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クレプスは生臭い泥濘の中で目を覚ました。

眼の前には見たこともない、異形の生き物たちが闊歩していた。真っ赤な肌の、カエルのように奇怪な頭部を持った人型。直視に堪えぬほどの膿瘍に塗れ、痩せさらばえた野犬の群れ。同じく血膿に全身を侵され、狂ったように屍肉を啄み続ける大烏の姿。

——ここが地獄でなければ、一体何だというのだ。私の身体は、再び肉体を失ったのか。そうして放たれた魂が審判を受けるべく、存在を留められているというのだろうか。

横たわる半身は、血の混じる汚泥に浸かっていた。どうにか起き上がろうと試みるが、全身が激しく痛み、力が入らない。
暫くすると、ひたひたとこちらに近づく水音が聞こえた。その足音には、覚えがあった。頭の靄が次第に晴れていく。先ほどまでの記憶が、ゆっくりと引き戻される。

そう、赤目の男に止めを刺すべく、腐敗の短剣を振り上げた。だが、その後——。

クレプスはどうにか身体を捩ると、地に背を付いて天を仰いだ。多量の血が失われている。視界が霞む。見上げた先に映るのは、先ほどのおぞましい光景とは不釣り合いな満点の星空だった。その余りにも壮麗で幻想的な光景に、ふと目を奪われた。
しかし、それも束の間の事だった。足音の主は隣に立つと、眼前を覆うように遮った。そうして、見覚えのある白面がぐるりと顔を覗き込んだのだ。

「……一度に三人を転移させたのは初めてです。あの馬鹿の腐敗は薬で食い止めましたが、しばらくは動けないでしょうね。全く、私の獲物を横取りした罰が当たったのですよ。身の程を弁えぬから、このような……」

その声と口調、そして身のこなし。それはあの日と、何も変わらなかった。ひとつ異なるのは、他者に向けた辛辣な物言い。記憶の彼であれば、そのような発言はせぬだろう。だが、目の前の人物がかの地で共に過ごした同室の医師、ヴァレーであることは、もはや疑いようのない事実だった。

「ヴァレー……! やはり、君が……!」

その声に、白面の奥の目が嬉しそうに弧を描く。

「うふふ。私を覚えていてくださったのですか? それはそれは、光栄ですね」

「君がこの地に呼ばれているだと? そんな筈は……」

そう。これは夢に違いない。
この場所も、目の前の男も。
全ては自らの罪が見せる悪夢なのだ。

「おや? 私がこの地に来てはいけなかったと? ふふ、今となってはそうかもしれませんね。しかし、貴方も私も、大いなる意志にとっては同列だったということですよ。少なくともこの地に選ばれた、その時までは」

彼は血汚れた二本指の聖印を見せつけるよう、手の中で弄んだ。

「感謝しているのですよ。かつての私を形創った全ての出来事に。やっと……、やっと、巡り会えたのですから。蔑みや虐げ、迫害などのない美しい理想郷。力と、愛と、意志のある新しい王朝……輝ける血の君主、モーグ様に……!!」

「新しい王朝……? モーグ? 君は、一体……う、ぐぁ……っ……!」

激しく咳き込んだ口元から、多量の血が溢れ出す。黒衣の半身は腹から流れる血に色濃く染め上げられていた。

「おやおや。その出血では、もう半刻と保たないでしょうね。ああ、医師として貴方の側に居ておきながら、命が潰えるのをただ黙って見ているだなんて。薄情だとは思いませんか? ウフフフフッ。私は、どなたかと違って慈悲がありますからね。許し、与える事。それができずに、どうして人を導けましょう?」
ヴァレーは楽しそうに言うとクレプスの顎を掴み、自らの方にぐいと引き寄せる。その声音とは裏腹に、瞳は凍てつくような冷たさを孕んでいた。

「……貴方に、私からの特別な計らいというわけですよ。助かるには万にひとつ。この貴い血を受け入れられるか、試してみせましょうか」

「何の血だと……?! ッ、ふざけるな……!」

「ええ。ご心配には及びません。貴方は二本指の敬虔な信徒。当然、受け入れられる筈もありませんから。その傷ではもう、医療的な処置など何の役にも立たないでしょう。祝福も、貴方がたはとうに奪われ、大いなる意志にも見放されている。信ずる主に慈悲を乞えども、救済などない。——ああ、何とも虚しい事ですね。ですから、こうして新たな奇跡に縋ろうというのですよ」

