遠い、異国の地。
かつてそこに小国があった。
今は亡きその国は、
名をエオヒドといった。
それは、孤高たる修験者たちの地。
このような逸話がある。
エオヒドに伝わる宝剣
その赤金は決して朽ちることが無く、使い手の気を宿し自在に動く
——エオヒドの剣は、空を舞うのだ。
罪人を乗せた馬車が、黄金の丘をゆく。
咎人だ。
死刑囚だ。
馬車を見た者はそう言った。
その馬車はゆっくりと、しかし確実に処刑台へと歩を進める。
かつて罪人は、各地で捕らえられて引き回しの刑に遭った。
そしてアルター高原に入り、罪人送りの道を
行き、罪人橋を越え、
ゲルミアの火山館の主、法務官ライカードの元に送られ、裁かれたのだ。
先立って、朱い腐敗の大地、
ケイリッドにある牢獄洞窟から一人の咎人が移送された。
その壊れかけた鎧には、咎人の中でも特に死刑囚である事を示す鉄の茨が、身体の自由を奪うために幾重にも巻き付けられていた。
捕らえられたときに男は抵抗もせず、何も語らなかった。
裁きを受け、死刑を宣告された彼は、処刑の日、ただその日を待つのみであった。
男は、名をエレメールと言った。
今は亡き小国、エオヒドの生まれである。
彼は、貧民街の出だった。
産まれた時には既に母の姿はなかった。
盗みを働きながら生計を立てていた彼の元に、ある日一人の男が現れた。
男は、修験者だと言った。
見込みがある者に声を掛けている。修験の地に来ないかと、そう言われた。
エレメールは承諾した。
この街で盗みを働き、ネズミと共に下水管を駆けずり回り、汚泥を啜りながら生きるよりは何であろうとマシに思えたのだ。
生まれが全てだとは、思いたくなかった。
この身一つで成り上がれるなら、試してみようと。
——持たざる者でも、何かを掴めるだろうか。
エレメールは稀代の才の持ち主であったが、
それ以上に並々ならぬ熱量で修行に打ち込んだ。
その気は荒々しく強大で、すぐに頭角を表した。
数多の師範達もエレメールには一目置いた。
もはや誰も彼に敵うものは無かった。
“エレメールが居ればエオヒドの地も安泰だ”
彼は成果を挙げ、次第に英雄と呼ばれた。
そして英雄の武器として、エオヒドに伝わる宝剣を授けられたのだった。
この俺が英雄か。
持たざる生まれであった彼は、英雄と呼ばれる事に満足していた。
しかし、
その日々は唐突に終わりを告げた。
エレメールは、奇襲を受けたのだ。
闇に乗じて、並々ならぬ殺意が彼に向けられていた。
身に覚えはなかった。
敵襲だろうかと、そう思った。
だが、彼を襲ったのは師範達であったのだ。
エレメールは、理解の出来ぬまま身体が動くに任せ、剣を、その拳を、無我夢中で振るった。
煮え立つような怒りの中で、彼は思った。
何が英雄様だ。
貧民街に生まれ、蔑まれ、
やはり此処でも何も変わらないのではないか。
鬼神と化したエレメールを止められる者は、
誰一人居なかった。
師範達は皆、無惨にも変わり果てた姿となり、
残った修験者達もこの地を捨てて一人残らず逃げ出した。
全てが終わった後、
彼は自らをこの地に呼び寄せた、かつて師であった男の骸を見た。
——ふと、何か書簡のようなものが見えた。
封蝋が、それが王家からのものである事を示していた。
エオヒドの気の使い手、特にその師範達は国の傭兵であり、王の私兵であり、密偵でもあったのだ。
エレメールは血溜まりに濡れたそれを拾い上げ、目を落とす。
その内容に、目を疑った。
“英雄エレメールは落とし子だ。王家の汚点である。生かさず、殺せ。”
血に塗れていたが、何とか読み取れた言葉はそう意味していた。
