序章.
かつて調香師は、薬師として聖職にあった。
黄金樹の司祭たる霊薬師は、永き時の末に生じる、小黄金樹の恵みである結晶雫の力を引き出す事が出来た。
黄金の時代に於いて、薬師のもつ調香の術は不出のものとして秘匿された。
調香は永らく王都の秘術とされていたが、調香師たちが破砕戦争に従軍して後、それは狭間の各地で知られるようになった。
調香師たちは破砕戦争で戦場に送られ、調香は長き戦いの末にその本分を失った。
黄金樹に仕える者にとって、かつて火が禁忌であったことも、とうに忘れられてしまった。
そうして香薬は毒となり、火薬となったのだ。
1.
トリシャは調香師であった。
高名な師匠の元で、王都に仕える薬師として研鑽を積んでいた。
トリシャの師は、古き霊薬師たちの秘術を研究し、新たに香薬を生み出す第一人者だった。
彼の作る香薬は、治療の技とされた。
その力は癒しのためにある、と師はトリシャに言った。
トリシャはまた、敬虔だった。
毎日祈りを欠かさず、黄金樹の恵みに感謝した。
正直で、慈悲深く、薬師の本分にも忠実だった。
王都には奴隷が居た。
鎖で繋がれた醜い虜囚たちだ。
彼らは、混種と呼ばれる種族である。
羽や尾など、生まれながらにして複数の生物の特徴を持っていた。
彼らはその混ざりの故に、身体の全てが穢れているとされていた。
混種らは見つけ次第、殺された。
また、一部のものは捕らえられ、奴隷として休む事なく働かされた。
兵士たちは彼らを足蹴にし、すれ違いざまに槍の柄で突き、唾を吐きかけた。
「見ろ、こいつらの身体を。醜い混ざりものだ。祝福なき異端の生き物だ」
その光景を見て、何と酷い事をするものだ、とトリシャは思った。
等しくこの世に生を受けた者であるのに、どうしてこのように虐げるのか。
彼らが一体何をしたというのか。
それからというもの、トリシャは彼らのことが頭から離れなかった。
王都で煌びやかな装束に身を纏い、任務を受ける自身や周りの者の境遇と、
鎖に繋がれ、休む暇もなく働かされ、鞭打たれる彼らの境遇とを思うと胸が締め付けられる思いだった。
師も、トリシャの変化には気づいていた。
そうして、彼はトリシャをある場所へと連れ出したのだった。
「トリシャよ、お前は最近のところ職務に身が入っておらぬようだな」
「……いえ、そのような事はありません」
トリシャは俯きがちにそう言った。
師はさらに続けた。
「よい、咎めようというのではないのだ。それに、お前の心を苦しめているのが何であるのかも、わかっている」
トリシャははっと顔を上げた。
「それは——恐れ入ります。己の本分を忘れ、与えられた立場に疑問を持つなどと。
ですが、混種たちのことが忘れられないのです。私は彼らを救いたい」
トリシャは堰を切るように捲し立てた。
よいか、トリシャよ、と師は厳かに言う。
「お前の持つものは私の目指すところと同じ慈悲の心、癒しの力だ。今、この世においてその心を見失ってしまう者の、何と多いことか。今から向かう場所に、お前の探す答えの一端があるかもしれぬ。本来、明かすべきではない事なのだが、お前には伝えておきたいのだ」
そう言って、師は王都を下り、陽の当たらないところへと歩みを進めたのだった。
トリシャは王都の裏手、下層に足を踏み入れた事はなかった。
そこは恐ろしい悪鬼が巣食い、生きては帰れぬ場所だと聞いていたからだ。
一体どこへ行こうというのだろうか。
トリシャは恐ろしくなった。
徐に、師が口を開いた。
「ここだ、着いたぞ」
ここは、下水道か何かだろうか。
汚水や汚泥が流れ込む、このような場所に一体何があるのだろう。
「ここは、悪鬼が巣食うと噂されていましたが、大丈夫でしょうか」
