燈火(後編)

 

『君は唆されていたんだろう』

『君には長期のカウンセリングが必要になる』

『まだまだ私達には君の力が必要だ』

『私たちが最大限にサポートすると誓おう。また、よろしく頼むよ』

『彼が君の担当だ。尤も、キャリアとしては君の方が上だろうが』

「——お久しぶりですね、先輩。あの日以来でしょうか」

聞き慣れた声に目を開ける。眩いほどの白い光と、消毒された匂い。

真っ白で、無機質ではあるが、目に映る光景には知らない所などどこにも無い。

——ここは、あの地下の監獄だ。

起きあがろうと、身を捩ると全身が鈍く軋んだ。ひときわ痛む腕へと目を向けると、無数の内出血の跡が見て取れた。鎮静剤か、麻酔薬を投与されたのだろう。それも、かなりの日数に渡って。腕に残る様々な色の斑紋が、ヴァレーにその事実を伝えていた。徐々に輪郭を取り戻し、鮮明になっていく意識の中、彼は次第に自らの置かれている状況を把握していった。

「あ、まだ横になったままで大丈夫ですよ……。ここでは気にせず、胸の内を打ち明けてください。守秘義務も万全ですから」

白面の青年は労わるような笑みを面の奥に浮かべた。麻酔の切れた感覚に、ヴァレーはゆっくりと上体を起こすと、ベッドの縁に腰掛けた。先ほどまで聞こえていた他の人間の声や気配は、いつの間にかすっかりと消え失せている。先に口を開いたのはまた、青年だった。

「先輩が行方不明になって数週間、もう見つからないものだと思われていました。私は絶対に、この目で確かめるまでは何も信じられませんでしたが……。何より、生きていてくださって本当に良かった」

青年は声を震わせながら、噛み締めるようにそう言った。

「……行方不明?」

「そうです、あの日、展望台で あの晩に、あなたは私の——いえ、私たちの前から姿を消しました」

あの日、被疑者の男と連れ立って王都を出たのは事実だったのだろうか。ヴァレーは口に出さず、考えを巡らせた。どこまでが夢か現実か、未だ判然としない。

「……私はどのような状態で見つかったのでしょう。手元のそれを見せて貰えませんか」

ヴァレーは青年の心配には応えることもなく、僅かに痙攣の残る手を伸ばした。

「すみません……今の立場上、職務規定違反になりますので先輩と言えどもお見せするのは……。このカルテによると、あなたは連れ去られ、監禁されていたようです。廃墟に偶然立ち寄った捜査部隊が眠っているあなたを見つけ、主犯格の男を捕らえたと。地下には複数人の痕跡が見られたようですが、他は不明で……未だ捜索中です」

彼は一部をぼかすようにして続けた。

「衰弱はさほど無く、健康状態にも問題はありませんでしたが、随所に暴行を受けた形跡が見られると……」

青年はヴァレーを気遣うよう、度々彼の様子を伺いながら言葉を選ぶ。

「……不躾な事をすみません。少しずつ、癒していきましょう。私がきっと、お役に立てますから……。ここまでは共有事項ですが、ここからは二人だけです。どうぞ、お気になさらず……」

青年は、手元の音声装置がオフである事を身振りで示した。
ヴァレーは、しばらく状況を飲み込むために思考を整理していたが突然、小さく吹き出すような笑みを溢し始めた。

「お辛いようでしたら日を改めても……」

異変を感じた青年が、僅かに狼狽える。ヴァレーの笑い声は次第に押し殺したものではなく、喉からくつくつと漏れ聞こえるようになっていた。そして、ついに耐え切れないとばかりに口を開けると、堰を切るように声を響かせた。

「——っ、アハハハッ、ウフフフッ、ああ、おかしい、監禁? 暴行? そう——そうですか」

「——先輩?」

「いえ、貴方、うふふ、全ては——全ては、私が望んだものだと聞いたら、どう思いますか? ここの全てに嫌気が差して、与えられた役割を捨て去ってしまいたかったのだと」

白面の青年は息を呑み、目を見開いた。だが、職務を全うすべく毅然とした態度で手元のカルテへと目を落とした。

「それは——」

「ああ、言わずとも分かりますよ。そこに書いてあるんでしょう。私も同じ立場の人間が来たら、そう言いますから。貴方は被害者だ。加害者にそう、思いこまされているだけだ、とね。私が進んで彼らに何をしてきたか、全てお伝えしましょうか?」

