殉教者

 

ゆっくりと、刃先が炎に炙られる。
刃物の持ち主は慣れた手付きで、それを手の中でクルクルと転がした。

そうして整えられた刃を、空に漂わせる。
しゅう、と、熱が白い煙となって立ち昇った。
その熱が半ば冷めやらぬままに、刃先がぴたりと、眼前の肌理の細かい肌へとあてがわれた。

躊躇いもなく差し挿れられた刃は、数瞬の後に、その肌に赤い雫を、ぷつり、ぷつりと滲ませる。
刃先は肌へと呑み込まれ、鮮やかに切り開かれていく。

だくだくと、血が滴り落ちた。

それはかつて何度も、何度も繰り返しに見た光景だった。
いや、しかし、もう戦争は終わったのではなかっただろうか。

では何だ、目の前に横たわる身体は、一体誰のものなのだ。
そう考えた瞬間に、ふと、自分の身体に違和感を覚えた。
先程まで、確かに立っていた筈なのだが、背に重力を感じる。横になっているのだろうか、であるならば、いつの間に?
手足が思うように、動かせない。
身体は、寝台にがっちりと縫い止められていた。

拘束されているのか。
手足に固く巻かれた、拘束具を外そうと試みる。
ガチャガチャと、金属の音が辺りに響いた。

気付けば、面も着衣も、何も身に着けていなかった。

ふと顔を上げると、そこには白い面を付けた、見慣れた男の姿があった。
男は、身じろぎもせずに此方をじっと見つめて居る。

今から起こる事が、容易に想像できた。
目の前の男の行動が、手に取るように分かる。
如何して自分を自分が見下ろしているのかは、皆目検討も付かなかったが。

あれは紛れもなく自分なのだ。

「やめろ」と言葉にしようとしたのだが。
恐怖で喉が強ばって居るのか、何度試みても声が出せない。
恐れというものは斯くも簡単に、身体を制御不能に陥らせるのか。

目の前の男の手が動いた。
意識は未だ、はっきりとしている。

やめろ、やめろ、やめてくれ。

その願いも虚しく次の瞬間。
自分の身体は、成す術もなく無造作に切り開かれていった。

「うあぁぁぁぁぁっっっ!!!!」

叫び声と共に飛び起きた。

身体中がぐっしょりと濡れている。
自らの手を、足を、身体を見る。
何も変化は無い。

あぁ。

あぁ、またいつもの夢だ。

そうとは分かっていても、心臓は早鐘を打ち、呼吸は浅く、早いままだった。
大丈夫だ、あれは現実などでは無い。
自らに言い聞かせ乍ら、目を瞑り、胸に手を当てる。呼吸を少しずつ整える。

——なぜ、今更。
此の所度々に見る悪夢だった。

状況は異なるものの、その悪夢はいつも『医師であった頃の自分を、白面を身につけた男が無慈悲に切り刻み、解体していく』というものだった。
白面の男は感情を見せず、感覚として自らであるような気はするのだが、自分の具象なのかは分からない。まるで、無機物のようだった。

悪夢はもう、何度も何度も見た筈なのに。
一度始まると、それがもう夢であると気付くことは出来ない。
どれ程滑稽であろうとも、どれ程突拍子のない状況であろうとも、それは酷くリアリティに満ち、感覚は研ぎ澄まされ、鮮明にその恐怖を、痛みを、何時も同じように味あわされる。

先程の叫び声で、何者かに気づかれやしなかっただろうかと、洞窟の外を見る。
静寂が、変わらずに辺りを包んでいた。
まだ外は薄暗かったが、もうじき夜も明けるだろう。
再び眠ろうという気は起きなかった。

近くの小さな湖に向かう。
冷たい水を手に掬い、手早く身を清める。
表を上げると、水面に自分の顔が写っていた。
鮮明に見えた訳では無いのだが、何と酷い顔なのだろう、と思った。

黄金の祝福は、その導きが見えなくなると共に失われるのだという。
自分も何度か、その不死性によって死に戻りをした経験があった。
思い出したくは無いが、自らの死を経験し、自覚した事があるというのは記憶に、精神に、少なくはない影響を及ぼす。