トリシャは、思っていたことを口にせずにはいられなかった。
「大丈夫だ。さあ、そこの格子窓から中を見てみなさい」
師に言われるがままに窓を覗き込む。
そこで、トリシャは思いもよらぬものを見た。
暗がりに、ぼんやりと何者かが立っているのだった。
初めは捕らえられた小さな巨人か、トロルかと思った。
だが、それは今までに見たどのような生き物よりも、特異で、恐ろしかった。
身体中に無数の、折れた角のような隆起が見えた。
トリシャの息を呑む音が、暗闇に小さく響く。
——師よ、彼は一体。
師が口を開いた。
「トリシャ、先ほども伝えたが、お前の心は私の意志を真っ直ぐに受け継いでいる。王都の待遇に感け、癒しの心を忘れてしまう者も多いがお前は違う」
「彼らは、忌み子と呼ばれるものたちだ」
忌み子、とトリシャは小さく呟いた。
続く話に耳を傾ける。
「彼らは原初の生命である、坩堝の名残の混ざった先祖返りだ。黄金樹、ひいては黄金律原理主義のこの世に於いて、混種や忌み子など先祖返りをした者は、律の生命の輪環から外れた祝福されなかった生、忌むべき存在として虐げられてきた。混種がどのような扱いを受けているかは、お前もよく知る通りだろう」
トリシャは深く頷いた。
「この忌み子たちは原初の生命、坩堝の名残とされる無数の角を持ち、生まれてくる。
彼らを産み落としたものは、大抵はそのまま死んでしまう。彼らは不吉な、呪われた子として忌み嫌われてきたのだ。
その赤子は産婆に取り上げられると、人目につかぬうちにその角を全て切り落とされる。
赤子も、大抵は生き延びられずに命を落としてしまう。
運良く生き延びた者も、こうして表に出ぬようにと、王都の地下に放たれる。
尤も、王家にまつわる忌み子たちはその角を切られる事は無いが、やはりこの地下深くに幽閉されるのだ。
——ここは、忌み捨ての地下と呼ばれている場所だ。どうだ、酷い名前だろう」
師は話し終えると、深い溜息を吐き、格子窓の中を見た。
「彼は大丈夫だ、私の友だ。ぜひお前には彼らのことを知ってもらいたかったのだ」
トリシャは、込み上げる感情が抑えきれなかった。
——虜囚とされる混種といい、地下に捨てられた忌み子といい、生命の輪廻のほんの瑕疵をただ拾ってしまっただけなのに。
どうして彼らは全てを奪われ、否定されてしまうのだろう。
そんなことも知らずに、自分はこうして生きてきた。
償いたい。償えることではないのかもしれないが、彼らにはせめて一時でも、苦しみではなく安らぎを得てほしい。
願わくば、彼らの拾ってしまった生命の瑕疵を、治すことは出来ぬのだろうか。
「師よ、彼らを治す事は出来るのでしょうか」
トリシャは問うた。
その言葉に、師は驚いた。
それはあまりにも純粋で、また愚かな問いだった。
彼は高名であるからこそ、調香の何たるかを極めたからこそ、それは出来ぬ事であると分かっていた。
だが、その時のトリシャの真剣な眼差しに、彼なら何かを成せるのではないかと、癒し手の未来を切り拓くのは、彼のような人間なのかもしれないと、そう思ったのだ。
師は、こう伝えた。
「私も試みはしたのだが、悉く失敗だった。だが、新しい香薬や理論は次々と確立されている。新しいアプローチを続ければ、その一端ぐらいは掴めるかもしれぬ。トリシャよ、励みなさい」
その日から、トリシャは昼も夜もなく研究に没頭した。
合間に虜囚や、忌み子たちの元を訪れ、彼らを癒すことも欠かさなかった。
王都の役付きの者が虜囚に情けをかけるなど、と陰口を叩く者もいた。
しかしまた、志を同じくし、癒し手として慕ってくれる者も少しずつ彼の元に集っていったのだった。
2.
