「……これで五人目か」
静まり返ったホールに響く声。
闇に溶ける漆黒の装束を身に纏う男が、暗がりから浮かび上がるように姿を現した。彼は足元に冷ややかな眼差しを向けると、地面に倒れ伏す影の側へと滑り寄る。肩ほどまでにふわりと広がる特異な形状のケープを目深に被る顔は暗がりに沈み、隠された表情を傍から伺い知ることは出来ない。
「哀れにも、これが導きを外れた裏切り者の末路だ。もはや祝福を受ける事はなく、永久に葬り去られる」
男はそう呟くと、足元に横たわる者の肩を掴み、力を込めてぐるりとひっくり返した。顔を天に向き直らされたそれは、異様なまでに赤く染まった目を見開いたまま、絶命していた。
「ひっ——」
驚きに息を詰まらせたのは、先ほどとは別の男だ。彼もまた漆黒のケープを纏い、闇に身を溶かしている。
「……これが我々の追っている赤目ですか」
男の声はまだ若い。彼は横たわる遺体の奇怪な様相に狼狽したのか、震える声を振り絞った。
「ああ、そうだ。十中八九、あれも出てくるんだろうな」
若い男の背後から足音が近づき、また別の声が飛ぶ。
足音を隠す様子もなく現れたのは、顔に傷のある大柄な男だった。
男の額から目元を横切る切創は醜く盛り上がり、癒えぬ傷跡の引き攣れた皮膚が、見る者に生々しく痛みを訴えかけている。だが、当の本人はどこ吹く風と、意に介さぬ様子で傷跡を無造作に掻き毟っていた。
数瞬のうちに、同じ黒衣を身に纏う三人の男たちが、赤目と呼ばれた遺体の周りをぐるりと取り囲んだ。
顔に傷のある男が遺体の側へとしゃがみ込み、懐を探る。
「ほら、これだ」
彼は何やら取り出すと、若い男へと投げ渡した。
「っ、一体何——」
若い男は疑いようもなく、放られた物体を空中で捉える。だが、開いた手に目を向けるや、聖堂の中に叫び声が響き渡った。
「う、わぁぁっ!」
何かを認識した途端、彼はほぼ反射的に手からそれを弾き落とした。それはまるで、触れてはいけない穢れに触れてしまったかのように。顔に傷のある男は予想通りの反応に満足したのか、くっくっと楽しそうに喉を鳴らす。
「あまりからかってやるな」
初めに遺体に手を掛けた男が、低い声でたしなめた。その口調から、どうやら彼はこの一行の長であるらしい。
「こんなもんで腰を抜かすなら暗部の名折れだ。向いてねえからさっさとやめちまえ」
男は気にする様子もなく、なおも若い男を嘲るような姿勢を見せた。
「別に腰を抜かしたわけじゃ……」
若い男は不服そうに反論すると、先ほど取り落とした物を拾い上げる。だが、それに触れた瞬間、彼の背にぞわりと怖気が走った。彼は眉を顰めながら再度、その物体に目を向けた。
若い男が拾い上げたのは指、それも無造作に切り落とされ、赤黒く爛れた人間の指だった。
「う、なんだか湿っているような……」
「扱いには気を付けろよ。それが何なのか、まだ分かっていないんだからな」
半ば脅すような口調の言葉を耳に入れながら、若い男は再び赤目の骸へと目を向けた。遺体の指は十指全てが揃っている。という事は、この指は誰か別の人間のものだったのだろうか。爛れた血濡れの指は鉤のようにくきりと曲げられ、死後の硬直を残したままであるかのように、その形状を未だ変える事なく保っていた。
「しかし、これは我々の……」
若い男は言い淀むと、自らの懐からある物を取り出した。
現れたのは同じように鉤型に曲げられ、僅かに黄金の残滓を湛えてとろりと光る死蝋の指。それは、黒衣の男たちがこの地で見出した、『鉤指』と呼ぶ聖具であった。
彼らの鉤指と、赤目の遺体が所持していた赤黒く爛れた指。見た目の禍々しさを除けば、両者は瓜二つだ。あたかも彼等の聖具を模したかのような血濡れの指は妖しく光り、切り落とされたばかりのように、未だ湿り気を帯びていた。
「ああ、見る度に反吐が出る。一体誰が、何の目的で俺たちに盾突いていやがるんだ?」
顔に傷のある男が、苛立ちを隠せない様子で言う。
「この趣味の悪い呪具から察するに、大方呪術絡みなんだろう。呪術師や咎人、奴らは二本指様に背く忌まわしき徒だ」
