特別室

 

「——つかぬ事をお聞きしますが、医療職、もしくはそれに関連した経歴をお持ちでしょうか。慈悲の短剣は扱いが特殊なものです。両刃は無く、穿突を目的としているために致命を負わせる事に特化はしていますが、扱いを心得ない者が手にして相手を殺傷できる代物ではありません」

「取調べの時に、もうすっかり話しましたよ。医学に通じた経歴はありませんが、研究者でしたから。人体の構造はよく知っています」

「そうでしたね。同じ事を何度もすみません。時と場所を変える事で、供述に偽証が無いかの確認をしています。煩わしいでしょうが、もう少しお付き合いください」

ヴァレーは白面の奥に潜む目元を緩めると、努めて穏やかにそう言った。

「それで、差し替えたレプリカは貴方が用意したものなのでしょう。なぜ、わざわざリスクを冒してまで本物の慈悲の短剣を?」

「さあ、何故でしょうね」

男が、はぐらかすような笑みを浮かべる。その答えを聞いて、ヴァレーは場を仕切り直した。

「——少し、休憩を挟みましょうか。どうぞ、お寛ぎください」

調書によると、被疑者の男は上流階級の生まれであり、研究職を経た後に大学の非常勤講師となった。いわゆる『日の目を見ない王都研究者』としてはスタンダードな経歴だ。だが先日、勤務先の大学の学長と方針の違いで口論になり、揉み合いとなった際に相手が転落死。その過失致死容疑での拘留中に、今回の事件との関連性が浮かび上がってきたとの話だった。

ヴァレーは相手の様子をつぶさに観察していく。

過去にはこうした場所であれこれ尋ねられる事に怒りを表す者や、罪の意識に苛まれて錯乱し出す者などが居たが、目の前の男は今の所、担当したケースのいずれの類型にも当てはまらない。
質問にはさして協力的でもないが、不快感や怒り、怖れの感情は見受けられない。強いて言うならば、この非日常的な状況に高揚しているのだろうか。元々血の気の多そうな相貌ではないものの、血色は良く、身振りや口調にはやや芝居がかった大仰さが見て取れた。

この特別室において、分析官と対象者の間は遮蔽板で隔てられている。相手が自傷に至らないよう、手枷など最低限の身体拘束は認められていたが、それ以外は普段の彼ら分析医の部屋と、ほぼ変わらない。
ヴァレーは少しの間、口を閉ざしたまま手元の調書に目を落としていた。つと、男の方を見遣ると彼もまた顔を上げる。ヴァレーは向けられた視線を振り払うように再び目を伏せると、手元の補助端末に文字を入力していった。

「——もう確認は済みました。ここからはご自由にお話しください。会話の内容は、同意を得たもの以外は全て秘匿されます」

キーを打つ音が一定のリズムを保ち、二人の間に小さく響く。淀みなく打ち込まれていた音は時間の経過とともに間隔を空け、次第にまばらになっていく。ややあって訪れようとする沈黙を遮るかのように、男が口を開いた。

「ドクター、あなたは、今の状況に満足していますか? 繰り返されるプログラム対象者との面談、終わらない再犯」

男の声に、ヴァレーの指が動きを止める。

「貴方があの違法薬物を蔓延させなければ、ここで激務に追われることも無かったのですがね」

顔を上げ、大袈裟に溜息を吐いたヴァレーは、少しの怒りを滲ませた面持ちでそう言った。面談時に、分析官自身が感情を露わにするのは禁忌であったが、今は相手の質問の意図を探るためにも、その選択が適当であるように思われた。また、それは彼の本心でもあった。違法薬物がこの男の居宅で製造されていたと聞いた時には心底恨めしく思ったものだ。幾人もの人生を破綻させて堕落と破滅に導き、そして彼自身をも、この場所へと縛り付けた張本人であったのだから。