ゆっくりと、確実に精神が蝕まれていくのを感じた。

先の戦争では、間に合わせの治療によって夥しい数の兵士の悲鳴を聞き、

従軍医師として戦場の介錯者となった後は、その命を数え切れないほどに自らの手で奪った。

自分もきっと、このまま何処かで一人、野垂れ死んでいくのだろうと思っていた。

しかし、その矢先に褪せ人に選ばれてしまった事で、死ぬことすら奪われてしまった。

もしかしたら、とうに導きは見えておらず、不死性もまた取り上げられているのかもしれない。
以前はこのまま死ぬのもいいだろう、と思っていたのだが、疑似的であろうとも死を経験してしまったこの身体は、『そのまま二度と目覚めない』という事の恐ろしさに耐えられなくなってしまったのだった。

死にたい時に死なせてはもらえず、死ぬ事の恐ろしさを記憶と共に身体に刻まれた。
そうして今も、擦り減らした精神とともにこの生を弄ばれ続けている。

蟻地獄に落とされた蟻が、底へ底へと呑み込まれ、落ちていくような。
足掻けば足掻くほど、その全ての努力が裏目に出るような。
そうしてその様を、じっと嬉しそうに見つめている「何か」が自らの上に存在するような。
そんな気味の悪い妄想と、恐ろしさが、じくじくとこの身を苛んだ。

そういった恐れがきっと、あの悪夢を見せているのだろう。

祈る神もなく、縋るものもいない。
たった一人で、どうにか意識を奮い立たせて日々を送る。

市民たちの成れの果ての姿が脳裏に浮かぶ。
死なぬが故の長生の果てに、正気を失い、永遠にこの地を彷徨う者たち。
このまま死を恐れてあてどなく生きるうちに、いつかは自分もそうなるのだろうか。

いつしか、外はすっかり明るくなっていた。
また、長い一日が始まる。

ひとつの場所に、あまり長く留まる事は出来ない。
かつての従軍医師の装束に身を包んだ。
もう、この装束を脱ぎ捨ててもいい筈なのだが、肌の一部も露出させないこの姿に身を包むと、自らの弱さが、恐怖が、怖れが、全てが、覆い隠されるような気がして酷く安心感を覚えた。

手短に身支度を整え、湖畔を後にした。

——かつては、数名の褪せ人と交流を持つ事もあったのだが、戦士たる彼等であっても尚、その強大にして凶悪な使命に心が折れ、正気を失い、一人、また一人とその姿を消していったのだった。
交流のためにと使用していた書き置きは、もう一体、いつのもので止まってしまっているのだろうか。

宛てもなく彷徨い、教会に辿り着く。
大きな女神の像が、此方を出迎えていた。
この世界に、神に、祈りを捧げるなど馬鹿馬鹿しい。
目の前のマリカの像を見上げ、睨(ね)め付けた。

ふと、人の気配がした。
教会の周りには何も居なかった筈なのだが。
びり、と背中に緊張が走る。

腰の短剣に手を掛け、素早く向き直ると、黒い装束の何者かが見えた。
やや長身で、フードに覆われているためか顔は見えない。手には螺旋状の長い刺剣を持っていた。

次の瞬間、全身に何かがぶつかったような、激しい衝撃を受けた。
視界が揺れて、身体がバランスを崩す。
身体に感覚がない。
まずい——体勢を元に戻す事ができない。
ぐらりとくず折れ、膝をついた。
そのまま成す術もなく、身体が前へと倒れこむ。

意識を手放す直前に見たものは、
ゆっくりと眼前に近づく、足元に広がる、一面の赤だった。

——ここに連れられて、どれぐらい経っただろうか。

暗闇の中、時間の感覚はとうに失われた。
蝋燭の薄明かりだけが、牢の外から辛うじてもたらされている。

居心地は悪く、ひんやりとした岩肌と、湿り気を帯びた地面が身体に触れ、体温と体力をじわじわと奪っていく。

鉄錆と、僅かな腐敗臭のような、鼻をつく臭いが辺りに充満していた。
それは、よく知っている臭いだった。

なぜあの場で、殺されなかったのだろう。
此処で生かされている事に何の意味があるのだろうか。

つと、横を見る。
此処に捕らえられて居たのは、自分だけではなかった。
初めは、その見慣れた姿に、驚いた。
先の戦争で共に従軍した医師たちが数名、先客として牢に閉じ込められて居たのだ。
皆怯えきって、言葉もなく、衰弱しきっていた。