「……導きを外れた褪せ人は我々を恐れ、身を隠して全ての暗闇に怯えることとなる。円卓の脅威にはなり得なかった。だが、今はどうだ? 血指を携えた赤目の暴徒はこれで五人目。全て討ち取りはしているが、単独で円卓に乗り込んでくるなど、正気の沙汰ではない」
長である男もそれに応じるよう、苦々しげに言葉を返した。
「正気なんざ、もうこの地の誰にも残っていやしねえ。褪せ人が狭間の地に呼び寄せられてから、一体どれくらいの時が経った? 円卓も、全盛期はとうに過ぎたのさ。今や行き場を失くした哀れな戦士どもの避難所だ。そして未だ導きに従い、王となれた者はいない」
「……いずれにせよ、我らの使命はひとつ。裏切り者を一人残らず始末する事だ。お前たち、油断はするなよ」
若い男は青ざめたまま、二人の会話を黙って聞いていた。
「チッ、全く——いつ見ても気味の悪い目だ」
顔に傷のある男は、かつて褪せ人だった骸を見下ろすと、吐き捨てるように言い放つ。
横たわり、見開かれたままの赤い瞳には、居並ぶ男達の姿が虚ろに映し出されていた。
◆
狭間の外、二本指の信仰を伝える教会で使命を与えられ、密使として生きた者たちは、死を前にしても信仰を失うことはなかった。
狭間の地に辿り着いたその時に、彼らは自らが敬虔な殉教者であるが故に黄金樹のもとに見えたのだと、神に祈りが通じたのだと——リムグレイブの小高い丘の上で、その身体を歓喜に打ち震わせ、涙を流した。
彼らは二本指の言に触れ、大いなる意志に通じたことこそが現世で訪れた肉体の死の本懐であったのだと信じてやまなかった。自らの導きはここにありと、狭間の地でその信仰を更に深く、強固にした。
だが、それが儚い幻想であったのだと、彼らはその事実を哀れにも知ることとなる。
狭間の地に呼び寄せられたのは、何も彼らの信心の故ではなかった。彼らは戦士として迎えられたのだ。
——王になれ。ただその目的、ひとつのために。
しかし、その使命はあまりにも強大かつ無謀で、常人には到底、成し得るものではなかった。
黄金の祝福を受けた事による不死性の意図。それは初めこそ、右も左も分からぬ彼らに無敵の万能感と選ばれし者としての活力を与えたものの、幾度となく訪れる凄惨な意識の断絶と繰り返される肉体の再生は酸鼻を極め、いつしか死を望むとも許されぬ呪いとなり、褪せ人たちの精神は極限まで磨り潰された。
それは密使たちとて例外ではなかった。彼らは戦士と比べて戦闘に秀でている訳ではない。
それでもどうにか導きに報いるためにと、彼らは懸命に自らを奮い立たせた。
永遠にも等しい試行回数の中で自らの身体のほぼ全てが意識下のうちに切り離され、串刺しにされ、砕かれ、焼かれ、或いは毒や腐敗によってどろどろと組織ごと溶け落ちていく様を克明に、そして鮮烈に脳が焼き付けようとも、密使たちは二本指の言と黄金の導きに、その献身を以て必死に応えようとした。
凄惨な不死性にも折れることなき精神力だけであるならば、密使たちは健気にも信心を拠り所に、生半可な戦士達よりもずっと、圧倒的な我慢強さを見せた。
しかし、王になる道のりはあまりにも険しかった。
信仰に裏打ちされた密使たちの不屈の目の光でさえも、いつしか澱み、濁り、惨憺たる闇の中へと沈んでいく。精神は蝕まれ、正気を失った彼らの意識は底無しの狂気へと飲み込まれた。
〝もはや王となる見込みなし〟と判じられた者に待つのは祝福の剥奪。つまり、それは大いなる意志から見放される事と同義である。密使たちは、何よりもそれを恐れた。
狭間の地に辿り着いた当初の高揚はすっかりと冷え込み、彼らは恐れを隠すように祈りを捧げた。だが祝福の剥奪は信仰の有無に依らず、王となる見込みの無い者に等しく訪れる。
彼らの信ずる神は、ここに於いては何よりも誠実で、平等だった。
ついに黄金の光を奪われ導きも聞こえず、祝福に見放された者たちは、ただ一度の死を恐れて行き場を失くし、円卓に逃れることの出来た者たちは不戦の誓いが立てられたその場所を、唯一の拠り所とした。
死して狭間の地に流れ着いた、クレプスという名の密使も辿る道は同じだった。
その瞳から黄金の祝福が奪われた時、彼は自らの不甲斐なさを悔い、黄金樹に向けて慟哭した。