言葉を遮って強制的に対話を中断させる事も出来たのに、青年には出来なかった。先程のカルテの内容を、頭の中で反芻する。言葉の先の想像で、唾液が口の中に溜まっていく。飲み込むタイミングを逃して、ごくりと喉が鳴る——。彼はその変化を見逃さなかった。

そうして、ヴァレーの口からは、彼の望んだという行為の仔細が語られていった。あの地下室で彼が過ごした数週間に、何があったのか。それは青年の想像をはるかに超え、どうしてそんなことを望んだのか全く理解ができなかった。語られていくヴァレーの姿は、青年の思うものとはあまりにもかけ離れ過ぎていたからだ。

青年は、ヴァレーが額へと添えた手を見て、その指の異変に気が付いた。身体的な損傷をすべて記載してあるはずのカルテには書かれていない、彼の指にはっきりと残る鮮血の跡。そして、黄金に揺らめく瞳の奥に見えた赤い残像を。

だが、ヴァレーの言葉に引き寄せられていた青年の意識は、その異変を幻へと変えてしまった。次の瞬間には、全てが元通りだった。疑問を呈する間も無く、それは見間違いだったのだろうと彼は結論付けた。今はそんな事よりも、語られていく言葉に、ひた隠しにして来た目の前の人への劣情を抑えることができなかった。

「——ねえ。褒められたものではないでしょう。私は被害者などではないのですよ。全て望んで身を委ね、自ら彼らを求めました。初めからそうでした。彼らが背信者と分かっていながらね。ああ、貴方がこの事を上に報告すれば、私にはもうキャリアも何もありません。尤も、ここに戻るつもりもありませんが」

「ならどうして、そんな話を私に……」

耳へと流れ込む言葉の数々が、頭の中に鮮明に像を結ぶ。彼は今しがた語られた行為への想像と、その内容がもたらした衝撃に、正気を保つのが精いっぱいだった。そして今、決して言うべきではない一言を放ってしまった。それは、彼の『理性』にとってはそうだった。自らの立場を考えれば、絶対に、今の話に引き込まれてはいけなかった。なぜヴァレーが先ほどの話を、その仔細を楽しげに打ち明けたのか。青年には、その先の答えが分かっていた。

「どうして? おや、もうこんな時間ですね。続きはまたにしましょうか。貴方、それはどうするおつもりですか?」

「え——あっ」

彼は指摘されて初めて、自らの身体の異変に気がついた。面の下の顔が朱に染まり、その場所を決まりが悪そうに覆い隠す。目の前の男性は口元に手を遣ると、またくすくすと笑った。

「ウフフフッ、情けない」

「……あの……先輩、私とは……」

「何か?」

「ああ……もっと早くそうすれば良かったんです。だから、その……」

白面の青年は小さく息を吸い込むと、ひと思いに告げた。

「今度は私があなたを、この場所から連れ出してさしあげます」

——そうだ。彼はこの部屋で絶対に、相手を落とす。それがどんなやり方なのかは知らなかった。でも今は、はっきりと分かった。この部屋で優美に振る舞う彼は誘蛾灯のように魅力的で。その惑うような灯りにふらふらと誘われるように、自らの憧れの、目の前の疲れ切り、憂いを湛えた歳上の。あまりにも毒々しい色香を纏ったその人を——。そこの監視カメラを遮り、壊してしまってでも押し倒し、自らのものにしてしまいたかった。
彼はもう、正気を保ててはいないのかもしれない。こうなる前に、気付く事は出来なかったのだろうか? 分析官として華々しく、憧れの人と共に仕事をしてきたはずだったのに、彼の異変に気付けなかった。いや、それは嘘だ。気付いていたのにこの仕事を、彼の横に居られる場所を手放したくなかった。その瞳が私だけを映して、虚実入り混じる甘く、美しい言葉が私の耳だけに注がれるのであれば、それはどんなに幸せな事だろうかと。あの日、無理やりにでも引き留めておけば先ほどの行為は、その役割は、自分のものにできたのかもしれないのに。