エレメールは、王と身分の低い女との間に生まれた落とし子だったのだ。
——身分さえ無ければ、正統な王族であったのか。
子として迎えられるどころか、生まれ一つで命を狙われる。
英雄として名を馳せて尚、俺は不要な存在だったのか。
エレメールは、自分が掴み取ろうとしてきたものが、血の滲むような努力が、野心が、全て無駄な足掻きであったと知った。
生まれを覆すことは出来なかったのだ。
貧民街のエレメールも、
英雄のエレメールも。
何と云う事はない、等しく同じ記号だったのだ。
馬鹿馬鹿しい。
乾いた笑いを、抑える事が出来なかった。
——ならば、全て奪ってやる。
生来奪うことで生きてきた。
何の努力も無駄であるなら、
それら全てを踏み躙られるのなら。
その方が、ずっとよい。
狭間の地の放浪の商人達にとって、情報は良い飯の種になる。
最近は専ら、エオヒド崩壊についての噂で持ちきりであった。
何でも、英雄と呼ばれた男が謀反を起こしたのだという。
その男は一人でエオヒドの修験の地を壊滅させた後、王に手をかけて簒奪の限りを尽くし、姿を眩ましたのだそうだ。
それ以降、男の行方は誰も知らないという。
「案外、ふらっとこの地に来てたりしてなぁ」
鍋の火加減を気にしながら、若い商人が言う。
「お前、滅多な事を言うもんじゃぁないぞ。
それでなくても最近は、異形の物が増えてるんだ。真面な人間に出会う方が難しくなってきてやがる」
やや年嵩の商人が、今日の稼ぎを数えながら気忙しそうに言った。
「儂等は元来祝福とは無縁の者。そろそろ身の振り方を考えんといかんかのう」
一際年老いた商人が、小さく溜息を吐いた。
「そういえば、この話は知ってるか?」
若い商人が口を開き、身振りを添えて外連味たっぷりに言う。
「生ける呪い、異形の母デーディカ!!」
「おい。声がでけぇしやめろ気色の悪い。縁起でもねぇことを軽々と口にするな。腹も膨れたし、俺ぁそろそろ帰るよ」
年嵩の商人が荷物をまとめた。
「そうかい、つれないねぇ。ま、達者でな。そっちの爺さんは知ってるかい?」
「少しはな。だが、あんまりその手の事に深入りするんじゃないぞ。好奇心は猫をも殺すと言うだろうが」
年老いた商人が釘を刺した。
年嵩の商人は一行と別れた後、野営のできる場所を探していた。
異形の母デーディカ、か。
先刻の話を思い出す。その話について、全く知らない訳ではなかった。
デーディカという名のその女はあらゆる不義、姦通を行ない無数の異形の子をなしたと云われている。
先日仕入れた、小さな打楽器を売っていた商人から聞いた話だった。
打楽器はどこか遠くの、異国の踊り子のものだと聞いた。
そういえば、法務官ライカードの妃も異国の踊り子だったか。
何にせよ、物騒な世の中だ。異形の母など、関わって良い手合いで無いことは明らかだった。
元英雄のエレメールとやらも、この地に来たところで精々正気を失って、永遠にこの地を彷徨う亡者に成り果てるのがオチだろうよ。
手頃な場所を見つけ、腰を下ろす。
——今日は此処で休むとするか。
うつらうつらとしていると、背後に何者かの気配を感じた。
——物盗りだろうか。
振り返るとそこには、壊れかけた鎧を身に纏った大柄な男が立っていた。
手にしている剣は赤く光っている。
商人のサガだ、何か売り込めないかと、装備や得物にはつい目が走る。
珍しい。見たことがない素材だなと思った。
「商いか?」
やや警戒しながらも、商人は男に問う。
——それが、商人の最期の言葉となった。
かつて英雄と云われた男は、今や死刑囚として処刑台へと運ばれている。