「蔓延?それは心外です」

「心外? どの口がそう仰るのでしょうか」

ヴァレーは苛立ちを隠す様子もなく、男をじっと見据えた。

「あなたがたが違法な薬物だと断罪しているあの薬ですが、どのような薬であっても乱用すれば皆、毒になりますよ。それにドクター、あなたはあれを蔓延させたのが、私だとお思いなのですね」

大仰に嘆く素振りを見せた男を前に、ヴァレーの目が訝し気に細められる。目の前の男の表情、態度、仕草。どうにも芝居を打っているような調子ではあるが、その言葉自体はあながち嘘ではなさそうだ。つまるところ男は、自らがある目的のために製造した物が他者の手によって流出したのだと、真にそう訴えているようだった。今が一気に核心を突くべき時だろうか、とヴァレーは思った。だが、焦りを気取られてはならない。薄笑みを浮かべた仮面の下に本心を潜ませながら、目指す意図へと着実に導かなければ。

「確かに、先ほど『違法薬物』と言ったのは失言でした。訂正しましょう。この薬は非常に純度が高く、製法はおろか、原料ですら最近まで不明なままでした。貴方お一人で製造されていたのでしたら、その研究者としての才覚は素晴らしいと言わざるを得ませんね。そして、ここからは私の意見ですが……貴方はこの薬を、軍事利用するおつもりだったのではありませんか」

話の途中で空気が変わり、互いの間に緊張が走る。ヴァレーは一度区切りをつけ、相手の様子を伺った。
男の瞼が、ピクリと動く。それは、ここに来て相手が初めて見せた感情の揺らぎだった。その表情を捉えると、ヴァレーは再び口を開いた。

「製法から、心身への作用については十分調べさせてもらいました。貴方の経歴を見て、研究予算のために軍事用途として王都に売り込みを掛ける算段であったと、初めはそう思いましたが、違いますね。薬の成分は、見事に反体制派の象徴ばかりです。先ほど仰った言葉が真実なのでしたら……貴方はそうした組織の構成員、なのでしょう」

一息に言い切ると、相手の目をじっと見据える。あらかた見当は付けていたが、相手の口から複数人である事を僅かでも示唆する発言が得られた事で、今や予想は確信へと変わっていた。無言を続ける男をよそに、ヴァレーは更に追い立てる。

「……残念ですが、これ以上は私の手に余ります。続きは軍事裁判でどうぞ。それとも、何か釈明の言葉はありますか」

彼はきっぱりと言い切ると面談を打ち切り、刑務官を呼ぶための音声装置へと手を掛けた。
実の所、この行動はある種のブラフに過ぎなかった。明確に相手からの自供が得られた訳では無いからだ。それでも、こうした思想犯は自らの『崇高な』話を中途に切り上げられることを酷く嫌う傾向にある。僅かでも次の段階に繋ぐ取っ掛かりが作れれば、この局面での成果としては十分だろう。

だが、男はその言動を受けて取り乱すでもなく、取り繕う訳でもなく——ただ満足そうにヴァレーを見つめていた。その瞳は熱を帯びたように不敵な光を宿し、目元はゆっくりと、不気味に弧を描いていく。

予想もしない男の反応に瞬間、その雰囲気に呑まれてしまいそうになった。それは、長年こうして人と相対してきた中でヴァレーが初めて味わった、奇妙で不快な感覚だった。

男が口を開き、沈黙を破る。

「——ああ、何と素晴らしい事でしょう。あなたは私の薬から、そこまで読み取ってくれていたのですね。やはり、あなたは見込んだ通りの聡明で、高潔な魂をお持ちのようです。今の、王都上層部の状況はご存知でしょう。王政は形骸化し、官吏達はとうの昔に腐りきり、溜め込まれた腐敗は膨れ上がって破裂寸前、今にもこの城下に向けて噴き出さんとしています」

