赤と白の花弁

 

「爺ちゃん、帰ってくるなって言われたばかりだけどさ、僕さっきのこと——」

家に戻ると、爺ちゃんはいつものロッキング・チェアーにもたれかかってパイプをふかし、手元の紙に目を落としていた

「八つ当たりだ」

「え?」

「あれは八つ当たりだよ。親父が家を空けることが多かったのは何もあの男のせいじゃない。その前からずっとそうだったんだ。それに、あの男に出会い、入れ上げたのもおふくろが他界し、更には儂が結婚し、成人してからの事だ。儂は未成年で結婚をしたが、結婚の同意書なんかはきちんと親父に書いてもらったよ」

そうして手に持っていた紙を僕に見せた。

「そう——なんだ」

「だが、家族を捨てて他人に入れ上げるなど、全く身内の恥だと思ったよ。儂とて成人しているのならば、親父の事など放っておけば良かったのだが。

まあ嫉妬、だろうな。

儂やおふくろにはついぞ向けられる事の無かった愛情を、赤の他人に向けられるのかとな。正直、見たくも聞きたくもない事に変わりはない。歳を取らないとかいう事も俄には信じられん。お前が入れ上げているのも全く気に食わん」

「いや、別に僕はそういうわけじゃなくて」

「——だが、お前の人生だ。好きにすればいい。儂もいい加減、親父への執着なんざ手放すべきだったんだろうさ」

爺ちゃんはそういうとその紙を丁寧に畳んで大切そうにポケットへとしまい込み、また新聞を広げると僕との視線を遮った。

「あのこれ、預かってきたんだ。ひい爺ちゃんのものだって。中は見てないけど、返しておいて欲しいって」

僕はそう言うと木箱をテーブルへと置いた。
そして僕はそれ以上言葉を紡ぐ事が出来なくて、その場を離れた。爺ちゃんの気持ちは、もちろん全部じゃないけれど痛いほどよくわかった。でも、きっと僕が何を言ったところで爺ちゃんの心の穴は埋められない。

僕は少ない荷物をまとめて玄関へと向かった。
家を出る前に目の端に映った爺ちゃんは、そっとその木箱へと手を伸ばしていた。

 

◻︎◻︎◻︎

お屋敷に戻り、広間に入るとヴァレーさんの姿は既に無く、例の二人が奥のテーブルで顔を突き合わせているのが見えた。店主のお爺さんもまた姿が見えない。

「お、坊主戻ったのか。あの人なら店の爺さんと書斎で話してるよ。大方お前の曾爺さんとの思い出話でもしてるんだろ。混ざって来ても良いぞ」

「い、いや。ひい爺ちゃんの話なら間に合ってます。あの、何をそんなに額をつき合わせて唸ってるんですか?」

「じゃあ君もこっちで作戦会議、手伝ってよ」

ぐしゃぐしゃ頭の青年が経営者の男の横の椅子からひょこっと顔を出し、僕に手招きをした。

「あれ? 君も来てたんだ」

「ついさっきね。お店に戻ったら父さんから書き置きがあったから。近いうちに、って言ったけどこんなにすぐとは思わないよねえ」

僕は部屋の奥の長テーブルに向かうと、するりとその横に混ざり込んだ。

「爺さんの話、やっぱり本当か?」

「うん、僕も呪術には詳しいから。ほうぼう裏取りしてみたし魔導書の類にもあらかた目を通したけど、葦の地の竜の血や肉が不老長寿の源になる事と、その生命力を分け与える事ができるという伝承は幾つかの文献とも合致したよ。父さんは割と慎重派だけど、僕は結構固いんじゃないかと思ってる」

「あ、その話って——。皆、既に知ってたんですか?! 僕さっき聞いたばかりで」

「ああ、俺も最近だから殆ど知らないに等しいもんだがな。店の坊ちゃんはあの爺さんとずっとこの事を調べてたらしい」

「未だに信じ難いのですが、その呪いを解くのって、本当にヴァレーさんのためになるんですか? 王朝への使命はどうなるんです?」

調香師の彼が問いかけた。

「うん。不老の力は、使命や血の指を集める力とは干渉していないみたいだよ。そっちは前世からの役目だから。長寿の方は後天的な要素の可能性が高い。
ただ、そうなんだよね。その長生の呪いを解きますと言って、彼がその提案を受け入れてくれるビジョンが全然見えてこなかったんだけど——」

