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穏やかな薄青に染まる曇り川の地で、赤と黒の影が交差していた。

「その首……!! 切り落として、王朝の祭壇に飾ってやる!!」

激しい連撃の中、短剣から迸る血の刃を繰り出す男の、荒々しい声が響く。

「あの浪人の男といい、俺の周りを蝿のように煩わせやがって……!」

小さく空を切る音と共に放たれたボルト。だが、それは男の放つ血刃に無残にも撃ち落とされた。

「チッ……!」

クレプスは顔を顰めた。腐敗のボルトは未だ相手の身体を貫かず、残り僅かとなっていた。
対峙した男はやはり、かなりの手練れだ。追い続けた褪せ人狩りの暴徒。その姿をついに捉えた。暴徒は瀟洒な意匠の施された黒いローブを纏っている。飛び荒ぶ血刃や言動は猛り、荒々しい。
しかし、爪先で地を蹴り、半身を翻して短剣を操る姿は一切の無駄を感じさせず、流麗でいて洗練されて見えた。

時おり覗く顔は死人のように青ざめていた。だが、顔の中心に大きく刻まれている三又の赤い紋様、呪術を思わせるそれがひときわ目を引く。殺意を隠す事のない瞳が、その中心から苛烈に睨み付けている。
真紅に染まった瞳。それは円卓を襲撃した者たちものよりもずっと、滴る血を宿したかのように鮮やかで、禍々しい光を放っていた。

死角から放った一撃を躱されたクレプスは焦りから、次のリロードに数秒手間取った。赤目の男はそれを逃さない。踏み込み、斜めに振り上げられる短剣。暗部の長は飛び退いて刀身を避ける。だが、数瞬を置いて放たれた血の残刃は飛沫を上げ、クレプスの胴にがっちりと食い込んだ。深く切り込まれた血刃の残像は黒衣を裂いて肉を断ち、その脇腹から鮮血を迸らせた。

「う、ぐぁ……っ……!」

痛みに顔を歪めた彼は追撃から逃れるため、素早く赤目の男から距離を取る。
急速に失われる血にぐらりと体の均衡が崩れる。纏っていた暗闇の祈祷も、既に解けてしまっていた。
赤目の男はその姿に気を良くしたのだろう。攻撃の手を止めると口角を釣り上げ、こう言った。

「おい、お前。暗部の長だな。名は確か……クレプス、だったか?」

名を呼ばれた暗部の長はよろめきながら叫んだ。

「何……? 私の名を、どこで……!」

「白面の胡散臭い医師さ。知らぬとは言わせんぞ。奴はお前の事を、かつての良き隣人だと言っていたな。大方、あいつとは散々に愉しんだ仲なんだろう? もう一人のお仲間は凄かったぞ。あれで密使が禁欲的だとは、聞いて呆れるぜ。ああ、勘違いするなよ。俺はあの白面野郎とは誓って何もない。横取りはするなと言われたが、知った事か。はっ、導きを外れた褪せ人に恐れられてきた円卓の暗部とやらも、どうやら命運尽きたようだな」

「白面の医師だと? 彼は今、お前たちと共謀しているのか……?!」

その問い掛けには答えぬまま、赤目の男は身を屈めると再び臨戦体制を取った。目の前に見えるはボルトを撃ち尽くし、片手で出血を抑えている手負いである。男はその首元に狙いを定めると、勢いよく飛び掛かった。
だが、クレプスはその時を待っていた。出血を抑えていた右手を引き抜くと——懐に隠し持っていた腐敗の短剣、その先端を飛び込む男の腹部に深々と突き刺したのだ。

「う、ぐあぁぁあっ!!」

真紅の瞳を見開いた男は、獣のような叫びを上げた。差し込まれた場所からは赤い煙が立ち昇り、周囲の被服をじゅわじゅわと溶かしていく。露出した傷口は急速に朱に爛れ、ぼこぼこと沸騰するかのように皮膚を盛り上がらせては醜く腐らせた。

「何だ……?! ぐ、ぁあ……ッ!! これは、朱の腐敗か……ッ!」

嗚咽を漏らし、痛みにのたうちながら曇り川の水面へと膝を付いた男に、クレプスは勝利を確信した。
そして止めの一撃を振り上げた、その時。突如として、赤い紋章が光り輝いた。
激しい閃光に目が眩む。細めた視界の向こうに、白衣の姿が現れる。

「な……ッ?!」

その顔は硬質な白面に覆われていた。苦しみ、悶えている赤目の男に仮面の姿が手を触れ、再び転移を試みようとしていた。クレプスは自らも失血に霞む視界の中——無我夢中で手を伸ばし、目の前の白衣を掴む。崩れゆく視界の端に捉えた面。その内に潜む瞳が、厭わしげに彼を見下ろしていた。