興に乗って独白を始めた男に、ヴァレーは気圧された。だが、直ぐに気を取り直すと、遮るように言葉を返す。

「……何か、大きな勘違いをなさっているようですね。貴方は罪を犯して今ここに、私の前に座っているのですよ」

「私をただの快楽殺人者か何かだとお思いですか? あの薬の売人に成り下がった輩は我々の高貴な意志に従えず、自らの欲に負けた背信者共です。私は命を受け、導きを外れた者に慈悲を与えました。古めかしい伝統に則り、今よりもずっと人道的なやり方でね。あなたがたの法の元でも、複数回に及ぶ再犯者はどうなります。責問と称して散々に甚ぶられた挙句に、死罪でしょう」

「それは——う、ぐっ……!」

その言葉の最中、突然耳鳴りが始まり、ヴァレーの目の前に灼けつくような赤い閃光が走った。
また、酷い頭痛の発作だ。何故このタイミングで、と彼は毒づいた。相手に気取られないよう、痛みを耐えるために歯を強く噛み締める。脳を直接揺さぶられるような酩酊感に、鳩尾からぐらりと吐き気がせり上げ、視界が歪む。耐え難い痛みの中で何故か、男の言葉だけがはっきりと、鮮明に聞こえた。
この声はどこかで聞き覚えがあるような——それは一体、いつの記憶だっただろうか。

「あなたが縛り付けられているこの場所はもう、腐り落ちるのを待つばかりです。あなたが医師としての誓いを、義理を立てるほどの何があるのでしょう。ここから出して欲しいと、そう願った事は、ただの一度もありませんか? 私にはそれが出来ます。あなたには、何も強いるつもりはありません。あなたは、何も知らないふりをしていればよいのです。これから先の事は何も考えなくていい。全て我々に委ねて、任せてください」

男の声が頭に響く中、痛みの発作はピークに達しつつあった。目の奥に灼けた火箸を突き込まれ、脳髄を何度も掻き回されるような激しい痛みを耐えながら、ヴァレーは呻き以外を発することも出来ずに、目の前で語られる言葉を諾々と聞き入れ続ける他はなかった。

「全ての主犯はこの、私なのですから。今更どうということはありません。それに、私はどの道死罪です。私に全ての罪を着せて、あなたが私を引き渡すふりをしながら、あなたの方が私を利用してしまえば良いんですよ。”利用される事にはもう、慣れていますから”」

「——ッ……まさか貴方、あの時の…っ」

その言葉を聞いた瞬間、脳裏にある人物の姿がよぎった。痛みと共に白面へと添えた指の隙間から、歪む視界の中で男へと目を向ける。その時、全てが氷解した。

彼は、あの集会で言葉を交わした研究者だ。

それはヴァレーが、数年に渡り姿を追い続けていた人物だった。記憶にあった男は目元まで髪を下ろしていたうえに、目鼻立ちもはっきりと覚えていた訳では無い。だが、今ここに居る彼は短く整えられた髪を身分の高い者のように撫で付け、あの時のように陰鬱ではなく、自信に満ちた様子で目の前に座っていた。

「ようやく、思い出していただけたのですね」

激しい痛みの波は少しずつ、遠のきつつあった。だが、ヴァレーの瞳孔は僅かに開き、時を止めたかのように見開かれたままだ。それは、今思い至った事実が、彼にとってはあまりにも鮮烈に過ぎた所為だろう。その符合はヴァレーの中で、抱いていた違和感に紐づく全てが複雑に絡み合い、一つの形を成したかのような強い幻覚をもたらした。おそらく目の前の男は他の誰よりも、ヴァレーの状況を理解できる人物であるはずだった。通底する隠しきれない不条理に抗う気力もなく、全てを放棄して逃げ出す事も叶わずに、監獄に身を埋めて雁字搦めの日々を送り、蝕まれていくだけの——今にも溢れ出してしまいそうな感情を理解して、共有できる人間が居るとするならば。それに先ほどの誘いが本意であるのなら、ここに辿り着くために、全てが綿密に計画されていたのだろう。