「この中だとあの爺さんの次に付き合いが長いのは俺だが、自分の力について後悔や、感じている負担の話なんかを聞いたのは今日が初めてだったな。ああいった弱みはあんまり見せる方じゃねえと思ったが」

「そう、彼の心にほんの少し綻びが見えていたから、今は好機なんじゃないかな。僕たちもたまたまこうして集結して来た訳だし」

「ご本人もこの長生で血の指がこんなに揃ったのは初めてと仰ってましたね」

「じゃあもうやるしかねえんじゃねえか?俺たちにあいつを救う機会が与えられた。それを行使できるのも今だけ、動機なんざそんなもんで充分だろう」

「無理矢理はだめでしょう……! きちんと説明して納得済みの上でないと」

「まあそりゃ、無理矢理するつもりはないけどよ……」

「あ、説明といえば、彼のお父上からひとつ切っ掛けを作ってもらえるようです。最終的にその呪縛の話、に踏み込むのはその後が良いんですね?」

「うん。僕も父さんから詳しい内容は教えてもらえなかったけど、そう聞いたよ。あなたたち二人がキーになるみたいだけど」

青年はそう言って、経営者の男性と調香師の彼を指さした。

「私たち?」

「何かは分からんが、まあ最後は神頼みだ。俺らの祈る神はモーグ様、だったな。ま、ヴァレーの怒りに触れておっ死んじまったら皆地獄で会おうぜ」

僕は皆の話をただ聞いていた。
そうか、みんな同じ気持ちだったんだと、少し嬉しくなってしまった。
その後また少し話し込んで、各々簡単な作戦と、役割のようなものを決めてみた。だがもうほとんどアドリブの行き当たりばったりだ。

「——どうします? 僕、呼んできましょうか」

腹を決めて、僕は皆に声を掛けた。

 

◻︎

「貴方たち、皆揃って私に話とは珍しいですね。どうされたのですか?」

ヴァレーさんが問いかける。
僕は大きく息を吸い込んでこう言った。

「あの、ヴァレーさん! 僕たちと一緒に残りの人生を歩んでくれるつもりはありませんか?」

「は? 残りの人生? 一体何の話ですか?」

予想通り、といえば予想通りの反応なのだが、ヴァレーさんが素っ頓狂な声を上げて前のめりに顔を突き出した。鳩が豆鉄砲を食ったような顔とはまさしくこの事だろう。尤も、此方からはそのぱちくりとした目しか見えてはいないのだけれども。

そう。これは題して『集団プロポーズ大作戦!』だ。いや、この標題は全員にアホかと即時却下されてしまったが。

しかし、察しの良いヴァレーさんはみるみるうちにその表情を硬くした。

「人生? 私の? …………ああ、分かりました。何かと思えば、その話ですか……。
一体誰から聞いたのかは知りませんが、貴方たち全員?」

「はい、やっぱりダメ——でしょうか……」

僕は怒られる前の子どものように、小さくなって声を絞り出した。

「ええ。お気持ちは受け取りますが、そう簡単な話では無いのですよ。モーグ様の再誕はもっと、ずっと先かもしれません。その時まで私が生きていなければ、我が君主には一体誰が仕えるというのでしょう? 御使たる私が一番に馳せ参じなければ。それこそが私に与えられた使命です。貴方がたはその私の使命を——侮辱すると云うのですか?」

ヴァレーさんを纏う雰囲気がみるみる険悪になっていくのを感じた。

「——儂からも、少し良いだろうか」

店主のお爺さんが、姿を現して声を掛けた。

「何かと思えば。これは貴方の差し金ですか?」

「そこの二人には、少し席を外してもらおうかな。少し、大人だけで話し合いでもしようかね」

「あ、分かりました——」

僕と青年は、言われるがままに広間を出る事にした。終わったら呼んでくれるらしいから、と青年が僕に耳打ちをした。

 