カルマーンは王都に仕える調香師であったが、その心は野心に溢れ、力を、強さを求めた。
彼はまた傲慢だったが、その力は己が強さを磨く為のみに使われた。
カルマーンには、古き友がいた。調香師として道を同じくし、彼もまた王都に仕える身であったが、求めた力は真逆のものであった。
時に罵り、時に張り合いながらも、彼らはお互いのやり方を尊重してきたのだった。
友は、名をロロと言った。
彼は王都ローデイルに於いて、高名な師である。
ロロはその力を、癒しと治療に使った。
ある日の事。カルマーンはロロの元を訪れた。
「ロロよ、最近は後進の育成に力を入れているようだな。お前は昔からそうだ。その恵まれた体格や戦闘の才を生かしもせず。やれ癒しの力だ、ひよっこどもの相手だとは、その甘さは変わらぬものだな。
我らは王都の将たるを任された身、戦に貢献もせず、ただ混種どもを慰めるなど何になろう。戦向きの香薬の一つでも考案すればよいものを」
ロロは聞き飽きたとでも言わんばかりに、ぞんざいに応答した。
「君こそ変わらぬよ。いつの日か、守りや癒しの力が世を救うこともあるかもしれぬのだぞ。力に狂い、弱き者のみを傷つける事の愚かさは君が一番嫌うものではないか」
「世迷言を。それに俺はただ強さを求めているだけだ。自分よりも劣る者のみを相手にするような卑怯者には、いつだって反吐が出る」
そう言って、カルマーンは近くの椅子にどかりと身体を預けた。
「君のような者が上に居るからこそ、その卑怯者たちがのさばらずに済んでいるのだ。それは私には出来ぬことだ。君にはずっと、そうあって欲しいものだよ。
——それに、君が目立つおかげで私は好きな事に専念できているのだからね。これからも、よろしく頼むよ」
ロロは彼に向き直って言った。
それを聞いたカルマーンは、どうにも面白くないという顔をして、そのまま眠り込んでしまった。
3.
戦だ、戦だ。
兵士たちが噂する。
このところ、狭間の地では各地で戦火が燻っていた。
君主軍が連合を組み、王都ローデイルを侵攻しようとしていたのだ。
兵士たちは駆り立てられ、全ての物資が最優先で戦の備えへと回された。
トリシャも王都の変化には気が付いていた。
地下の忌み子たちも、鎖に繋がれた虜囚たちも、戦力になるかもしれぬと将校らが話しているのが聞こえた。
そうした中、トリシャの師は王都より勅命を受けたのだった。
王都中央から戻って来た師は、青ざめた顔をしていた。
声をかけたが気づいていないようだ、トリシャは何度か師の名を呼んだ。
彼は数度目ではっと、トリシャを見た。
だが何も言わずに、足早に去って行った。
彼の顔には、苦悶の表情が浮かんでいるように見えた。
師も、戦地に赴くのだろうか。
癒しの力を探求してきた師にとって、戦ほど心が痛むものはない筈だ。トリシャにとっても、それは同じ気持ちであった。
師が、自らと接する事を望まぬのならと、戦の前に余計な負担は掛けまいと、トリシャはそれ以上、彼の姿を探す事はなかった。
言葉は交わせなかったが、師の意志、癒し手としての心は受け継ぎ、忌み子たちの研究は続けていくつもりであった。
戦とあって、カルマーンは沸き立っていた。
調香師の中でも力を求める一派の長である。
戦のために、長年新たな香薬の考案や理論を確立させてきた。
カルマーンは常々、調香を力と成せと言ってきた。その力に憧れ、彼に付き従うものも多かった。
カルマーンが師の古い友人であるという事は知っていたが、トリシャは調香を争いの技とする彼を好まなかった。
この戦火に於いて、調香は戦の手段の一つとなり、調香師から優れた将となるものもいた。
トリシャには知り得なかった事であったが、
事実、カルマーンの統率により、力のみを求めた調香師たちが暴徒となることは防がれていたのだった。
トリシャは師匠なき後、尚研究を続けた。
だが、どれだけ探求を試みても、忌み子や混種たちの、生命の瑕疵の根源を取り去る事はできなかった。
原初の生命が混ざった状態、坩堝に触れてしまった命は数多の生命の残滓を取り込み、混ざり者として生まれてしまう。
トリシャは、長き探求の末に一つの結論に辿り着いた。
混種たちの拾ってしまった生命の残滓は余りにも多く、その混ざりを全て取り去るのには膨大な時間を要するのかもしれない。その前に、彼らの命が尽きてしまう。勿論、トリシャ自身の命も。
——あぁ、ならば、人の身に出来るのは、彼らを癒すことだけなのか。
私に出来ることはもはや、その苦痛を少しでも和らげ、ただ、彼らに寄り添い続けるだけなのだ。
トリシャは、その事実に打ちのめされた。
戦の足音は、もうすぐそこまで忍び寄っていた。
彼らの運命も、それぞれに分かたれようとしていた。
4.