だが、導きに見放されても彼は正気を失うことなく、信仰に縋り続けた。
導きの光は消え、二度と灯が戻る事はない。何も見えず、何も聞こえない暗闇と絶望の中で、もはや与えられるものがなくとも。自らはまだ生きて、瞳は変わらずに信仰を写し、両の腕は祈りを捧げることが出来る。生かされている理由、そしてその目的は、今も、そしてこれからも——大いなる意志と、その御使たる二本指の敬虔な僕であり続ける事だけなのだと。
そうして彼は、自らに新たな役割を課した。黄金の導きはいずれ誰かが王となり、エルデンリングを掲げることを望んでいる。王の器たり得なかった自らは、もはや役目を果たすことは出来ない。しかし、その道に仇成す者どもを始末することはできる。
暗闇の中で彼はついに、天から降りる一筋の糸を掴んだのだ。信仰は、再び彼をこの地に繋ぎ止めた。
彼は円卓を拠点とし、志を同じくする者を集め始めた。
集められた信徒たちは二本指の影となり、陰惨な使命にこそ光を見出し、それに依存した。
いつしか彼らは、自らの事を円卓の〝暗部〟と呼んだ。
†
「……お前たちが今、この場に居るのは導きを外れた褪せ人を始末するためだ。先ずは、それを理解しろ」
密使の装束を身に纏った男たちが居並ぶ中、顔に傷のある男が彼らの間を歩きながら鋭い声を飛ばす。
集まった男たちは緊張した面持ちで、彼の話に聞き入っていた。
ここは円卓の地下に匿された聖堂。暗部はその献身により、円卓の守護を託されるまでになっていた。
彼らが訓練を行い、円卓内を秘密裏に移動することが出来るのは、蜘蛛の巣のように縦横無尽に張り巡らされた、この地下聖堂から繋がる抜け道の故だ。
「そこのお前、暗部に志願したのは何故だ? 半端な決意は死期を早めるだけだぞ」
男は、足を止め、目の前の志願者に向けて問いかけた。
「それは……師団長に憧れて。私もゆくゆくは、彼のようになりたいのです」
「クレプス様のように?」
「はい。暗部の起こりとなったあの方の活躍に私は深く感銘を受け——っ、うわっ!?」
一瞬の隙をついて、話を続けていた男の喉元へと直剣が突き付けられた。
「こう見えて、俺が裏切り者ならばどうする? まだ、その下らないお喋りを続けるか。ここに来たからには、一時たりとも気を抜くな。緊張感の欠如は即座に死と直結する」
志願者の顔からさっと血の気が引いていく。彼はあえぐ様に、小さく首を縦に振った。
「ふん、その鈍さでは小鬼の奇襲すら避けられずに死ぬだろうな。ただ同盟を組みたいだけの腑抜けどもに用はない。理想を語る前に、先ずは成果だ。俺たちは全員、既に一度〝失敗〟している」
「——何事だ?」
聖堂内の騒ぎを聞きつけ、渦中のクレプスその人が音もなく姿を現した。
「ああ、この志願者は何か勘違いをしているようで。ここにきた目的が〝憧れ〟などと申すもので」
導きの灯を失って久しい濁った光彩が、居並ぶ男たちをゆっくりと見渡した。
「かつての同志たる者よ。祝福なき我らには、今やこうした生き方しか残されてはいない。二本指様に背く裏切者を、闇に乗じて始末する。それこそが円卓の暗部としての、我らの存在理由だ。憧れや目標、そんなものがここで一体何の役に立つ? 我々は、いずれ王となる褪せ人のために裏切り者を始末し続けなければならない。それが出来ぬのなら、我らに価値は無い」
語られる言葉に、聖堂内は水を打ったように鎮まり返った。顔に傷のある男は、それ見たことかと言わんばかりの顔を向けると、再び声を張り上げる。
「ここが同士の集いの場だとでも思っていたならまだ間に合う。直ちに去れ」
志願者たちのどよめきが大きくなる中、クレプスは彼らを一瞥もせず、現れた時と同じように音もなく地下聖堂から姿を消した。
彼が再び姿を現したのは二本指の間。彼は蠢く大きな二本指の前へ膝を折ると、祈りを捧げるために深く頭を垂れた。
◆
黄金——それは特別な色。まばゆく光るその色が、神を現す唯一の色なのだと教会では教えられた。その色の元、すなわち無垢金こそが聖樹の礎であり、真理であるのだと。