ヴァレーは微笑むと大仰な仕草で、祈るように手を握り合わせた。

「やめろ……! 私に触るな、この悪魔が……! やはり、私の判断は間違っていなかった……!」

ヴァレーはその言葉など聞こえていないかのように、鼻唄を歌いながら小瓶を取り出した。中には赤黒い血のような液体が、どろりと収められていた。

小瓶の先端は、針のように尖っている。
そうして、必死の抵抗にもがくクレプスの手を取ったヴァレーは、爪の隙間をこじ開けるように——ぶすりとそれを突き刺した。

「うぐ、ぎ……あ゙ぁあぁぁぁッッ……!!」

「うふふふふっ。さあ、貴方の信仰を試して御覧なさい。何も救わない、紛い物の壊れた神に」

「ぐあっ……! がぁぁあっ……!」

神経をぎざ刃で削られるような、鮮烈な痛みが全身を貫いていた。
無機質に微笑む白面が、音もなく顔を寄せる。その空隙の奥にあるのは忘れもしない琥珀色の瞳。そして透き通り、儚く揺れる白い睫毛。

どれだけ憎しみ、その姿を厭えども、かつて焦がれた面相を前にして、無意識のうちに胸がざわめき、心が乱された。
それを見透かしていたのだろうか。それとも単なる偶然か。白面が、そっと外された。
その下に現れたのは、記憶よりも歳を重ねたヴァレーの顔。だが、その額には赤目の男の顔面に施されていた紋様と同じものが、禍々しくもはっきりと刻みつけられていた。
かつての彼の信仰は、とうの昔に塗り替えられていたのだ。

しかし薄布に隠された口元が囁く声はあの日と何も変わらずに——甘く鼓膜を蕩かせた。

「……貴方さえ望むなら、あの日の続きを見てもよいと——私はそう、思うのですよ」

何処かから、讃美歌が聴こえていた。数え切れぬほどの声が織りなす厳かな響きは幻聴なのだろうか? あの日、救いを求めようと延べられた手を拒絶した。
絶望の瞳のままに崩折れた姿と、燃え盛る炎。

差し込まれた針を伝い、身動きの取れずにいる身体に液体が流し込まれていく。

「ぐうっ、は、あぁぁぁぁあっっ……!!」

小瓶の中になみなみと湛えられていたそれは、最後の一滴まで余すことなくクレプスの体内へと送り込まれた。

——熱い。身体中の血が沸騰している。巡る血液の全てが邪悪な炎へと生まれ変わり、心臓から手足の末端に至るまでが絶え間なく焼き尽くされるかのようだ。自らのものとは思えない、在らん限りの咆哮が辺りに響いていた。喉は潰れ、叫びも声にならず次第に消えていく。目に映るのは微笑みかけたままの瞳。そして再び嵌められた無機質な白面。その光景が徐々に、赤く塗りつぶされていく。

 

——赤。それは、一面の赤だった。

流れる血と罪。この世の咎を現す色。
そして禁忌の炎に宿りし、不浄にして不吉の色。

彼と初めて出会い、その姿に惹かれた時に——いつしかそれは、私の心のうちに萌してしまっていたのだろうか。
色は血となり、炎となり、断罪の刃となり、在りし日の生を奪い去った。

白面の医師。その姿が、赤く染まりゆく瞳に映る。
あれは薔薇の花束だろうか? 彼の手に、大輪の薔薇の花束が見えた気がした。

うっとりと愛撫し、慈しむかのような姿。
それは黒鍵の手入れをしていた、あの日の似姿にも見えた。

ああ、それすらも、もはや幻想なのかもしれない。

穢れなき白。彩るのは一筋の流れ落ちる血と揺らめく炎。咲き誇る大輪の薔薇の花。
それは私の心が育て上げた、美しくも堕落と倒錯に塗れた——罪の色だ。

 

 