ロロが王都から受けた勅命にはこうあった。
”
貴殿ノ活躍 賞賛二値スル
長ラクノ忌ミ捨テノ地下ノ管理 御苦労
此ノ度、新シイ職ヲ与エル
地下ノ管理ハ物資モ乏シク 此レ以上ハ難シイ
忌ミ子ハ 徴兵スル
戦ニ適性ノ有ル者ニ 近ク将校ヲ 派遣スル
貴殿ハ 劣ル忌ミ子ノ始末ヲ行ウヨウニ
武器及ビ防具ハ 支給品ヲ使エ
以上
”
ロロは高潔であったが、また王都に忠誠を誓った身であった。
どれほど意に沿わぬ仕事であろうとも、王都からの勅命を断るという選択肢は無かった。
彼は苦悩した。
今回ばかりは、どうしても自らの心と、役割の折り合いをつけることができなかった。
忌み捨ての地下の管理を任され、彼らに情を移したのは自身であった。
王都が地下の管理者であるロロにこの任務を与えるのは至極当然の事だった。
悩みに悩んだ彼は、一つの答えを出した。
ロロは、古くからの友の元を訪ねることにした。
カルマーンは、ロロが自らの元を訪れた時に酷く驚いた。その顔は青ざめ、憔悴しきっていたからだ。
そして、その勅命を見て絶句した。
それは、ロロには余りにも重すぎる任務だった。
自身であれば成す事も出来ようが、これは彼にのみ向けられたものである。
ロロは、古き友に頼んだ。
全てを忘れたいと。
王都のためだけに、この身を捧げるためにと。
カルマーンは怒った。
お前の癒し手であるという誇りを捨てるのか。
黄金律の犬となる方が大事なのか。
相容れぬ思想ではあったが、この力の時代で、その体格や才などに恵まれていながらも虜囚や忌み子の助けになる、お前のそういった所が好ましくもあったのだぞと。
お前は本当に、それで良いのかと。
ロロは一言、そうだと言った。
それ以上は何も言わなかった。
カルマーンも薄々は気付いていた。王都からの勅命など断れるはずもなく、もし断ったとて誰か他の者が代わりにその任務を遂行するだけなのだ。
その命が無くなる訳ではない。
それを分かっていればこそ、どれほど意に沿わずとも、ロロは自分が引き受ける覚悟をしていたのだろう。
それでも、カルマーンは彼に怒りをぶつけずにはいられなかった。
時間の流れが、酷く遅く感じた。
ロロはやはり、何も言わなかった。
その頑なな意志に、カルマーンはついに折れた。
そうして、自らが調整した香薬を手に取った。
それはまだ、未完成であった。
出来れば、まだ人に飲ませたくはない代物だった。
特に、知った相手には。
それは、その者にとって最も辛い記憶、心の一部を失わせる事ができる忘却の秘薬だった。
しかし、酷い副作用がある。
同時にその人格をも破壊してしまうのだ。
本当に良いのかと、念を押した。
ロロの意志は固かった。
そうしてロロはその晩、自室にて香薬を飲み、その心を壊した。
高潔なる心を持った癒し手 調香師ロロはこの時死んだのだ。
カルマーンは彼と別れた後、ひっそりと部屋の近くを訪れ、その顛末の全てを聞き届けた。
そうして後には、忌み潰しの祖として知られる恐ろしい男が残った。
支給された装束の一式を身に纏ったその姿は、忌み子にとっての悪夢そのものの具象だったという。
誰の思いつきかは知らないが、これほどに悪趣味な存在があるのだろうか。
5.