意識は、そこで失われた。

 

 

——疫病の蔓延る前哨基地。

それは誰もが顔を背け、使命など何もかもを忘れて逃げ出したくなるような場所。粘ついた悪臭が辺りを覆い尽くし、人々の膿み爛れた身体に巻かれた薄汚れた布からは、血や体液が止めどなく滲み、溢れ出している。
もはや人ならざる様相で横たわる彼らは、兵士だった。その所持品が在りし日の彼らの証明として、傍らに残されていた。
中にはまだ、どうにか自力で身体を動かすことが出来る者もいる。だがひとり、またひとりと意識を失い、地面に倒れ込んでいく。彼らはそうした同胞を見ると、盾をカンカンと打ち鳴らした。その合図を聞きつけ、衛兵たちがやってくる。
衛兵は倒れ込んだ兵士を担架に載せると、無言のままに運び出していった。

彼らが向かう先は、小さな教会だった。そこから更に地下への入口、石造りの粗末な螺旋階段を、血膿の染み出した担架を抱えた男たちが下る。
その終端には地下礼拝堂があった。だが、その場所は今、黒鉄の閂で厳重に施錠されていた。重厚な扉を開くと、中には病に伏せり、死を待つだけの兵士たちが山のように安置されていた。衛兵らは担架を運び込むと、入り口付近の筵の上に兵士をぞんざいに転がし、逃げるように去っていく。
まだ息の残る兵士たちが筵の上に並べられ、彼らから発せられる地の底から這い上がるような恐ろしげな呻きが、扉に閉ざされた空間を覆い尽くしていた。
運び込まれた兵士らは皆、身体を動かすことすらままならなかった。身体を腐らせる恐ろしい疫病に、骨の髄まで侵されてしまっていたのだ。

彼らにとって、生の終わりを迎えることとなる礼拝堂の中、ひときわ光り輝く存在があった。それは、中央に置かれている白亜の女神像。仄かな灯りに照らされた像は両の手を広げ、何者をも慈しむかのように、純白に微笑んでいた。兵士たちは終わりなき苦しみ、そして痛みと呻きの中で、懸命に祈り、縋ったのだろう。
どうかこの苦しみが終わりを告げ、安らぎの中で黄金の元に導かれますようにと。

その光景を、物陰から一人の男が見つめていた。
衛兵たちが去ると共に、固く扉が閉ざされる。地下礼拝堂には苦しみに喘ぎ、蠢くものたちだけが残された。潜む男は二本指の聖印を握りしめたまま、暗がりに身を溶かしていた。

——そう、私は成さねばならぬ。火を、この病巣の中心に、浄化の火を放つようにと。それは禁忌ではない。諸悪を焼き払うための、炎の洗礼。司教様も、それを望んでいる。

クレプスは暗澹たる思いだった。彼らを救う術が無いとはいえ、この密命は、多くの人命を奪う事になるだろう。司教の隣で微笑んでいた預言者の女が脳裏を掠めた。あの女の不敵な笑みが、今も頭にこびりついて離れない。不吉の予言に迫害されたという、双眸をひた隠したまま。

密使にとって、密命とは捧げる命そのもの。何も問わぬから、駒は駒たりうるのだ。
クレプスは震える身体を落ち着かせようと拳を握り、歯を食いしばる。
誰にも——決して、誰にも見られてはならなかった。教会に属する者が礼拝堂に火を放ったなどと民衆に知れたら? その後の事は、想像に難くない。

地下礼拝堂に辿り着き、目にしたもの。目の前に広がる光景。それは到底、現世のものとは思えなかった。苦しみ、呻き、怯え、恐れ、怒り、諦め、祈り——生と死の狭間、苛まれる人々の末期を切り取り、時間の檻に閉じ込めたかのようだ。
先の戦争で広まり始めた恐るべき疫病。その実態を、ここは克明に伝えていた。もし、この記録が後世に残るならば、人々は戦を恐れ、病を恐れ、争いを忌避しようとしたことだろう。だが、この記録が残る事はない。それは自らが為そうとしている命により、永遠の炎に葬られるのだから。

汗が、頬を伝っていく。胸元で祈りを捧げ、冷静を取り戻した彼は顔を上げると再び辺りを見回した。
その中に、ひときわ輝く存在が目に飛び込む。それは中央に聳える女神像。恐らくは、古い時代に作られたものなのだろう。大教会のものと比較すればやや見劣りはするものの、薄灯りに照らされ、純白の姿で微笑みながら手を広げる姿は、あたかも救いの慈母のように見えた。

クレプスはその光景に目を奪われる。その瞬間だけは、このおぞましい現実から遠ざかることができた。
その中で——突然、女神像の半身が揺らぎ、白衣の姿が現れ出でたように見えた。
さながら聖像から半身が抜け出したかのような幻想を呼び覚ますそれは、今ここに、最も求められる姿に思われてならなかった。