◻︎

「彼らを人払いして、いったい何の話があると言うのですか」

「先ほどの話を咎める前に、一つこちらの話を聞いてはくれないかな。君の身体の違和感について——具体的にはそう、その痣について、分かった事がある」

ヴァレーがぎくりとその身を竦ませた。

「ヴァレーさん、痣、というのは? そこの——?」

調香師の男が彼のお腹の辺りを指差し、尋ねる。

ヴァレーは「——ええ、そうです」と言い淀むと、観念したように深い溜息を吐いた。

「言うつもりはありませんでしたが……はぁ。仕方ありませんね。
私のこの身体の痣なのですが、実は遥か昔に、初めて対価としてこの身体を求められ、信徒と情を交わしたその日から、酷く疼くようになってしまったのです。
……浅ましい事ですが、日毎強くなるその疼きに私は耐える事が出来ず……。信徒たちと身体を繋げたその時に、ようやくその疼きが収まるのです。
今まで貴方たち二人にお伝えしていなかったのは、貴方たちを自らの慰めのために利用するつもりなどでは決して無く、あくまでも対価としてこの身を求められ、それに応じると決めていたからで……」

「あー、それでたまにすげえがっつかれてたのか?」

「ちょっと、話に水を差さないでくださいよ!」

「う……まあ……そのような事もあったかもしれませんね……」

ヴァレーはやや気まずそうに二人から顔を背けた。

「——その痣自体は生まれた時のものである事と、前世の記憶や経験から照らし合わせても聖痕という事で間違いはないだろう。しかし、儂も色々と調べては見たのだが、やはりそれはあくまでも痣であり——その疼きについては——恐らく、君自身の問題なのだろうな」

ヴァレーはまさか、という顔をすると老人に詰め寄った。

「わ、私の? それはどういう事ですか?! 私は一度信徒と身体を繋げてから、ずっと、ずっとこの痣の疼きに苛まれてきたのですよ。そんな、そんな、っ、全て私が望んだ事などでは断じて——」

「あっ、ヴァレーさん、落ち着いてください」

「おいおいっ、落ち着けって」

ヴァレーは青ざめ、ひどく狼狽していた。身体がぐらりと揺れて後退り、よろめいたところをすんでのところで二人に支えられ、ソファへと身体を預ける。

「まあまあ、話は最後までちゃんと聞くものだ。ああ、君は少し真面目すぎたのだろうな。
一番初めに、対価としてその身体を求められたと、そう言ったな、恐らくは、それが全ての引き金になってしまったのだ。前世の記憶を持ち、長生の呪縛をその身に受け、誰からも、何も与えられる事も求めず、ただただその使命に愚直に向き合ってきた。そうして使命を成す中で、自らの力によって呪い殺されてしまう者なども目の当たりにしたと」

「……ええ」

「更には、どれだけ尽くそうとも、なぜ主は何も応えないのかと疑問を持とうとも、その度にまだ献身が、信心が足りないのだと己を納得させ、その身を奮い立たせてきたのだろう?」

「……それは……事実、ですから」

老人は、深い溜息を吐いた。

「普通であればとうに狂ってしまうような状況でもずっと、信仰を拠り所にして耐えてきた。だが、人の心はそう強いものではない。
そうした罪悪感、不安感、焦燥感がその身を蝕む中で、ある日対価としてその身体を求められた時に、無意識のうちに、その行為にある種の贖罪のような意味を見出してしまったのだろう。

——恐らく、行為そのものへの依存ではなく、信徒との交わりでなければその痣の疼きは収まらなかったのではないか?」

「……」

「それも一つの呪い、だろう。知らずのうちに自らの身体に決して解けぬ強い、強い呪いを課してしまったのだ。誰も君を責められまいよ。勿論、君自身にもな。

——それに、まあ相手の扱いにもよるだろうが、生真面目な君にとって、抑圧されたものを発散できる機会自体は、そう悪いものではなかったかも知れないがな」

そう言うと老人は経営者と、調香師の二人を見遣った。

「おう、俺はありがてえと思ってたが」

「……だからやめなさいって……!」

ヴァレーには彼らの会話は耳に入っておらず、瞬きも忘れてまさか、というような顔をしていた。
しかし、今の話の意味は理解でき、あまりにもすっかりと腑に落ちた。そうしてその内容を咀嚼し、自らの身体の感覚とその思考とをゆっくりと結びつけていく。