従軍医師たちにも、残党が居たとは。
自らが所属していた小隊の者は、皆とうの昔に死んでしまった。別の隊の者たちとの面識は無く、かつて交流があったとしても、今のこの姿では誰が誰だか分からないだろう。

目の前には、黒いフードに身を包んだ人攫いが、その顔は見えないがこちらをじっと、監視している。
どういう経緯で集められたか分からぬ以上、医師たちと不必要に接触することも憚られた。

飲まず食わずで、体の感覚では一日以上が経過していた。
喉が、酷く乾く。
そろそろ体力も限界だった。

また、数時間が経っただろうか。

攫われたうちの一人は、元々酷く容体が悪そうだった。
湿った地面に倒れ込み、肩で息をしていたのだが、目を離している間についに身じろぎもしなくなっていた。
自分も含め、誰も彼に手を差し出せる者は居なかった。

黒いフードの者たちに、動きがあった。
彼らはこちらへ近づくと、もはや動くことの無かった一人には目もくれず、残る者たちを無理矢理に立ち上がらせて、洞窟の外へと連れ出して行った。

自分も、残る気力を振り絞って立ち上がった。

外の光が眩しい——。
久しぶりの刺激に、目を細める。

牢の中に居たものは自分も含めて皆、黒いフードの者に引き立てられるがままに、別の場所へと連れられていく。

外の光は、日の光ではなかったためか、目が慣れるのにそう時間は掛からなかった。

目の前の空には、満点の星空が浮かんでいた。
その美しさに、こんな時でなければ、と思った。

地上に目を落とすと、左手に建物が見えた。
あの小さな、神殿のような場所に向かっているのだろうか。
歩みを進めると、左手の崖側からここの地形が見て取れた。

ここは、地下世界なのだ。

永遠の都。
かつて地上にあったその都は大変に栄えたのだったが、自らが擁立せし王を神と見誤り、大いなる意志の逆鱗に触れたのだという。
そうして、大いなる意志の齎した恐ろしき厄災により、その都は滅ぼされ、地下深くへと葬られたのだ。
その災厄は、『暗黒の落とし子』と呼ばれた。

古い、歴史書に記されていた事を思い出す。

地下世界は、夜人や祖霊の民、永遠の都の民の地である。彼らは黄金に生きる者たちではない。
また、余所者や、地上の文化を受け入れないと聞いていたため、ついぞ足を踏み入れようと思った事はなかった。

現実逃避のためか、つい関係のない事を考える。
見えていた、小さな祭壇に着いてしまった。

此処で、何か儀式でも始まるのだろうか。
何処かから讃美歌のような、厳かな旋律と歌声が聴こえていた。

仮にその予想が的中するとすれば、我々は何らかの贄であるのだろう。

最悪の予感が、現実となりつつあった。

何が起こるのか分からない緊張と、もはや体力の限界が近づいているためか、冷や汗が止まらない。
肌を見せない装束を身に付けているために、身体にはべったりと布が貼り付いている。
面の内にも、鼻先から、顎から伝う水滴が溜まり、じわりと首元へ流れ落ちる。
その感覚が、酷く厭わしい。

目の前に、突如血溜まりが溢れ出る。
そこから徐に、異形の主が現れたのだった。

もし、悪鬼の王と言うべき者が存在するならば。
目の前のそれはその具象であろう。

頭部は生えるに任せたような、捻じくれた角で覆われており、まるで茨か蔓が絡み付いたかのようである。
黒衣の者たちと似たような、だが彼らよりもひときわ豪奢な意匠の装束を身に纏い、手には禍々しい、三叉の槍を持っている。

酷く悪趣味でありながらも、それは王族か何かを模しているのだろうか。
恐らくは、非常に位の高い者なのだと、その姿からは見て取れた。

悪鬼の王が、恭しくその口を開いた。

“我らの素晴らしい王朝、モーグウィンへよくぞ参られた

私は、血の君主モーグ そして、かの地には我が伴侶のミケラが御坐します

ここは神人ミケラの名に於いて、全ての名もなきものたちに愛と祝福を授ける新しき王朝

ミケラは、今は未だ繭の中で眠りにあります
幼き伴侶が目覚めるその時に、我らの王朝は華々しく開闢するのです

従軍医師、戦場の介錯者たちよ

数多の兵士の最期をその手に掛け、その血を受けてきた存在よ

姿なき、真実の母が言う
この血の王朝に相応しい存在であると

かならずや、我々の王朝の一員となれるだろう

さぁ、その身に貴き血を宿すのです”

