慈悲か慈愛か(短編書きかけ)

 

戦火の激しいこの地では、休む場所もままならない。腐りゆく大地と灼けた空。気を抜けば人の背丈の数倍はあろうかという獰猛な獣が辺りを行き交い動く者へと飛びかかる。

兵たちは自らの領地を守らんと、迫り来る侵略者や獣に立ち向かっていた。数多の死、そして大地そのものが腐れては生を失い、乾涸びた風が吹き荒れる。身体に矢を受け刃を受け、戦いに敗れた者どもは力無く地に伏せる。未だ死にきれぬ者は、自らの命がどのように尽きるのか——獣に屠られるか、朱の大地と共に腐れ落ちるのか。意識だけが克明なまま、迫る想像に苛まれ続けていた。

そのひび割れた大地を駆ける、白い影があった。影は敗れた者どもに近づくと短剣を振り上げ、躊躇わずに息の根を止めてみせた。それは敵が味方かの区別など無く、只死にきれぬ者の首元へと致命の一撃を突き立てる。影は白布をたなびかせてはあちらこちらへ移ろって、瀕死の兵士に覆い被さり生を奪っていく。

影は次第に崖下の、小さな洞窟へと吸い込まれては消えた。

洞窟の中で、白い影はふうと息をついた。それは確かに人であり、だが無機質な白い面を付けていた。石膏の白面を被り、頭からつま先までを装束で覆い隠し、肌をも見せぬその姿。
唯一覗く瞳の縁、その睫毛は白面に似合わせたかのように白く、透き通っていた。
手元には、今日だけで片手では足りぬほどの命を奪い去った短剣が握り込まれていた。

それは両刃を持たぬ尖突剣。その名を、「慈悲の短剣」という。

数多の命を吸い尽くし、なお冠される慈悲の銘——。

戦場を駆ける白面とは、この彼だけではなかった。戦場に於ける「慈悲」の体現者たる白面は、かつて都で活躍した医師たちである。彼らはその手で人を癒し、救う事を生業としていた。そして戦が始まり、軍医として召された彼らは味方の兵を癒し、鼓舞した。だが戦が激しさを増し、消耗戦の一途を辿るにつれ、もはや彼ら医師にできる事などなく。従軍していた彼らは物資の尽きる中——ついに一つの役割、陰惨な使命を与えられる。戦時に於ける慈悲とは即ち、癒しに非ず。決して救えぬ苦しみならば、医の道に通じた手によって、一息で終わらせるべきであろうと。

その象徴として与えられた、尖突剣と死の白面。彼らは自らの癒しの手を殺戮の手段へと変え、数え切れぬほどの兵の血でそれを濡らした。
 

洞窟に入った白面は辺りを見渡した。音を立てぬよう、彼は内部を覗き見る。暗がりに目を凝らすと、物陰に動きが見えた。背に緊張が走り、気を引き締める。今や戦場の介錯者との異名を持つが、元はただの医師。急所を狙い、確実な一撃で命を奪えども、戦闘能力に長けている訳ではない。戦火をうまく生き抜くには、様々な気配に敏感にならざるを得ぬ。この地では、一つの判断ミスが即座に死と直結するのだ。

白面は息を押し殺すと、そっと慈悲の短剣に手を掛けた。

「うぅ……」

響くのは弱々しく呻く声。

——やはり、誰かいる。

消え入りそうなそれは、声の主が相当に消耗している事を示していた。暗がりにも幾分慣れ、洞窟の中の様子は朧げながらも捉える事ができる。白面は再度、岩陰へと目を凝らした。そこに倒れていたのは、やはり兵士だった。

白面は思わず、安堵の溜息を吐いた。どうやらこの洞窟は、亜人や混種たちの棲家ではないようだ。彼らのテリトリーであるならば、目の前の負傷した兵士などは一刻も立たぬうちに八つ裂きにされてしまっていただろう。亜人や混種らの棲家でない事は、休息を求めてこの洞窟へと流れ着いた彼にとっても朗報であった。いずれにせよ、この哀れな兵は死ぬ運命。敗残兵の最期の願いは、いかに苦痛なく死ぬ事が出来るかに掛けられている。

白面は、こうも思っていた。——否、思い込もうとしていた。『戦場の介錯者』に慈悲を与えられるのであれば、そうした意味で彼らはむしろ、幸運であるのだろうと。白面は一息を吸い込むと、岩陰にもたれる兵士へと音もなく近づいた。そして、首元へと狙いを定める。

あと数瞬で目的が達せられた、まさにその時——。

『ドォォォォォン!!!』

洞窟の外に轟音が響き渡った。
間近に戦車の砲撃が着弾したのだ。グラグラと揺れる大地、吹き荒れる熱波と砂塵のただならぬ様相に振り返ると、大型の獣が多数の兵士を蹴散らして突き進む姿が見えた。洞窟の外の光景は、一瞬で恐ろしい戦場へと変えられていた。

「う、うわぁぁぁぁっ! なんだ?! 戦場の介錯者じゃねえか?! クソっ、まだ死ねるかよ! おーい!! ここだあ! 助けてくれええ!!」

その声に、外に気を取られてしまった白面ははっとする。洞窟には、先ほどの兵士の叫び声が響いていた。彼の前におめおめと姿を見せてしまった今、それは至極当然の事だった。交戦中の外にまで、この兵士の叫び声が届く事は無いだろう。だが、状況としてはかなり拙い。現状は外の混乱が勝っているが、このままだと逃げ場をなくした兵たちがこの場所へと雪崩れ込んで来る。今はただ、速やかに目の前の兵に止めを差して洞窟の奥に身を潜め、この喧騒をやり過ごすしか道はないだろう。数瞬もせぬうちに判断を下した白面の頭は、再び彼の身体を冷徹な殺戮機械へと変えていた。