老人はそのやり取りを聞きながら苦笑し、また口を開いた。

「自らがその身に課した強烈な自己暗示、と言えるだろうか。それは、自らの罪悪感を埋めるための贖いであり、またその代償行動でもあったのだろう。

——そして、もしも君さえ望めば、その長きにわたる孤独な生からもその身を開放したいと考えている。我々は皆、君を支えたい。君の身体を責め、苛むもの全てから解き放ちたいのだ。後は君次第ではあるのだが——。どうか、我々を信じて共に歩んではくれないだろうか?元は誰の願いだったかも、君が一番よく分かっているだろう」

「他者を信用すること、ですか」

ヴァレーは誰に言うともなく、小さく呟いた。

しばらくの沈黙が広間に流れた。
老人は精巧な歯車の腕時計をチラリと見ると「もう、彼らを戻してもよいかな。すっかり退屈してしまったかもしれないな」と言い、広間のドアへと向かっていった。

「ヴァレーさんっ! 大丈夫でしたかー?!」

ドアが開かれると、記者の少年と、人形師の青年が部屋の中へと駆け込んで来る。

「——それに今は、何を対価とせずとも、こうしてただひたむきに慕ってくれる者も居るだろう。他の者とて皆、そうではないかな」

「……そう、かもしれませんね」

ヴァレーはそう言うと、その場にいる全員の顔をゆっくりと見渡し、その目を細めた。
そして、背を正すときっぱりとした口調で話し始めたのだった。

「私のためにとの、貴方たちのお気持ちは充分に分かりました。
しかし、私は王朝を裏切るようなこと、背くような行為は絶対にしません。
そのような事、口に出すのも烏滸がましい事です。

しかし、前にもお伝えしましたが、この長生の中でこれだけ血の指が集まったのは初めての事です。そして……」

彼は少し言い淀む。

「——私は今、ようやくその信仰を試されているのかもしれません。私自身が、集めた血の指、つまり貴方たちの事を信頼できているのかどうか。

自らが信頼できぬ者を、モーグ様の面前に立たせるわけにはいきませんからね」

そう言うと、祈るように目を閉じてその手を顔の前で小さく合わせた。そして、徐に目を開けると、一同を見渡してこう言ったのだった。

「——ですが、貴方たちにも覚悟はおありですか? 私の力を等しく分け与えるといえども、どれほどの力かは見当がつきません。もしかすると、血を受け入れられない可能性もあるでしょう。

それに、きっとその身を重く取り立てられる事になるでしょうから。この私にここまでの決断をさせたのです。今更後悔をしても遅いですよ」

その言葉は、やや物騒な内容とは裏腹に、穏やかな笑みを含み、どこか振り切れたような清々しさを湛えている。

他の者も皆、決意に満ちた顔で彼のことを見つめ、その言葉を聞いていた。

「決意は——揺るがないようですね。私も、貴方たちを信じましょう。用意をして参りますから、少しお待ちいただけますか?」

そう言って彼が二階へ向かうと、皆が堰を切ったように喜び、大騒ぎとなった事は言うまでもなかった。
暫くすると、儀式の道具を持ち、彼が広間へとやって来るのが見えた。一同は先程までの喜びを抑え、手を取り合ってくるりと輪を作る。

「こうしていると、僕たちまるで円卓の騎士みたいですね」

記者の少年がおどけた風に言う。
ヴァレーは少し驚いたようにその目を見開いた。

「——フフフッ、貴方はやはり、どうにも懐かしい事を思い出させてくれますね。円卓の一員、ですか。そんな事もあったでしょうかね。私の導きはそこにはありませんでしたが。思えばあれが全ての始まり、だったのでしょうか」

「え?本当に?円卓の騎士だったの?」

「いえ、ほんの冗談ですよ。さ、どうぞ、始めましょうか」

「あ、そうだ、これ——」

彼は唐突に、ポケットに入っていた抽出液の事を思い出して取り出した。

「……! お前、タイミングってもん考えろよ」

「……そうですよ! 後でいいでしょう!」

「あ、そうか、すみません……!!」

「いえ、大丈夫ですよ。ちょうど良かった。それ、いただけますか」

ヴァレーはそう言って、彼から抽出液を受け取ると、用意をしていた水盆に数滴、その滴を垂らした。
既に漂っていた深い薔薇の香りと、加えられた甘い香りが混ざり合って部屋の中へと溶けていく。

「わ、甘くて良い匂い」

「ああ、そうでしたか。これは確かに、今の私たちにはぴったりかもしれませんね」

調香師が、その匂いを吸い込んで言う。

「ヘリオトロープ。”献身的な愛”ですね」

 

 

epilogue.