モーグ、と名乗ったその悪鬼の主は、そう言って手元の槍を高々と掲げた。

他の従軍医師達は皆身が竦み、怯えきっていた。

話が出来るとは思いもよらなかった。
驚いた事で少しでも気が紛れたのは事実だった。
しかし、今は慇懃に口上を述べているが何が切掛で豹変するものか分からない。
迂闊な行動ができない事に変わりはなかった。

貴き血を宿す。
それがこの場所に連れてこられた意味。
何らかの儀式が行われるのだろうということは想像が付いたが、王朝の一員になれとは生かされるという事なのだろうか。

それとも、あの槍で刺し貫かれるのか。

黒いフードの者たちに、四肢をもがれたり、頭から喰われたり、生きたまま内臓を引き摺り出されたり、嬲り殺しにされるのだろうか。

考えても、埒があかない。
もはや、此処までだろう。
抵抗はおろか、最後に一矢報いようという気も起きなかった。

貴い血を宿すが何かは分からないが、せめて、悍ましい姿になって生きるだとか、永遠に苦しみ続けるだとか、そう言った類のものでは無いことを祈りたい。

——名もなきものへの愛の王朝、か。

自分をこんな目に合わせた張本人である人攫いたちや異形の主を前にして。
愚かにも、どうかその言葉が真実であればいいのに、と願ってしまった。

異形の主が、天に槍を掲げた。

聞こえてくる讃美歌が、その厳かな旋律と歌声が、いっそう強くなったような気がした。

古い呪文かなにかだろうか、聞き慣れない音が、異形の主の口から発せられた。

次の瞬間。

全員の身体が、禍々しい赤い呪環に締め付けられたのだった。

——私は、そこに真紅の槍を手にする、偉大なる神の似姿を見た。

血に濡れ、穂先が燃えているその槍は、確かに私の胸元を狙っていた。

そうして槍が、私の身体を貫き通した。

神が槍を引き抜いた、或いは引き抜いたかのように感ぜられたその時に。

私は神の大いなる愛による、激しい炎に包まれるのを感じた。

その苦痛はこの上もなく、その場にうずくまって呻き声を上げるほどだった。
苦痛は耐えがたかったが、それ以上に甘い悦びのほうが勝っており、止めて欲しいとは思わなかった。

私の魂は、その時にまさしく、神そのもので満たされたのだった。

感じている苦痛は肉体的なものではなく、精神的なものなのだと確信があった。

愛情にあふれた愛撫はとても心地よく、そのときの私の魂はまさしく神とともにあった。

心地のよい、開放感が齎された。

この素晴らしき、神の恩寵に対して、私はひざまずいて祈りを捧げた——。

リムグレイブの小高い丘の上で、目の前の建物の上にある像を見つめながら、
私はかつての、王朝の一員となった頃のことを思い出していた。

そう。あの儀式の中でたった一人、自分だけが貴い血を受け入れ、新しい王朝の一員として迎え入れられたのだった。

心地よい風が、身体を撫ぜていく。
胸の中を、ひたひたと充足感が満たしていった。

ふと、足元に血溜まりが見えた。
血の貴族が現れ、情報がもたらされた。

どうやら、新しい褪せ人が漂着墓地に辿り着いたそうだ。
褪せ人となった時には、既に指巫女は死んでいたのか、その者は今、一人なのだという。

——おやおや、「巫女無し」ですか。

白面の内に、その響きを半ば愛おしむように、哀れみを含んだ笑みが浮かぶ。

そのままでは導きも得られず、黄金の祝福もなく。役割も無ければ何も成せず、他の褪せ人と比べても既に手詰まりの劣等。
何も成せずに、惨めに死んでいくだけでしょう。

そう、それはかつての私のように。

そうして語る名もなく、この世界の悪意に翻弄されて、消耗して、消えていくのをただ待つばかり。

しかし、真実に見えた者は、貴い血を分け与えられる事で、より上位の存在になる事が出来る。

それがこの世界での、唯一の救いなのですよ。

さぁ、「巫女無し」の貴方、

この私が貴方を導いて、がたのきた、腐り切った世界から助けてあげますから。

どうか此方を信じて、その身を委ねて下さいな。

きっと、素晴らしい出会いになるでしょうね。