だが、身体を動かした途端、ひどい耳鳴りが彼の頭を襲った。それは先程の轟音と衝撃の余波。鼓膜が一時的にダメージを受けてしまったのだ。白面は小さく舌打ちをすると耳鳴りとぐらつく頭に手を当てて、喚き散らしている兵士へと近づいた。兵士は足が効かないようで、立ち上がることすらままならないと見える。このまま慈悲を与えるのは容易いだろう。聴覚の大半が奪われている中、手を振り上げ、兵士の首元に短剣を突き立てようとする。目的が達せられようとした、まさにその時——。

何者かが、その手から『慈悲の短剣』を弾き飛ばしたのだ。

「な……ッ!?」

一体、今何が起きた? この兵にはまだ戦える力が残っていたのか? 白面は焦る頭で逡巡した。そして再び短剣を手に取ろうと、弾き飛ばされた方に目を向ける。その間、僅かに一秒。しかし、銀の短剣を手にしようと身を屈めた途端、横っ面にまたもや鈍い衝撃が走った。重い蹴りが入れられたのだ。

「う、ぐ……っ!」

衝撃に蹌踉めく身体。ピシリと、白面に亀裂が走る音がした。頭蓋の中で脳がぐらぐらと揺れる。酷い目眩に、身体の平衡を保つ事ができない——。どうにか意識を飛ばす事は免れたが、霞む目で相手を捉えようとするも、面の縁に遮られた視野は完全ではない。未だ敵の姿を捉えられないままにバランスを崩した彼は、どさりと地に膝をついた。

——まずい、どうにか早く、短剣を手にしなければ。

歪む視界と頭の中で、それだけが明確な答えだった。
目の端にはどうにか銀の柄を捉えている。
無我夢中に手を伸ばす。
手袋の先端、指先の感触が柄に触れる——。

だが、その指先は無情にもぐしゃりと踏み詰られた。

「ッぅ……!」

骨の軋む音、そして鋭い痛みが神経を伝う。喉奥から、堪えかねて悲痛な声が漏れる。先程の兵士は、まだ目の前で呻いているというのに——。

歪む視界と軽い脳震盪を起こしたまま、白面は襲撃者に地面へと押さえ付けられた。

「おい。これはまた珍客だな。『戦場の介錯者』も、こうして動きを止められちまったら何も出来ねえだろ」

「——全く、助かったよ相棒。危うく死神に首元ぶっ刺される所だった」

「ああ? 元はと言えば、お前がヘマするから悪いんじゃねえか。洞窟の奥から水汲んで戻ってきたら二度目のピンチに遭遇とはな。運が悪いにも程がある。全く、洒落にならねえぜ」

「こればっかりは俺のせいじゃねえ。ただここで待ってただけなんだからよ」

白面は、そこでようやく気がついた。この弱った兵士は洞窟の外に向けて助けを求めていたのではない。洞窟の内部に居た仲間を呼んでいたのだ。
押さえ付けられた下で身を捩るが、相手はかなりの大男のようだ。ピクリとも動かぬ身体は、多少の抵抗による形勢の逆転など望むべくもない事を示していた。

「……っ、はぁっ……! この……離しなさい!」

「なんだ、喋れるんだな。やっぱり人間なのか。お前ら気味が悪いからよ、中身は亡者か幽鬼かとすら思ってたぜ」

「その声、男か? 離しなさい! だとよ。はは、随分とお上品な言い草じゃねえか」

このまま、無事に解放される望みは薄いだろう。だが、兵士らは『戦場の介錯者』が人である事に些か興味を示したようにも見える。ならば、このまま対話をすれば取り入る隙が見つかるだろうか——?

どちらにしても道はない。一か八か、白面は兵士に交渉を持ち掛ける事にした。

「……っ、このまま見逃して頂ければ、直ちにこの地を離れます。そして、二度と貴方がたの軍勢に手出しはしないと約束しましょう……!」

「ああ? 死神がこの後に及んで命乞いか? 笑っちまうぜ。なあ相棒、俺はそいつに殺されかけたんだ。さっさと殺しちまえよ。俺は足の怪我で動けねえ。一刻も早く、拠点に戻れりゃあそれでいい」

「……ふうん。でもよ、なかなか状態の良い捕虜ってのも珍しいじゃねえか。どっかが削げてたりもげてたり、それに毒や腐敗。この場所にはもう、ただ死ぬのを待つだけの連中しかいやがらねえ。ま、それはこいつがよく知っているだろうがな。戦場の介錯者なんざ、お目に掛かるのも珍しい。だが、こいつは生け捕りときた。どうだ? 一度上官に引き渡してみるか? 俺たちの憂さ晴らし程度にはなるかもしれねえぞ」

「憂さ晴らし? ああ、それも良いな。磔にでもして、賭けの的にするか」

「——おい、聞こえたか、戦場の介錯者さんよ。当座の命乞いは成立だ。あんたの運命はうちの上官次第。場合によってはこのまま死ぬ方が楽だったかもな?」

兵士らの嘲笑うような声が、洞窟の中に冷たく響く。

白面は自らの試みが失策に終わった事を知るや激しく抵抗し、何か口走ろうとした。だが、罵声と共に頸部へと鈍い痛みが走り、視界はぐらりと歪みに落ちた。