ヴァレーは未だ、音声装置が遮断されたままである事をしっかりと確認した。

「……ご冗談を。すぐに足がつくでしょう。それに、ここを出て何処へ向かうと?」

今が、この真っ白な監獄から出られる唯一の機会なのかもしれない。放った言葉とは裏腹に、そう思い至る身体は次第に拍動を早め、額にはうっすらと汗が滲み始めていた。無論、鵜吞みにする訳にいかないことは百も承知だ。王都の内情を知る人間として捕虜となり、拷問を受ける可能性だって十分に考えられる。だが、今も想像の上だけで、どうにかこの場所から逃げ出す事を夢想してしまう——繰り返される日々、人間性を奪われて名乗る事も許されず、無機質な律の歯車として永遠に地下の牢獄に縛り付けられるだけの生にこれ以上、何の意味があるというのだろう。

灼けるような痛みはいつの間にか消え失せ、目の奥の赤い明滅だけが、視界を遮る虫のように煩わしく、微かに残されていた。

「場所はまだ言えません。しかし、あなたは我が君主に見えるべく、選ばれた人間です。我々の理想、そして真実に触れることができる、汚れなき魂の持ち主です。全てはあなたの目で、判断なされば結構ですよ。私を罪人として火山館の地下深くへ送り返すも、この地へと舞い戻り、攫われて逃げ出したと訴えるも良いでしょう。ですが、あなたが望みさえするならば。私があなたを、この牢獄から連れ出して差し上げます」

 

◻︎

 

ようやくいつもの調子を取り戻したかのようなヴァレーを見て、青年はほっとしていた。連日の激務に忙殺され、外へ足を伸ばすこともままならない姿を目の当たりにして気を揉んではいたのだが、今日は珍しく——というかここに赴任して初めて、彼の方から”外の空気を吸いたい”と提案があったのだ。

「貴方、先日の発表はいかがでしたか」
「うーん。反応としてはまずまずだったかなと。リハに付き合っていただいた成果は出せたと思います。あの日、先輩は例の特定犯罪者との数度目の面談でしたよね。出来れば直接見てもらって、感想を聞きたかったんですが……」

他愛のない話を繰り返しながら、二人は展望台の最上部へと足を運んでいく。場所は青年の提案だった。展望台の頂上からは巨大な黄金樹と、赤獅子の大地が一望できる。天気が良ければ遠くにリムグレイブを望む事もできた。

時折強く吹き抜ける風が、白布で設えられた彼らの装束を煽り、はためかせていく。二人は数組の人々と対向しつつ、螺旋の階段を登って行った。すれ違った人々は近くの学生だろうかと、青年はその姿を目で追いかける。ふと下層に目を移した瞬間、彼はひやりとした。芸術品の様に均整の取れた美しい螺旋階段。だが、その最下層に向けて収束する虚空に、無意識のうちに目が奪われる。余りの高さに、ふらりと吸い込まれてしまいそうな感覚に陥った。

それを知ってか知らずか、目の前を行くヴァレーは彼を振り返ると、にっこりと微笑みかける。

「さあ、もう少しですよ」

二人は展望台の一番の名所、黄金樹の葉が降り注ぐ場所へと辿り着いた。

「わぁ、綺麗ですね。毎日、王都のどこからでも目に入るものの、こうして真下から見上げてみると本当に、眩い光の束にしか見えませんね」

青年は、落ちる葉を追いかけるように、あちらこちらへと手を伸ばしていた。黄金の葉はふわりと彼の手を掠めると光の残滓を煌めかせ、ひらひらと舞い落ちては消えていく。

「そう——ですね。私たちは黄金の民。黄金樹に祝福され、その恵みによって生かされ、生を全うし、そうしてまた生まれ落ちるのでしょう。……ですが、それは何とも不自由な事、だとは思いませんか」