トリシャは失意の底にあった。
混種や忌み子を治す事はできないと知ったその日から、彼は何も手につかなかった。
あれからというもの、やはり師匠の姿を見る事はなかった。癒し手の同志たちは居たが、トリシャの苦悩は誰とも分かち合う事が出来なかった。
其処彼処に、戦の火種が見てとれた。
調香師たちも次々に従軍し、香薬を戦のために用いた。
今や、忌み子たちまでもが徴兵の対象となっていた。
戦にあたり、彼らにも武器が与えられた。
彼らの得物は、大きな刀であった。
その大刀の刃には文字のような紋様が浮かんでいる。それは、劣化の呪法だった。
武器を与えるのなら、奪う準備も必要だろうと、将校たちが言っていた。
虜囚たちも徴兵され、王都からは殆どがその姿を消していた。
戦に染まった王都には、もはや自分の居場所はないのだろう、とトリシャは思った。
幸い、トリシャは戦において名を上げているわけではない。
ひっそりと従軍し、この王都を離れ、各地を回ろうと、そう思った。
治すことが出来なくても、この戦火の時代だ、きっと癒しの力を必要としている者がいるはずだ。
師から受け継いだ癒しの力を、絶やすわけにはいかない。
それこそが自分に与えられた使命なのだと信じて。
トリシャは王都を去る前に、忌み捨ての地下に立ち寄った。
忌み子の中でも、角を切られた者はそう長く生きる事はない。
初めて出会った忌み子も、既に衰弱し、その命が尽きようとしていた。
悲しいことではあるが、苦痛ばかりに満ちた生から、彼らは死ぬことでやっと解き放たれるのかもしれない。
死ぬ時には、せめて何の痛みも感じずに、赤子が母の腕に抱かれて眠るようにと願った。
何も感じないからこそ、死が安らぎとなることもあるのだろう。
貴方は、もう充分過ぎるほどに頑張って生きました。次こそは、きっと苦しみのない生でありますように。
トリシャは忌み子にそっと寄り添って、トリーナのスイレンから抽出した薄紫の粉塵を辺りに撒いた。
忌み子はすぅ、と眠りに落ちた。
そうして、その最期が、せめて苦痛なき安楽であるようにと、祈りながらトリシャはそっと、霊薬を忌み子の口に含ませた。
6.
トリシャと入れ替わるように、一つの影が忌み捨ての地下にやって来た。
その影は大きくも、まだ新しい大鉈を両手に持ち、忌み子たちが見る悪夢に出てくるというにやけた老人の、悪鬼の面を被っていた。
その影は元の名を、ロロと言った。
高名な調香師であり、また慈しみの心を持った癒し手でもあった。
かつての彼はその恵まれた体格を、弱きを守るために活かした。
だが彼は、もう自らが何者だったのかも覚えていなかった。
あるのはただ、王都に任ぜられた忌み潰しの職を全うすること。目の前の生命を叩き潰すという目的のみだった。
その役名の通り、忌み捨ての地下に入ったロロは、その余りある力で忌み子達を次々に叩き潰した。
それは、人格を破壊されたが故の、力のみを振るう様だったのだろうか。それとも、その苦しみが長くは続かないようにとの、せめてもの情けの名残だったのだろうか。
だが、人は愚かである。忌み潰しの任は、ロロで終わりではなかったのだ。
これより後、忌み潰しの職はその数を増やすこととなった。
その任を厭う者もいれば、面白そうだと自ら志願する者もいた。
しかし、その結末は皆同じだった。忌み潰しの任にあたるうちに、いつしか彼らの心は壊れ、恐ろしい虐殺者と成り果てたのだった。
彼らの得物である大鉈は、虐殺された忌み子達の角でびっしりと装飾された。
その角は振るわれた者の肉を抉り、阿鼻叫喚を彩ったのだという。
忌み潰しの祖として知られたロロは、いつしかその姿を消した。
噂では忌み捨ての地下の奥深くに使わされたそうであるが、その後の彼の足取りを知るものは居なかった。
「——最近、ロロを見ませんね。彼はどうしましたか」
「あぁ、忌み潰し志願の者も増えてきた事だし、あれが居らずとも問題はないだろう」
将校が言った。
「それはそうと、次の戦ではなかなかの戦果を挙げられそうだ。あの忌み鬼はなかなかの仕上がりだよ」
それより後に、カルマーンも王都を去ったという。
彼は突然、王都に背き、黄金樹を酷く呪った。
カルマーンの装束の前掛けには、黄金樹を呪うための禍々しい紋様が付け加えられた。
志を同じくしていた彼の一派も、共に王都を離れることとなった。
優れた将たるカルマーンがなぜ突然王都に反旗を翻したのか。なぜ突然黄金樹を、黄金の勢力を憎み、呪うようになったのか。
その理由は、誰にも分からなかった。
その後、カルマーンはゲルミアの地で志を同じくする者たちの居城を見つけたのだった。
彼は、黄金樹に弓引かんとする同志たちと共に、排律の道を行く英雄となったのだ。
だが、カルマーンの晩年は長年摂取し続けた香薬の作用によって身も心も蝕まれ、苦しみに満ちたものとなった。
彼は死の間際まで、蘇生の秘薬を追い求めたのだという。
カルマーンは調香の技を、己が力としてのみ振るう男であった。
——彼の追い求めた秘薬。
それは、香薬に侵されてゆっくりと死にゆく、自らの為だけのものであったのだろうか。
7.
