
目の前に聳え立つ黄金樹に、はっと目を奪われる。
どれくらいそうしていただろうか。
ふと、人の気配を感じてそちらを見た。
緊張が走る。
腕の立つ従者が二人、彼女の前に立った。
——目の前の人物は、薄汚れた白い装束に身を包み、両の手を合わせて武器を手にしていないことを示している。
薄笑いを浮かべた面を付けているため、年齢も性別も判然とはしなかった。
どうやら、目の前の人物に敵意はなさそうだ。
ほっと、息を吐く。
それと同時に、目の前の白面から言葉が発せられた。
「……おお、皆様お揃いで。ご苦労な事だったでしょうね」
——男性なのか。
若い、という訳でもなさそうだ。
低くざらつき、何とも言えない纏わりつくようなその声音は、媚を含んでいるのか酷く耳に残った。
彼の話によると、使命は祝福の指し示す先、その導きにあるのだと云う。
「右も左も分からない貴方がたですが、この私、ヴァレーに会えて良かったのですよ」
「そのままでは皆、名もなく死んでいったでしょう」
「導きが見えているのなら、祝福はきっと指し示すでしょうね。あの断崖の城、ストームヴィルを」
——まずは、目指されてみてはいかがでしょうか。
後になってローデリカは自分の素直さを、純真さを、愚直さを悔いた。
悔いたところで、もう何も元には戻らない。
「直接、城へ向かうのですか?」
「他に見て回れるところがあるかもしれませんよ」
「先ほどの者を、すっかり信用なさるので?」
数名の従者は、先を急ごうとするローデリカを引き留めた。
だがローデリカは、”この地に来たからには、導きに従うのが一番よいのでしょう”と従者たちの言を跳ね除けたのだった。
ごめんなさい。
全て、全て私のせいなのです。
あぁ、全て私が悪いのです。
どうして私だけがこのような。
私が、一番初めに死ぬべきだったのに。
今となっては、白面の者の意図が何だったのか知る由もない。
本当に導きの先を教えてくれていたのか。
それともあのおぞましい者の手先だったのか。
白面の者の言った、祝福。黄金の灯。
ローデリカには、薄々分かっていた。
それでも、目を逸らしてしまっていた。
従者たちの前では”導きに従いましょう”と、先導者として振る舞っていたのに。
彼女がどれだけ黄金の灯に目を凝らしてみても。
終ぞそこには、何の導きも見出せなかったのだ。
——皆。ごめんなさい。
私についてきてしまったばかりに。
使命の旅など、初めから無かったのかもしれない
無気力に横たわり、指先ひとつ動かせない状態でローデリカは思った。
外は嵐が吹き荒ぶ。
この襤褸屋では満足に身体を休めることも出来なかっただろうが、今は彼女の身体を金色の防護壁が優しく包み込んでいた。
従者の中に、古い祈祷を使う者が居たのだ。
狭間の外では既に失われた法で、その命と引き換えに何者にも侵すことの出来ない黄金の防護壁を展開するのだという。
一子相伝の、黄金樹に由来する護りだった。
そう、彼女は今、たった一人だった。
一体、ストームヴィル城で何があったのか。
あんなもの、見たことがなかった。
異形と言うにも生温い。
それは、蜘蛛だった。
大きな大きな、蜘蛛であった。
老醜のデミゴッド、接ぎ木のゴドリック。
接ぎ木が何を意味するのかは、あの姿をひと目見れば分かるだろう。
あんなものに、敵うわけがない。
あれと戦うことが使命なのだとしたら。
”
祝福が戻った
導きが見える
名誉ある使命の旅!
ローデリカ、万歳!!
”
”
狭間の地に舞い戻れ
デミゴッドたちを倒せ
エルデンリングを求めよ
”
——初めから、出来るわけがなかったのだ。何かを成せると思い上がってしまった。
私のせいで皆は。
皆は蛹になってしまった。
致命傷を負い、戦意を削がれても。
戦いは、それで終わりでは無かったのだ。
既に戦う力を失くした従者を、大きな蜘蛛がその沢山の手で持ち上げる。
満足に動かすことも出来ない四肢は無理矢理に掴み、引き伸ばされた。
——従者の身体から、叫び声が響く。
目を塞ぎたくなるような光景だった。
そして蜘蛛は、高笑いをしながら嬉しそうに、まだ有り余る腕で彼等の腕を、脚を、頭を、斬り落としたのだ。
惨劇は、動く者が居なくなるまで続いた。
ローデリカは従者が最期にかけてくれた祈祷である身隠しと、黄金の防護壁とを纏い、何とか逃げ仰せたのだ。
強さを求めて、蜘蛛は手や脚を接ぐ。頭を接ぐ。接がれた者に、意志はあるのか。
従者たちの瞳に、祝福は宿っていなかった。
死ねばそれで終わりなのだろう。
祝福なきものは、この地で死ねばどうなるのか、何処へ行ってしまうのだろうか。
死なずに蜘蛛の一部になるのか。
ああ、皆と同じになりたい。
こんな恐ろしい地で、これ以上独りでは居られない。
導きが見えていないのなら、或いは私も——。
絶望の中で、ふと気配を感じた。
ひんやりとした感覚が、ローデリカを包む。
「貴方は……」
それは、クラゲの霊だった。
城から逃げる時に、抜け道を教え、導いてくれたのだ。
この霊に害のないことだけがあの時、研ぎ澄まされた感覚の中ではっきりと感じられた。
クラゲの導きに身を委ねる事に恐れは無かった。
城を出て、ここに来るまでの間に気配が消えてしまったので居なくなってしまったのだと、そう思っていた。
クラゲはただ、ローデリカの近くを漂っていた。
「ありがとう。慰めてくれるの?」
少し身体が動くようになり、ローデリカはゆっくりと上体を起こす。
霊がいっそうはっきりと、視えるような気がした。
——これは、クラゲの霊の感覚なのだろうか。
どこか懐かしいような、物悲しいような。
誰かを探しているのだろうか、ああ、あなたも寂しい、寂しいのね。
それでいて、小さな強い意志——そう。使命のようなものを感じた。
私には、何も無かった。
もう一度、そこへ行く勇気はまだ無いが、せめて皆と共にありたい。
ローデリカのその瞳から、涙が溢れた。