未だ葉を掴み損ねている青年が、低く通る声にはっと振り返る。

「今——何と?」何かの聞き間違いだろうかと向き直った彼をよそに、ヴァレーは話を続けた。

「私たちはこの王都ローデイルに生まれ、ここで育ち、そしてここから出る事を許されていません。王都の地下は、かつて満たされない屍で埋め尽くされ、その養分を吸い上げた黄金樹が我々を見下ろし、輪環に縛り付けているのです。そうして今、我々はその場所に建てられた真っ白な地下牢に閉じ込められています。それでどうして、祝福を受けていると言えましょうか」

「昔と今は違うじゃ無いですか、それに——」

その真意を掴みかね、混乱を見せた青年の言葉がきっぱりと遮られる。

「いいのですよ、貴方がそれで満たされているのでしたら。私の言など、何の役目も持ちません。どうぞ、くだらない世迷言だと流してください」

白面の奥の瞳に穏やかな笑みを湛え、黄金樹を見上げるヴァレーを前に、青年はまた言いようのない、もどかしい感覚に襲われた。

——時々、分からなくなる。どちらが本当の彼なのか。つとめて穏やかで、楚々とした振る舞いを見せる普段の姿と、こうして自らの境遇を、取り巻くその全てを憂い、厭うような言動と。出会った当初の彼からは、そのような気配は微塵も感じられなかった。だが、指導医の元で研鑽を積む間に纏う雰囲気が変わったと思う事があった。少し気怠く、厭世的で、どこか神経質になっただろうかと。つい最近も、その当時の感覚と似た事があった。投薬治療の認可が降りた後の事だ。そして、続く今の不穏な言動と。ずっと憧れを抱き、先輩の後を追いかけてきたはずなのに。いつも手の届かない所で彼が変わっていくような気がしていた。一体、何が、誰が彼に影響を与えて? そしてそれは——自分では駄目なのだろうか。

青年は、目の前の先輩への執心が抑えきれなくなって来ている事を自覚しつつあった。今もまた、鎌首をもたげ始めた執着の感情を押し込めるように、そうして先ほどの話を打ち切るよう、別の話題を振った。

「そういえば、例の特定犯罪者の分析はどうですか。まだまだ延長の必要が?」

その言葉を発した瞬間、青年の背筋にぞくりと冷たいものが走る。鋭利な刃物に前後も不覚なまま突き刺されるような、恐ろしいほどの凍て付いた視線を感じた。
——だが、それは気の所為か、青年が再びヴァレーを見た時には、彼の目元にはいつも通りの柔和な笑みが浮かんでいるだけだった。

「そうですね、なかなか興味深い人物ですよ」
「興味深い? あの、犯罪者が?」
「ええ。彼はあくまでも拷問を受け、死刑になるべき人間を王都の手を煩わせるまでもなく葬っただけだ、君たちの仕事を減らしたのだから感謝しろと、そう言っています。欺瞞ですがね。正義であれ何であれ、自らの欲求を満たすだけの殺人に正当も何もありません。しかし、我々は法の下にああした残忍な殺人を正当化しているわけでしょう。責問吏のような職も未だに残されているのですから。彼とは一体何が、異なると言うのでしょうね」
「それは……触法行為は律の下ではその律令に則って正しく、等しく罰せられるべきです。そうでなければ秩序が保たれませんから。先輩、まさかあの殺人鬼の肩を持つと?」

向けられた瞳が、また冷たく色を変える。今度は気の所為ではない、と彼は直感した。
今の先輩を変えてしまったのはもしかして——。

目の前の、穏やかな目元がわざとらしく弧を描いていく。

「ええ、貴方のおっしゃることが正しいのですよ。この世の律は、理は、そして秩序は、安寧に、そして永遠に保たれるべきなのですから」

その言葉は柔らかかったが、皮肉と諦めに満ちている事は明らかだった。しかし、今の青年にはどうすることも出来なかった。方々言葉を尽くしてみてもヴァレーの心に踏み入る事は許されず、ただ空虚な言葉が返されるだけだった。彼は憧れの先輩の事を何ひとつ分かっていなかったのだと、今になって痛い程に思い知らされた。