トリシャが王都を出る時に、一人の調香師が同志として使えたいと、申し出た。
トリシャとその同志が王都を離れてから、長い時が経っていた。
——先の戦争は終わったのだそうだ。
だが、未だ王はなく、黄金律も砕けたままなのだという。
今、この狭間の地では、死は正しく黄金樹に還らず、各地には死者たちが彷徨っているのだという。
死者たちもまた、その存在を許されず、苦しみに満ちた存在なのかもしれない、とトリシャは思った。
二人は狭間の地を巡り、混種たちを癒して回っていた。
今は、アルター高原西の地下墓を拠点としていた。
トリシャもそう長旅ができる年齢ではなくなっていた。
——ここが混種たちと、そして私の最期の居場所になるのだろう。
地下墓に集められた混種たちは皆、トリーナの香薬でぐっすりと眠っていた。
ある晩トリシャは、長旅を共にしてくれた同志に暇を出した。
「私はもう、この地下墓を出る事は無いでしょう。貴方に癒し手としての意志を託そうと思うのです」
トリシャは調香師の、その誇りと責任を背負った分厚い前掛けを柔らかな革で簡素なものに仕立て直し、同志へと渡した。
そうして同志はトリシャの意志を継ぎ、混種や忌み子、あらゆる穢れの治療のために新しい香薬、そして花園を探す旅に出たのだった。
トリシャは彼を見送ると、死期の近付いていた混種の戦士の見取りをするために地下墓の入り口に封印を施し、奥の墓所へと入った。
そこには小黄金樹の根がある。ここで死んだものは皆、その根を通じて黄金樹へと還るのだ。
トリシャは横たわる、混種の戦士にそっと触れた。
終章.
——それは、古い、古い色褪せた記憶だった。それは突然の痛みと共に始まった。
投げ付けられる石。それは容赦なく肌に食い込み、血を流させた。
一つ、また一つと、石がその身を抉る。
身を捩り、傷つきやすい所を手で覆うように庇う。降り注ぐ悪意を払い除ける様に、必死に腕を動かした。
嘲笑う声が聞こえた。
「混ざり者だ。見ろ、あの姿を」
目の前を覆う影。それは、母のものだった。
その背中に、また新しい石が投げつけられる。
鈍い音が響き、母の苦しそうな呻き声が上がる。
足元に、伝う血が見えた。
あぁ、この血は呪われているのだ。
どうして自分達はこのような目に遭うのだろう。
一体全体、自分達が何をしたというのだろう。
嘲笑っていた民衆たちが兵士へと変わる。
兵士は、手に鞭と紐を持っていた。
母は鞭で打ち据えられ、地に伏し、首には紐がかけられた。嫌がる母を、兵士たちは無理矢理に引き摺って行く。抵抗しようとすると、また鞭でピシャリと打ち据えられた。
皮膚が裂け、また呪われた血が流された。
どうして、どうして、どこへ行くの。母上。
どうか、置いていかないで。
なぜ自分はこのように醜いのだろう。
なぜ自分は日の当たる場所を自由に歩けないのだろう。
何もしていないのに、何もしてこなかったのに。ただこの世に生を受けただけなのに。
時は経ち、身体は大きく、力は強くなったが、人間たちは恐ろしかった。
いつものように洞窟を這い回り、虫やらネズミを喰らった。
ふと、洞窟に人の声がした。
身体が強張った。
兵士でなければ大丈夫だ。旅人なら、八つ裂きくらいには出来るだろう。
見つかりたくはない。
分かれ道を探したが、どうやら一本道のようだ。奇襲をかけて、走り抜けようか。
相手は二人組だ。
姿が見えた。見慣れない服を着ているが、軽装だろう。兵士ではない。勝機がある。
走り、向かった。
爪を振りかぶり、飛び掛かった。
旅人であれば一撃で引き裂ける——筈だった。