その想像に、そう、想像だけで——

ああ、情けない。私のそれは、ついに我慢ができなくなってしまったのだった。

 

◻︎

連続殺人を犯し、王都に違法薬物を蔓延させ、王都付きの精神分析官を人質に取り、逃亡を続けて連日世間を賑わせた凶悪犯は、尋問を受けた後、日陰城で公開処刑をされる事になった。

白面の青年は、面談の直後にヴァレーを医師として再起不能、長期療養が必要とする意見書を提出した。
地下医療刑務所の上長らはどうにか彼を休職扱いにさせようとしたが青年は頑なにそれを拒んだ。そうして、彼のかつて憧れた先輩は、全ての肩書を失って青年の手の中へと収まった。
そして、事件の後遺症だろうか、ヴァレーの判断能力は通常の水準を大幅に下回り、日常生活を送るには相当の時間が必要と見られた。

「やっと、私だけを見てくれるようになりましたね」

物言わぬ従順な身体を抱き寄せ、首元へと顔を埋める。ふわりと石鹸の香りが立ち昇るその場所には、夥しい数の鬱血痕が浮かんでいた。彼は自らが残した無数の痣を見ると、また新しい徴を残そうと舌を這わせ、軽く吸い付いて歯を立てた。ヴァレーの身体が、生理的な痛みに反応してびくりと震える。二人の間に漂う気配は、もはや以前のように清廉で、潔白なものではなくなっていた。

「……そうだ、これ、買ってきたんですよ」

青年は隠すように置いていた薔薇の花束を、ヴァレーの目の前に取り出した。

「どうですか? 薔薇は王都ではなかなか見られませんから、つい珍しくて。真紅の美しい色合いも、素敵でしょう。お気に召せばと思いましたが……」

ヴァレーの目がほんの一瞬、その花束へと向けられた。
だが、彼の表情は何も変わらない。青年は諦めにも似た表情を浮かべ、目を伏せると近くのテーブルへとそれを置いた。部屋の入り口には、彼がヴァレーへと贈った数々の品物が役目を果たす事なく積み上げられ、処分の時を待っていた。

青年は再び彼の身体に触れると、自らが残した痕跡の一つ一つを、愛おしむように撫ぜた。薔薇の花束が置かれたままのテーブルが、がたりと揺れ、軋んだ音を立てる。荒げられる呼吸と、甘く蕩けるように漏らされる喘ぎ、汗ばむ肌を重ね合わせる音がゆっくりと、部屋に響き始めた。流れる速報の音声が、日陰城での公開処刑が滞りなく完了した事を伝えていた。

「……まだ、終わりではありません」

ヴァレーがふいに、口を開いた。まともに彼の声を聞いたのは、もういつぶりの事だっただろうか。うっとりと、耳元で囁くようなその声音に青年が、はっと顔を上げる。

「ああ。もう少しで、理想の実現に見えることが出来ます。新たな王朝の開闢は、すぐそこまで迫っているのですね」

「……一体、何の話ですか?」

荒唐無稽な話の内容に反してヴァレーの目は、元の聡明な意志を取り戻していたように見えた。

「見届けようと思うのです。私にとって、真に正しいものが何であるのかを。そして、それが私の導きであるのならば。もちろん、貴方は貴方の道をお行きなさい。導きは、一つでは無いのですからね」

語られる言葉の真意を掴めずに、青年は戸惑いの色を見せた。だが、ヴァレーには自分が必要なのだと、精神的にも、そして肉体的にも、今は心からそう思っていた。実際には、求められていなかったのかもしれない。語られる内容、そして彼の目はもう、自分のことなどとうにうつしていないような気がしていたからだ。

「ヴァレーさん、私はあなたとずっと一緒に……」

青年は悲痛な顔で食い下がった。やっと手にしたものが、あっさりとこの手から溶け出して、形を失って流れ落ちていく。

「そうですか——でしたら貴方にも、私と同じ導きがあるとよいですね」

ヴァレーは身体の横に置かれていた花束の中から薔薇を一輪抜き取ると、青年へと手渡した。青年がそれを受け取ると、棘がヴァレーの指先を掠めた。指に血が滲み、指先から掌へと伝う線が肌の上に描かれていく。それを眺めながら、熱に浮かされて言葉を紡ぐ彼に、苛立ち、恐れ、焦燥——青年は、溜め込んだ感情を抑える事が出来なかった。そしてヴァレーも、どのように扱われるのかは分かっていたのだろう。