黒——それは何ものにも染まらない決意の色。神に仕える覚悟を表した装束は漆黒に染め上げられ、如何なる誘いにも惑わされない厳格かつ不屈の精神を体現し、象徴と成す。その装束を身に纏う密使たちは、そう教え込まれて生きてきた。
黄金の葉がひらめき、ふわりと足元に舞い落ちる。
それを合図に、ヒュンと空を斬る音が鳴る。短く発せられた音の先、放たれたボルトは前方へと勢いよく飛び出し、的となる木の幹に矢じりの先端をがっちりと食い込ませた。
ボルトを引き絞る音と、射出音が一定のリズムで繰り返される。
一本、また一本と、クロスボウのボルトが的となる木の幹へと撃ち込まれていく。
「……三発目、狙いが毎回右に少しずれる。直さないと」
若い男は手を止めると、小さく呟いた。暗部に志願をした彼は、日々訓練に明け暮れていた。
今となっては、傷のある男が繰り返し言っていた事がよく分かった。あれから何人も、噂を聞き付けた密使たち——彼らもまた、導きに見放された哀れな仔羊だ——が暗部に身を置いたが、いずれも永遠の死の元に向かうのを早めただけとなった。
暗部に身を置く事を許された密使らには、裏切り者を狩る術として秘術が伝えられた。いずれも闇に乗じる、暗殺に長けた技である。だが、いくら彼らの技が暗殺に秀でたものであったとしても、元戦士のような屈強な褪せ人と真っ向から対峙してしまっては勝ち目はない。
勝機は一瞬。それは既に、何度も言い聞かされてきた言葉。少しの判断ミスが、この地では直ちに死と直結する。
永遠の死と、常に隣り合わせの恐怖に打ち勝つ精神力だけが、彼らの命運を分けるのだ。
若い男が訓練場としてよく訪れているこの場所は教会の廃墟。元は、美しい巡礼の地だったのだろう。
黄金の首都にほど近い、アルター高原に位置するここは比較的穏やかで、訪れる者も殆ど居ない。
しかし、この土地もあまり深入りはするべきではない。そこかしこに戦禍の爪痕が残されている上に、安全な場所を少しでも逸れてしまえば、死の呪いを纏う恐ろしい異形や、未だ王都を護り続ける抜け殻の残兵らが襲い掛かってくる。
エルデンリングが砕けて後、デミゴッド達による苛烈な戦いは狭間の地の大半を焦土に変え、様々な建造物は無惨にも打ち壊されたという。
この場所のように、神聖な教会といえども例外にはならなかったようだ。
そうした事に思いを巡らせながら、彼は木の幹に向けてクロスボウを引き続けていた。
「今日も精が出ますね」
「……」
突如訪れた気配と人の声に、若い男は意識だけを向ける。だが、声の主に応じることはなく、一息をつくと手を止めて額の汗を拭った。高原を吹き抜ける風が、火照った体の熱を心地よく奪っていく。
若い男の視界の端、やや離れた場所に、先ほどの声の主は姿を現していた。彼は半壊した石造りの壁にゆったりと、身体を預けている。それは白面を被り、薄汚れた白い装束を身に纏った男だった。声からおおよその年齢や性別は判別できたが、それ以外の特徴は分からない。
一つ確かなことは、彼が医師だということだった。
その姿が狭間の外、二本指信仰に端を発する医療教会に属する医師たちに特有のものであることを、元密使である彼は知っていた。しかし、円卓で書物を漁り、狭間の地について調べる中で——元々はこの地で従軍した医師たちの姿が、外の地にも伝えられていたのだと知った。
近頃、白面の男は度々ここを訪れる。暗部の技を明かすような真似はしていないものの、中々落ち着いて訓練が出来ない。ここは人気もなく、良い場所だったのだが。また、別の候補となる場所を探さなければならないのだろうか。
若い男はそう思うと、先ほどの男へと短い視線を向けた。
見知った身なり、ましてや同じ二本指の信徒だと知れても、円卓の暗部として生きる今となっては他者への警戒を怠る事はない。
どこに、何の危険が潜んでいるともしれない。他人との接触は、必要最小限で然るべきなのだ。
「……ツっ……!」
訓練時の集中が完全に切れてしまった身体は、徐々に正常な感覚を取り戻し始めていた。
それと同時に、刺すような痛みが肌を伝う。このところ、クロスボウという慣れない得物を扱い続けていたせいだろう。手には複数の肉刺ができ、破れた水疱から剥き出しとなった皮膚が、神経にジクジクと痛みを訴えかけていた。