しかし相手は、何かに守られていたのか、当たった筈であるが手応えがない。
再び攻撃を、と思い振り返る。
すると、目の前の人間は両の手を見せて話しかけてきたのだった。
「あなた達が、人語を理解するのは解っています。どうか今だけ、此方の話に耳を傾けては頂けないでしょうか」
「決して、悪いようにはしません。貴方達を卑劣な道具で捉えたり、ひどい言葉を投げかけたり、それら全てを、私は強く否定します。貴方達の苦しみを、どうか一時分かち合わせて下さい」
そう言うと、目の前の人間は手を広げたまま、そこに座ったのだった。
あたりには白銀の粉塵が舞い飛んだ。
その光景に暫し、目を奪われた。
目の前の人間が言っていることはなんとなく理解ができた。
しかし、言葉を紡ぐことはよく訓練された者でなければ難しい。
それこそ人間たちに連れられて、奴隷というものになって、長い時間練習をさせられて、ようやく話せるようになるのだ。
こちらの意図を読み取ったのかは分からぬが、また目の前の人間が口を開いた。
「言葉は返さなくとも大丈夫です。敵意はありません。私は、疑問を持っているのです。
生命は皆平等 等しく生まれ、等しく死に、等しく黄金樹に還るべきもの。
原初の生命から全てが起こり、さまざまな種族が生まれたその中に忌むべきものなど、どうして存在しましょうか。
——命はその全てが喜ばれ、貴ばれ、祝福されるべきなのです。
あなたのその命を、残念ながら蔑む者が居たでしょう 奪い取ろうとする者が居たでしょう」
ああ、ああ。そうだ、そうだと、紐でつながれ、引き摺り、連れ去られる母の姿を思った。
怒りで目の前が霞み、総毛立つ。
歯をギリと食い縛ると、口の端に血の味がした。
「怒り、恐れ、苦しみ、恨み——貴方達の生は、そのような感情で埋め尽くされ、閉じられるべきでは無いのです。
——喜び、安らぎ、快さ、慈しみ。それらで満たされるべきなのです」
——さあ、どうぞ此方へおいでなさい。
洞窟の中の炎の灯に照らされてきらきらと白銀の粉塵が舞う。
あぁ。綺麗だなぁ。
遠い昔に見上げた、満天の星空に包まれているようだ。
今や、怒りや恐れというものはすっかりと落ち着いていた。
目の前の人間は、彼らとは違う。
此方を嘲る事もなく、殴りかかりもしない。
白い装束に身を包み、手を広げてじっと見つめている。
灯が目の前の人間を包んでいるように見えた。
頭がぼうとした。ふらふらと吸い寄せられる。
酷く——疲れていた。
その腕の中に、包み込まれたいと願った。
次こそは、きっと正しく産まれますように。
その生はきらきらと輝き、貴ばれ、慈しみの目を向けられながら、空の下を力いっぱい駆け回れますように。
いつの間にか、目の前の人間の腕に抱かれていた。
目から熱いものが伝う。
感じたことの無い安らぎと、初めて理解してもらえた苦しさと、もう何も耐えなくていいのだという安堵と——全てが波のように押し寄せて、胸の奥から込み上げた。
産まれてはじめて、声をあげて泣いた。
——トリシャは、彼と出会った時の事を思い出していた。
ふと、彼もそうなのだろうかと思った。
混種の戦士は深く眠っていた。
トリシャからは見えなかったが——その目からは、一筋の涙が溢れていた。
トリシャは、ただそこに寄り添っていた。
お互い、もう長くはないのだろう。
トリシャは薄紫の煙に覆われた意識の中で祈った。
——もし、この黄金律が砕けたあとの治世があるのなら。誰かがその律を司る王となるのなら。
どうか全ての生命に、等しく祝福と恵みを与えて下さいますように。