しかし、それは現実へと切り替えられる。
像から身体を離した姿はくるりと振り返ると、硬質な白面を向け、コツコツと足音を響かせながら兵士たちに近づいていったのだ。
何の事はない。その面、そして白衣。それは従軍する医師らが着用を義務付けられている正装だった。
だが、その姿をして尚、クレプスは言い知れぬざわめきに襲われていた。そして、自らも何故か分からぬまま——その医師の前に姿を現した。

医師は突然現れた男の姿に驚き、はっと息を吞んで面の奥の目を見開いた。
呻きが不気味に重なり合う空間に、低く、だがよく通る声が響く。それは現れた黒衣の侵入者に向け、震える声でこう問いかけたのだった。

「貴方は……? まさか、こんな所に、どうして……!」

目の前の男が付けている白面。それは従軍する医師の中でも特に、不衛生な環境で過酷な任務に就く者にのみ与えられる。そして、その面は何処か、薄笑いを浮かべているようだとも形容された。
だが、クレプスをざわめかせたのはそのような事実ではなかった。医師が振り向いた時の身のこなし。そして発せられた、柔らかな低音。

それら全てが示していた。

それは目の前の医師が、かつて大教会で共に過ごしたあ同室の彼であるのだと。
だが、数年ぶりの知己との出会いに込み上げたのは感動ではなく、どす黒く渦巻く激情。
クレプスは怒りに血が昇りゆくのを感じていた。

あの日、彼が見送りに来る事はついに無かった。約束は破られた。そしてその理由は、構わないでくれと言い放った彼の、その後にあった。後を尾け、覗き見た先で——隠された罪を目の当たりにしたのだ。そこで明かされた彼の本性。それは忘れたくとも、決して忘れられるものではなかった。
あの日、見送りに来てくれれば、そしてまたいつか親愛なる友として、互いに再会を誓えたらと抱いていた願いは、あの俗悪で淫奔な姿にまんまと踏み躙られた。

「ヴァレー……! 君こそ、こんな所で何をしている……!?」

その声に、白面はたじろいだ。

「こんな所、ですか……? これは、今の私に任ぜられた使命です。各地の小さな教会、その一部はこうして医療用の拠点へと変わりました。ここに集められた兵たち。彼らの中にはまだ、息のある者もおりますから……。もう助からないと分かっていても、私の務めはまだ——」

「医師である君が分からないのか? 今やこの場所こそが澱みであり、病巣そのものなのだと。直ちに浄化しなければ病は広がり、手遅れになる」

「浄化? それは、どういう……」

ヴァレーは眉を顰めた。その言葉と気配に不信感をあらわにする。

「君はこの疫病の中で何故、平然としていられるのだ? やはり堕落にその身と魂を売り渡した背信者なのだろう」

「……堕落? 背信者? 貴方、先程から何を——」

「そこを動くな!」

近づこうとする動きを制するかのよう、鋭く飛ばされた声にヴァレーはびくりと身を強張らせた。
クレプスは自らの誤った判断に焦っていた。
もう時間は残されていない。このまま留まった所で、いつまた衛兵たちが新たな兵士を運び込むとも知れない。誰にも見られてはならなかった。だが、その命よりも、激情に駆られた身体はヴァレーに身を晒す事を選んでしまった。それは、己の弱さがそうさせたのだろうか? いや、違う。この悪魔に、私は惑わされたのだ。

そうだ、そうに違いない。そのような事、断じて許す事はできない。

クレプスは指の聖印を掌に食い込むほどきつく握りしめた。この状況を打開するならば、方法は一つだった。
成さねばならぬ使命、密使としての献身。それだけが、自らの導きなのだから。

「……ならば、君もここの者たちと等しく、浄化の炎で裁かれるが良い」

そう呟き、手を翳した。ヴァレーはその行為の意味に気付くと声を張り上げる。

「貴方、おやめなさい……! 何をするおつもりですか……!?」

だが、その声は聞き入れられなかった。クレプスは預言者から託された祈祷布を広げ、聖印に力を注ぐ。布に施された茨のような紋様から、激しい炎が立ち昇った。
横たわる兵士らを火種に落とされたそれは、見る間に火の勢いを増していく。炎はひときわ燃え盛り、黒い煙を噴き上げては辺りの視界を遮った。