彼はずっと哄笑っていた。今までのように快楽に溺れ、艶やかに乱れることもなく。身体を突き上げられ、揺さぶられても、そんな行為、すっかり知り尽くしてしまったとばかりに。それでも青年は彼を求めた。例えそれが誤った導き、自らの破滅に繋がるものであったとしても。

 

epilogue.

 

王都では、後に血の惨劇と呼ばれるクーデターが起きた。

その惨劇の象徴たる血の君主は、彼の信奉者と共に王城へと侵入。内部から軍幹部及び官僚達を鏖殺し、王都の勢力を無力化、瓦解させた。王城内部の転送門は血に濡れ、逃げ出そうと試みた者たちの遺体が辺り一面に積み重なっていた。彼らが誰の手引きで、どのようにして城内に入ったのか、経路は不明だった。更には、城下の兵士や臣民の中には突如として味方を攻撃する者たちが相次ぎ、指揮系統は混迷を極めた。指揮官たちは数に押され、その体躯や武力を誇る間もなく、暴徒の渦に無情にも飲み込まれていった。

全てが終わった後、王都の一角にはかつての白面の医師たちが重なるようにくず折れ、息絶えていた。彼らの骸には無数の蝿と蛆が沸き、食い破られた皮膚から噴き出した血膿が彼らの象徴たる白い装束を、無機質な石膏の仮面を——真っ赤に染め上げ、飾り立てていた。

今となってはこの地にただ一人の、その装束に身を包んだ者が歩み寄る。

彼は口元に手を当てる仕草を見せた後、そっと、骸の側へとしゃがみ込んだ。目の前にだらりと垂れ下がった白布には血が染み込み、不自然な方向に捻じ曲げられた腕、その指先からは暗赤色の雫がとめどなく滴り落ちている。彼が差し伸べるように手を伸ばすと、その指先から、小さな火種が瞬いて燃え移った。燈火は次第にその勢いを増し、飛び回る蠅の群れを焼き尽くし、高く燃え盛っていった。

『——我が君主には、力と、意志と、愛があります』

『貴方にはきっと、貴い血がお似合いですよ』

時が経ち、その男は求められた役割に身を尽くしていた。真紅の薔薇が咲き誇る美しい教会で、悩める者へと寄り添い、耳を傾け、言葉を交わし、彼の言う真実へと導いた。訪れた者は新たな王朝の一員となり、未だ成されぬその開闢を、今か今かと待ち侘びていた。

『ええ、でしたらこちらへどうぞ。うふふ、そう緊張なさらずに』

——それは、美しい教会のもう一つの顔。仮面の下に潜む甘やかな誘い。

ヴァレーは請われれば躊躇いなく身体を開いた。そのさなかに、思い起こされるのは逆さを向いた虚ろな仮面の群れ。飛び回り、焼け落ちていく無数の蠅の羽音。燃え上がり、積み重ねられた身体と生々しい血の匂い。微睡む意識の奥底に、夢の中の出来事の様に揺れる光景は、いつか見た、大輪の薔薇の花束のようだ——。

あの光景は何と悍ましく、そして美しいものであったのだろう。

ヴァレーはうっとりとその身を震わせると、大きく息をついた。だが、その夢のさなかで、骸となった彼らが何者だったのか、なぜ自らの装束が彼らと同じであるのかは知る由もなかった。それは、さして重要なことではないのかもしれない。たとえ彼らがどのような者であったとしても、神聖な炎に包まれ、浄化された事で必ずや救われたに違いないからだ。

全ては偉大なる、血の君主の名の元に。そしてその愛に、いつか献身をもって応えるように。この痛みと共に積み上げた愛をより深く、重く取り立ててもらうために。

噎せ返るような血と薔薇の匂いが、辺り一面に立ち込めていた。

指先が甘く疼く。今や、目に映る全ては美しく、光り輝いて見えた。

 

 

END