曇り川を揺らす足音。

波紋は水面を揺るがせては消え、またひとつ、ひとつと水面を広がり、消えていく輪の一つとなる。
若い密使の男は近づく足音の主を、ただ黙って見つめていた。

足音の主は両の掌を包み込むように重ね合わせ、しめやかに近づくと——眼前で立ち止まり、小さく息をついた。

「これは、貴方に差し上げます。私にはもう、無用の物ですから」

白面の男はそう言うと、掌を広げて彼に差し出した。

「それは……」

血汚れた男の手に握られていたのは見慣れた小瓶と、腐敗の短剣。小瓶のガラスはひび割れ、壊れていた。

「貴方の、そのクロスボウ。おかげで私の本懐は成されました」

白面の男が、若い密使の男の持つクロスボウを示す。

「……あの方は、どうされたのです」

若い密使は震える声で、そう尋ねるのが精一杯だった。だが、問わずとももう、答えなど分かっていた。

「——それを見ると、懐かしい心持ちがいたしますね」

くすりと笑みを溢した白面の手が、黒鍵に伸ばされる。その動きに若い密使は反射的に身を引くと、腐敗の短剣を握り込んだ。だが、その刃を向ける気概は無かった。もはや捧ぐ身も、魂も無い。高潔である理由、そして秩序など、全て潰えてしまったのだ。若い密使に残されていたのは、目の前の医師との個人的な繋がり、ただひとつだった。

「……あなたは過去の地で出会った私のことを、覚えていたのですか? だから、ああして何度も接触を?」

「……貴方が? そうでしたか。ですが、残念ながら記憶にはありませんね」

白面は困ったように微笑んだ。それは、一欠片の偽りも無いものに見えた。

若い密使は半ば予想通りの——だが、その事実が予想通りであった事に気落ちすると、再び口を開いた。

「西側の前哨基地。その医療拠点となった修道院で、一人の老いた修道女が私に頼みごとをしたのです。ここに来ている医師団の一人は、この修道院の出であると。病が蔓延する中、立ち退きを命ぜられために近づき、声を掛けることも叶わなかった。だが、彼は元気にしていただろうか。ここを送り出して、本当に良かったのだろうかと。もし、言葉を交わす機会があるならばそう伝えて欲しいと」

白面の奥の瞳が、僅かに動きを見せた。

「……それは、私の事かもしれませんね。しかしながら、二本指の元で過ごした全ての時間は過ちでした。ただ、医師であったが故に、我が君主に特別に取り立てられ、こうして真実に至ることが出来たのです。そうして今、ここに居られるのですから。それだけは感謝しなければなりませんね」

彼はわざとらしい笑みを目元に貼り付ける。若い密使は、尚も続けた。

「その修道女は私と共に、あの大火災に巻き込まれ、命を落としました。あの火災がどのような出来事であったのか。私はこの地で初めて、知る事となりました。私はかつて学んだ教会で、あなたの治療を受けた事があったのですよ。……信仰とは、一体何を救ってくれたのでしょうか。今となっては、分からない事ばかりです」

白面の奥から、貼り付けたような笑みは消えていた。

「その小瓶はもう、貴方を縛ることはありません。今さら何に義理立てる必要もない。お好きに生きればいいでしょう。この地でそう出来る者は、多くないのですから」

「私を……殺しはしないのですか?」

「ええ。それに、貴方が私をご存知でも、私は貴方を知りません。どうぞ、私の気が変わらないうちに」

——再び会えたのに、会えたらどうなってしまうのだろうと思っていたのに。彼は何も変わらず、薄笑みを浮かべたままの姿で佇んでいた。

若い密使は、懐から取り出した小瓶に目を落とす。自らの献身、そして誓いの象徴。それは、呆気なく壊れていた。硝子の空洞から、薄靄の残滓が漂っては消えていく。

再び顔を上げると、すでに白面の姿は無かった。

全ての目的を失った今。与えられたのは解放ではなく、空虚だった。
信じていた神は疑念と共に崩れ去り、この地で成さねばならぬ事も消え失せた。

——ああ、私はこれから、何の為に生きれば良いのだろう。

顔を上げる。重苦しい空がこちらを見下ろしている。
暮れなずみの空は、赤々と燃えていた。