——それでも青年はこの状況を、他の誰にも告げることは無かった。まだどこかで自惚れがあったのだ。自らがきっと、彼の助けになれる筈なのだと。

翌る日、王都から一人の医師が姿を消した。

白面の青年がその事実を知ったのは出勤前、端末に届いた速報での事だった。

 

◻︎◻︎◻︎

『王都専属の白面医師、連続殺人犯との面談後に失踪。殺人犯の行方も不明。人質となった可能性も』

「——今、王都ローデイル中央地下刑務所に来ています。こちらの施設長のコメントです。『本当に、信じられない思いです。ヴァレー医師……彼は本当に、素晴らしい分析官でした。新設部署の立ち上げに尽力し、熱意と意欲を持って日夜職務に当たる模範的な医師でして……私も彼をサポート出来るよう、出来る限りの事を……』」

トラムの中を流れる映像に、乗客は釘付けだった。
その数時間前、同じ移動手段を利用して二人の男が王都を立った。民間人用のパスが偽造され、端末類はデータを破棄した上で処分。今となっては要人の素性を明かさない王都の方針が仇となり、一度外に出れば誰も彼らの痕跡を追うことは出来なかった。渦中の男は被疑者としてその身を拘束されてはいたが一般に面が割れている訳ではなく、ヴァレーとて白面を付けず、その装束に身を包んでいなければ王都の外で彼の素性を知る者など皆無だった。

二人はアルター高原の外れにある宿泊施設へと辿り着いていた。長居はできないが明朝までの間、身を隠すには都合が良い場所だと、男はヴァレーにそう告げた。運び屋が到着するまではこの場所で待機をする、運び屋は襤褸を纏い、一見すると物乞いのような粗暴な見た目の者だという。

「長旅でお疲れでしょう。どうぞ、ゆっくりとお寛ぎください」

ヴァレーは無言で、彼の指示に従った。
あれから数度の面談を通じてより深く、男の話に耳を傾けた。我々は偉大なる君主へと仕え、新しい王朝を築く選ばれし民なのだと、彼は繰り返しそう言った。この時世に王朝だと、本気で言っているのかと怪訝には思ったものの、その目に偽りは無く、君主に心酔しているかの様子は典型的な狂信徒のそれだ。

だが今はそんな事よりも——あの場所から首尾よく逃げおおせた安堵と解放感にすっかりと満たされていたかった。緊張から解き放たれ、弛緩し始めた身体と、この先についての思考を半ば意識的に放棄しながら、ヴァレーは身綺麗にした身体を豪奢なソファへと投げ出した。王都の応接間にでも置かれていそうな、金の刺繍が施された上質で柔らかな座面に沈んでしまった身体を起こすだけの力は、恐らく半刻は戻らないだろう。

しばらくすると男も同じく寛いだ風体で姿を現した。ヴァレーは微睡む頭を動かし、その姿を追いかける。連れ立った時に気付いてはいたが、男の体躯は標準よりも大きい部類だ。この狭間の地で、未だに家柄が優れた者や要職に就く者は体格が良いと相場が決まっている。大柄であればあるほど重役にも就きやすく、軍幹部などは騎乗している馬にも負けない程の体躯をこれ見よがしに誇っていた。他方、ヴァレーはそうした体格には別段恵まれていない。卑兵や小姓たちのように身分を貶められるほどでは無いが、要職に取り立てられる程の事もない。一体、その君主とやらには何を見出され、呼び立てられたのだろうか。
ぼんやりと思考を巡らせていると、ふと、男と目が合った。

「何か?」
「いえ、どうして私が選ばれたのかと……」
「それは、付いてきていただければ分かりますよ」

軽やかに、そして肯定的な響きを放った男の視線が、横たえられた身体の上をじっとりと、品定めをするかのように移動していく。

ヴァレーは対話を重ねて互いに理解を深める中、王都を立つという一義において、この男とは或る種の共犯的思考を有し始めたと感じていた。彼から向けられる視線や熱からも、同志を得たことへの興奮が随所に見て取れていた。