「おや、どこか痛むのですか?」
白面の男から、軽やかな声が飛ぶ。この状況をやや楽しむようにも取れる彼の口調が些か鼻につく。彼の話しぶりは言うなれば慇懃さに更に芝居をかけたようなものではあったのだが、こちらへの敵意が感じられるというものではなかった。
「……お構いなく、この程度、訓練にはつきものです」
壁から身を離し、近づくような素振りを見せた白面の男を牽制するよう、若い密使は言葉を放った。
——敵意が感じられなくとも、未だ信用には値しない。
円卓で戦争の資料を読み漁った際に見た記述には、医師らについてこうあった。
白面の従軍医師らは戦場において暗躍した、慈悲を与える介錯者なのだと。記録は殆ど残されてはおらず、得られる情報も僅かなものではあったのだが、『介錯者』という言葉はどうにも胸に引っ掛かりを残していた。
目の前の男は、いつからこの地で過ごしているのだろう。自らと同じように、狭間の外から流れ着いたのか。それともこの地で従軍し、戦場を駆け巡りながら、死を待つだけの哀れな兵士の息の根を止めてきたのだろうか。
未だ警戒を怠ることはなかったが、好奇心はほんの僅かに、目の前の医師の素性に抱く興味を燻ぶらせた。
——こうして距離を保ったまま、いくらか言葉を交わすぐらいは問題ないだろうか。
そう思案していると、また彼が口を開いた。
「日々、結構なことですね。力を求めるのは、この地ではとても大切なことですから」
柔和な笑みを湛えた目元。そして薄笑みを浮かべた白面が、こちらを見据える。
「……あなたは何故、いつもここに?」
「おや。教会を訪れるのに、理由が必要ですか?」
「あ、いえ。そういう訳では——」
「私はただの巡礼者です。信ずるものに祈りを捧げ、日々の糧を得る。……その装束、貴方もまた、二本指の敬虔な信徒なのでしょう。導きなきものは哀れだと、そうは思いませんか」
その言葉に、自らの傷跡を抉るような事実を突きつけられて、喉の奥がつかえる感覚がした。
「——敬虔な貴方なら、きっとお分かりになりますよね」
若い男は返答に窮してしまったが、白面の彼はさして気に留める様子もなく立ち上がり、身を翻して背を向けた。
「それでは。いずれ、また」
優美な口調にやや不釣り合いの、ざらりと引っ掛かりのある低音が耳に障る。
一見、戦闘に長けている様子ではないが、かつての従軍医師、戦場の介錯者の名は伊達ではないのだろう。
クロスボウを所持している自らにやすやすと背を向けるなどと思ったが、その後ろ姿を狙い撃つ事は出来そうになかった。ボルトを撃ち込んだその瞬間、白い布と白面だけを残してふわりと消えてしまうような、そんな錯覚が脳裏によぎる。
その瞬間、若い男は白面の医師を、どこかで見たことがあるように感じた。
朧げな記憶と結びついた感覚はあまりにも遠く、辿ろうとしても、霞がかった向こうにすっかりと溶けて消えてしまう。
それは、鮮烈な夢から覚めた直後に似ていた。思い出したいと手を伸ばしてみても、記憶に焦点を合わせようとしたその瞬間から、脆くも記憶が剥がれ落ちていく、あの感覚に。
否、恐らくは思い違いなのだろう。それに、もし出会った事のある人物に偶然再会したとしても、余計な情は寄せるべきではない。幾度かこの地で顔を合わせた。今はただ、それだけのことだ。
それに、次にまた会える気がしていたかと言われれば、そうは思わなかった。死は突然に訪れる。こうして何度も互いに顔を合わせ続けられるほど、この地は生易しくはない。あの医師もまた、行き場を失くした哀れな巡礼者なのだ。
白——。ふと、彼の仮面と装束に意識が向く。それは清廉潔白、衛生と清潔の象徴。その色は、かつて彼ら医師の職責を現す色であったはずだ。
今や血と汚泥で薄汚れた装束から衛生観念は皆無と見えたが、それは彼の責ではない。
その装束が白であったがために泥に塗れ、血汚れた姿から、いっそうこの地での苦難が透けて見えてしまっているのだろう。
若い男は、立ち去る背に向けて小さく祈った。
かの医師の行く末にも、我ら二本指の加護があらんことをと。