「何故……何故貴方が、このような禁忌を……!?」

ヴァレーの叫びが悲痛に響く。

「私が? 私は密使だ。命ぜられた任務に従う、ただそれだけだ」

「それは……っ、ですが、これは間違っています……!! 今ならまだ、間に合います……! どうか……、げほ、っ、ごほ……ッ!!」

兵士たちから発せられていた呻きは、身を焼かれた断末魔の絶叫へと変えられる。
業火は腐敗に爛れた皮膚を炙り、燻った煤が喉を灼き、彼らの呼吸を奪っていく。

「……もう、手遅れだ」

立ち竦み、呟いたクレプスに向け、ヴァレーは激しく咳き込みながら手を伸べた。

「貴方、ここを出ましょう……! 兵士たちも、運び出せる者は、まだ——」

その声に、冷ややかな笑いが浴びせられる。

「君が此処から出られるとでも思ったのか?」

「え……?」

「君と別れた最後の日、見送りにすら来なかっただろう。私たちの友情など、とうに潰えていたのだな。いや、そもそもが幻想だったのか」

「いえ……! それは——」

ヴァレーの訴えを遮るよう、クレプスは続けた。

「君が一番分かっているのではないか? 嘲笑っていたんだろう。弄んでいたんだろう。私の事を」

「うぐっ……、ごほ……ッ……嘲笑う? 一体、何の話ですか? そんな事……」

クレプスは耐え切れず、激昂して叫んだ。

「君が見送りにも来ずに何をしていたのか、私が知らないとでも思ったか!? この穢らわしい、淫売め!!」

ヴァレーの喉から、引き攣れるような音が鳴る。

「貴方、どうして、それを……!? いえ、あれは違うんです……! 私は決して……」

「何が違うんだ? 嬉しそうに奴らを誘っていたくせに……!」

火は更に勢いを増していく。熱波と黒煙に蝕まれつつあるヴァレーの周囲は炎に包まれ、彼は背を丸め、苦しそうに咳き込み続けていた。
ついに熱さと煙に耐えかねたのだろう。その白面が外され、ヴァレーの素顔が露わになる。

「まっ……て、違うんです……、ッ、貴方……もう、たす、け……」

涙に滲む瞳。燃える炎。救いを求めて差し出された手——。その顔には、度重なる疲労が色濃く表れていた。それは過酷な職務の故だろうか、目元には隈が貼り付き、口元は疎らに髭が覗いていた。だが、透き通る白い睫毛と、変わらぬ面差しが心に揺さぶりをかける。しかし、今はそれすらも悪魔の誘惑であるのだろうと——クレプスは頑なに心を閉ざすと、彼に背を向けた。

その後、火の手は建物全体へと周り、小さな教会、その全てを焼き尽くしていった。逃げ遅れた兵たちは生きながらに焼かれ、人々の叫びが響き渡り、逃げ惑う修道女らの背には炎の塊が無情にも降り注ぐ。地下礼拝堂の扉。審判の門は、固く閉ざされた。取り残され、絶望に焼かれた身体は最後に何を思ったのだろうか。

 

「——薬、ですか?」

クレプスは抑揚の無い声で尋ねた。目の前には濁り切った瞳の司教と、蛇のように身を這わせている預言者の女が居た。司教は掠れた声でこう言った。

「……お前は禁忌を冒した。火を使うは許されざる大禍……。その責を、ここで償わねばならぬ」

事態を飲み込めずに頭を垂れたままのクレプスに、くすくすと笑う声が降る。

「苦しまず、すぐに効果は現れるわ。あなたが生きながらに焼いた兵士たちよりも、ずっと、ずっと楽に逝けるでしょうね」

「何のことでしょう? 私は仰せのままに……」

カラカラに渇いてへばりついた喉で、彼はそう絞り出すのが精一杯だった。

「そうね。あなたは、望み通りの動きをしてくれたわ。でも、したことの責任は誰が取るのかしら」

「火は大禍である……許されざる罪だ……」

譫言のように、司教は同じ言葉を幾度も繰り返す。
自らの鼓動が耳に響く中、クレプスは必死で考えを巡らせていた。

——彼らに背き、生き長らえても行きつく先は破門。神に身を奉げてきた者にとって、それは死よりも恐ろしい。身分を捨てて放浪し、その末に死しても永遠に魂は祝福されず、彷徨い続ける。だが、ここで罪を贖うならば——殉教者として、聖人らの元に名を連ねることすら出来るだろう。

呼吸は浅く、より早くなっていく。

そうだ。初めから、選択肢など無かったのだ。個としての意思も、弁明も、何ひとつ受け入れられることはない。

ふと、あの医師の最後が蘇る。彼は救いを求めていた。それを悪魔の誘いだと断罪し、躊躇うことなく切り捨てた。私は何も与えなかった。弁明の機会も、救いの手も。ただ激情に任せ、全てを焼き払ったのだ。

「私は……私は……」

続く言葉は、もう意味など成してはいなかった。ぶつぶつと何かを繰り返していた黒衣の影はふらりと立ち上がると——差し出されたそれを一息に飲み干した。