彼は故郷を捨て、簒奪者となり、鈴玉狩りと呼ばれるようになった。
馬車はゆっくりと、処刑場である日陰城へと向かう。
祖国の宝剣は牢獄の外、リムグレイブを臨む丘に突き立てた。
死刑囚に、武器の所持など認められる筈も無い。
英雄の証であるそれを厭わしくも思っていたが、卑兵や亡者どもの群れに埋もれていくよりは幾分マシに思えた。
エレメールは茨に塗れた鉄兜の中で、薄笑いを浮かべていた。
死刑囚に待つのは死だ。
祝福などとは無縁であったエレメールにとって、それは言葉通りの意味を持つのだろう。
しかし、咎人として死の恐怖からコソコソと逃げ回るなど不愉快だ。
死が此方に向かってくるのであれば、それすらも捻り潰し、奪ってやろう。
処刑場ではマレー家の当主、マレーマレーがこの日のために執行剣を磨き上げ、嬉々として罪人の到着を待っていた。
斬首刑は、良い見せ物になる。
罪人であろうがなかろうが、処刑はいつの時代も庶民たちの娯楽たりうるのだ。
死刑囚を乗せた馬車が到着する。
処刑人の当主、マレーマレーは徐に罪状を読み上げ、芝居がかった様子で場を盛り上げた。
死刑囚であるエレメールの脇を、大柄な流刑兵が2人がかりで抑え、連行する。
マレーマレー自身は、その執行剣に似つかわず小柄で非力であった。
マレー家の男子は、皆病と共に生まれる。
その病弱で女子のような細腕では、執行の大剣を満足に扱う事は出来ぬだろう。
それ故に、この地の斬首刑は執行される者に大きな苦痛を与えるものであったという。
マレー家の執行剣が、エレメールの首元へと振り下ろされる。
肉はうまく断ち切れず、ぐしゃりと骨の砕ける音が響く——筈だった。
マレーマレーは手応えの無い、だがしかし剣を引き戻すこともできない感触に違和感を覚えた。
執行剣は、首元でぴたりと止まっていた。
剣は赤い気のようなものに包まれている。
エレメールが、ゆっくりと立ち上がった。
流刑兵たちの頭を、赤い気を纏った両の拳で掴み、昏倒させる。
マレーマレーの手にあった執行剣は、もはや彼の言うことを聞かなかった。
緩やかに弧を描き、奪い取られたその剣は、赤い気を纏って空を舞う。
流麗なるその動きは、完成された一つの剣舞であった。
何が起きたのか分からずに、その場に居た者たちはただその光景に目を奪われる。
——次の瞬間。
マレーマレーの周りにいた側近たちの胴や首が宙に舞った。
辺りに血飛沫が飛び散る。
急に、時間が流れ出したような気がした。
兵士たちが死刑囚を取り押さえようと取り掛かるが、みな一瞬で肉塊となり、ぐしゃぐしゃとその場に積み上がっていく。
マレーマレーは恐れ慄き、臣下を捨てて一目散に城の外へと逃げ出した。
エレメールは、情け無く逃げていくマレーマレーを一瞥した。
斬り伏せても良かったが、放って置いても如何せ野垂れ死ぬだろう。
——何の事はない、拍子抜けだ。
死を捩じ伏せるなど、赤子の手を捻るよりも簡単だった。
城に入り、中を物色する。
ふと、中央の部屋の正面に掲げられている肖像画が目に入った。
兜を被った、赤髪の女が描かれている。
燃えるような赤髪と、その美しくも熾烈な姿に惹き付けられる。
一目見て、手練れだと知れた。
英雄か。戦士なのだろうか。
——簒奪者と、かつての英雄。
生まれに綻びが無ければ、今頃何かを成しただろうか。
その運命は、全く違うものであったのだろうか。
自らが奪い、滅ぼしたその国の、
英雄として、或いは王として。
もはや何時、誰から奪った物かも覚えていなかったが、ふと祖国の小さな打楽器を思い出した。
この俺が——未だ英雄であったならば。
戦場でこのような戦士と、相見えたかった。