 

ヴァレーさんの長生が皆に分け与えられてからというものの、僕たちの生活がそう大きく変わる事は無かった。

あれから季節が何度か流れ、僕も少し大人になったのだろうか。

そうそう、僕はついに、念願のオカルト雑誌デビューをしたんだ。
いやこれは本当にめでたい事だ。

初版の売れ行きは……まあ聞かないでほしい。
『アルベルツス専門店』にもいくつか置かせてもらっているから、その手の趣味の人には少しずつ売れている……と信じたい。

経営者の男性は、爺ちゃんたちの小さな畑を、もんのすごい高値で買ってくれた。どうも立地がすごく良くて、前から目をつけていたらしい。
彼に聞くところによると、慎ましく生きれば一生困らないぐらいだそうだ。
僕にも分けてくれよと頼んだが、爺ちゃんに「お前には関係ないだろう、この放蕩孫め」と一蹴されてしまった。正直、爺ちゃんとの関係は目下修復中だし、僕自身はまだ全然恩を返せていない。
僕も一旗挙げられるよう、もっと精進しなければ。

そうそう、その手のことには疎いのでよく知らなかったけれど。
農業革命の先駆けとなった経営者の彼は、それは莫大な資産家になってもともと裕福そうではあったものの、今は高利貸しまでやっているらしい。
店の名前だろうか、人の名前だろうか、なんだのと名前を言っていたが、申し訳ない。またもや興味がないのさっぱり覚えていなかった。

方々を飛び回っては忙しそうにしていたが、それでも時間を見つけてはこちらに立ち寄り、手土産を持参したり、上で話し込んだり、なんやかんやとヴァレーさんに世話を焼いていってくれた。

調香師の彼はずっと香薬の探究をしているようだ。つい最近は長年の研究の末に、香りを音階で表すという理論を華々しく発表したそうなのだが、すんでのところで殆ど同じ理論を考案していた人に先を越されたらしい。店主のお爺さん曰く、学問とはとかくそう云うものなのだそうだ。

調香師の彼からはその時の愚痴を延々と聞かされる羽目になったのだが、僕には難しすぎてちんぷんかんぷんだった。
ただ、唯一覚えた言葉がある。香りを音階で表したそれは、香調(ノート)というそうだ。
彼もやはり、未だ色々とこちらには来てくれる。
まあ、たまには二人きりにしてくれと僕が追い出されてしまう事もしばしばなのだが。

経営者と調香師の二人が犬猿の仲であることに変わりはないようだけれど、二人とも丸くなったのだろうか。前よりもいがみ合わずに同じ空間に居られる時間が増えた気がする。

専門店のおふたりも、ちょくちょくお屋敷に遊びに来てくれる。
呪術や占星術の話なんかがたくさん聞けるので、僕としては、彼らに会うのが一番楽しい。

僕はこうして、ここで起きた不思議な出来事をちょっとだけ纏めることにした。
そうそう、このお屋敷の書斎を、雑誌の編集室として使わせてもらう事にしたんだ。ひい爺ちゃんのネタも大量にあるし、最高の環境だ。

今度は決して何処にも落とさないように、この手記をお屋敷の本棚にこっそり混ぜるくらいはお目溢ししてもらえるだろうか。

そう、そして肝心のヴァレーさんについて。

今でもヴァレーさんは王朝への、そして彼の君主への信心を忘れてはいない。毎朝祭壇に祈りを捧げて、王朝への誓いの言葉を欠かさない。

王朝の開闢に立ち会える可能性は、もちろん全くないわけじゃない。
もし仮に、ヴァレーさんや僕たちがこの生を終えるまでの間に、彼の言う君主が再誕して、”モーグウィン王朝”が開闢したならば。