だが、今落とされた視線に含まれていた意図は、明らかに違う意味を含んでいた。
経験上、度々他者から向けられ続けたその視線の意図を、そしてその意味を——ヴァレーはうんざりするほどに良く知っていた。どうしてその手合いを惹き付けるのか彼自身には皆目見当も付かなかったが、身体的な接触を目的として口説かれた経験が一度や二度では済まず、ましてや両手では収まらなかった事からも——また、上司達から身体の関係を強要されていた事からも、自らがそうした嗜好の人種に与えてしまう役割を、半ば強制的に自覚せざるを得なかった。

警戒の色を示して上体を起こそうとしたヴァレーを制するよう、隣に腰掛けた男の手が彼の肩をゆっくりと、だが力強く押し戻した。反対の手が、横たえられた無防備な太腿をつうと撫ぜる。

「何も、あなたに興味を示したのは我が君主だけではありません。私も個人的に、あなたの事を調べていたのでね」

そう語る男の手が、ゆっくりと力を込め、太腿から双臀へと這い進んでいく。

「それは……どのような意味で……」

部屋の空気が粘度を増し、ヴァレーの身体にじっとりと重くのしかかる。与えられた無言の圧力が彼の意識と相反するよう、その背を強く押し付けた。

「面談の時に話は全て終えました。あなたと言葉を交えるのは、満ち足りた素晴らしい時間でしたよ。あなたが今、ここに来てくださった事が何よりの証左でしょう。明日まではまだ、十分に時間があります。ですが、せっかくこうしてご一緒出来たのに話すこともなく、ただ無為に明日を待つのは勿体無いと、そうは思いませんか?」

男が覆い被さり、太腿の間にぐいと膝を割り入れた。ヴァレーの瞳は僅かな戸惑いに揺らされたが、寛げられる身体は擦れ合う肌の感触が思い起こさせる記憶に焦れ、熱を帯び始めていた。理性の手綱は頭の奥が痺れるような甘い疼きに抗えずに手放されていく。

——あの日、酷い夢に魘された逢瀬から自制はしていたものの、度々彼を襲う夢は現実と虚構の区別もつかないほどに猥雑さを増し、その中でヴァレーは決まって自ら男を誘い、姦淫させ、あられも無い行為に身を堕としていた。現実の行為ではさなかに絆される事はあっても、一度たりとも自ら相手を呼び付けたり、誘いを掛けた事など無かったはずなのに。

だが、今の状況はどうだろうか。彼の知る現実とは程遠く、全てが都合のよい作り物のようだ。
実際、もういつからか白昼夢のさなかにでも迷い込んでいるのかもしれない。冷静な頭では、この選択の先には破滅しか無いと、とうに分かっていた。それでも自らを擦り減らし続けた場所を見限り、裏切る事への優越と、目の前にぶら下げられた仮初の自由に、飢えた獣の様に見境もなく飛びついてしまいたかった。このエゴイスティックな欲望に身を任せて溺れてしまえたら——いっそ楽になれるのだろうかと。

誰に取り繕う訳でもなく、自制の必要も無くなった今、上品な嘘で塗り固めていた自らの仮面を捨て去る事を躊躇う理由はもう、どこにもなかった。

ヴァレーは男の首元にするりと手を回すと顔を寄せ、その耳元へと甘く囁き掛ける。

「それで? 調べただけでは当然、満足出来なかったのでしょう」

蠱惑的な哄い声が吐息と共に男の鼓膜を揺さぶり、煽り立てていく。

かつて黄金の祝福を受けた瞳は、今や背信的な行為への期待を包み隠すこともなくどろりと蕩け——悪徳に染まりゆく身体は刹那的で爛れた享楽を待ち望むように、目の前の男を欲望の果てへと誘った。