僕たち血の指は喜んで馳せ参じよう。
別に、それがどんな王朝だって構わない。
ここだけの話、ヴァレーさんには口が裂けても言えないけど——。

「——おや、今日も熱心ですね。何を書いていらっしゃるのですか?」

「ひゃああ! ヴァレーさん!!? まだダメですよ!! 出来上がったら一番にお見せしますから!!」

「そうですか。別に書きかけでも構いませんよ」

ヴァレーさんはそう言って、ひょこっと僕の手元を覗き込もうとした。

「ダメですダメです! あっちに行っててください!!」

「ほう。貴方も言うようになりましたね?まあ良いでしょう。コーヒーを淹れておきますから、お暇でしたら息抜きにどうぞ。別に、無理強いはしませんが」

「行きます! 絶対に行きまーす!」

そう言うと、ヴァレーさんは部屋を出ていってくれた。

ふう。危なかった。

「ええと、ちょっと書き足してと。こうでいいかな」

——僕たち「血の指」は、喜んで馳せ参じよう。
別に、それがどんな王朝だって構わない。
ここだけの話、彼の君主を引き合いに出すなんて絶っっ対に怒られるので、ヴァレーさんには口が裂けても言えないけど——。

僕たちは皆、モーグ様のためじゃなく、ヴァレーさんのために、この身を捧げると決めたのだから。

 

 

◻︎◻︎◻︎

 

しゅわしゅわと、いい香りの湯気が立ち上った。カップを二つ手に取り、出来たばかりのコーヒーを淹れていく。

前世の記憶の中であろうと、今世であろうとも。私はずっと、その役割や使命という妄執に取り憑かれていた気がする。
何も成せない自分への戒めだったのだろう。この身体も、過去には随分と粗末に扱ってきた。

血の力が等しく彼らに分け与えられてからというものの、青ざめていた指の色は薄くなり、今や周りの肌の色とほとんど馴染んで傍目には分からなくなっていた。痣も疼きを止め、今やこの身を責め、苛むこともない。

「まだ——来ませんね」

ソファへと腰掛け、淹れたばかりのコーヒーを口にする。
深い、薔薇の香りが身体中を満たしていった。

実感はないものの、自らの寿命は分かたれ、その長生は半ば失われてしまったようだ。
勿論自らが選んだことで後悔はしていない。

それに、身体は今までに感じた事のない解放感を味わっていた。肩の荷が降りた、とでもいうのだろうか。全てをこの身に背負っていた時の、あの重苦しい張り詰めた日々の事が、まるで別世界の出来事のように感じられた。

出会った時は農夫だった、今や資産家となった彼は「どこへなりとも連れ回してやるから趣味の一つでも見つけろ」と言ってきた。

出会った時から調香師一筋だった彼は「何時でも何処にいても、困っていてもいなくてもすぐに駆けつけますよ」と早口で言ってくれた。

出会った時は私の良き指導者であった教授である彼からは、「決して使命のために生きる事が悪いのではなく、自分を犠牲にしてまで尽くす事がいけないのだ」と叱られた。

人形師の彼も、今は編集長となったのだったか、元記者の彼も。皆この身を案じ、幸せを願ってくれている。
まだ素直にできるかどうかは分からないけれど、勧められたように、自らのために何かをするというのも考えてみようか。

どうしてずっと、気づかなかったのだろう。それとも、目を背け続けていただけだったのだろうか。彼らはいつも、無償で愛を与えてくれていたのに。見返りが必要だと、いつも先回りしていたのは私の方だった。

開け放たれた窓の外から、気持ちのいい風が吹き込む。どこからともなく、真紅と純白の薔薇の花びらがクルクルと舞って、テーブルの上へふわりと落とされた。

——ああ、そうか。

赤と白の花びらを指で摘んで目の前へと翳す。

「尽くして、重く取り立てられるのをいつかいつかと待ち焦がれるのではなく、
愛したい者をただ愛する——。それだけで充分だったのかもしれませんね」

二階からバタバタと階段を降りてくる音が聞こえる。

同時に、屋敷のベルが鳴る。

階段を降りる音が、そのまま玄関に向かい——。

「ウフフフッ、また、騒がしくなりそうですね」

そうして、屋敷の主人として彼らを出迎えるために、残りのコーヒーを一息に飲み干したのだった。

 

 

END