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「……終わったのか」

静まり返った地下に、ひとりの男が姿を現した。

「……ええ。ですから、手出しは不要だと言ったでしょう……?」

荒い呼吸混じりに言葉を返すのは、血に染められた男。彼は興の余韻を邪魔されたと言わんばかりに不機嫌を露わにした。ぞっとするような冷たい瞳が、現れた男を鋭く射抜いている。その傍らには、血塗れの男を示す白面が横たえられていた。
現れた男はネリウスだった。彼は目の前の男の顔をじっと眺めていた。床に置かれている白面はとうに見飽きていたが、この男の素顔を見るのは初めての事。だが、今やその造形は、大半が血と肉片に汚されてしまっている。ヴァレーは嗜虐の興奮冷めやらぬまま、血の高揚に酔った身体で熱っぽく息をついた。ネリウスを見返す瞳は、狂気と愉悦にどろりと歪んでいた。

「……ん……ッ……」

ヴァレーは自らの体内から、すっかりと動かなくなってしまった密使の男の一部をずるりと引き抜いた。中座になった双臀の間から、先ほどまでの過激な行為の折に放たれ続けたものが、ごぷ、ごぷっと吐き出されていく。

「………………!」

その光景を忌まわしいと思いながらも、ネリウスは目を背けることが出来ずにいた。

暗部の一員とされた男の顔や上半身は大半の肉が削げ落ち、真っ赤な組織や骨が覗き、もはや何処の誰かも分からぬ有様だ。ヴァレー自身も、頭の先から足元まで返り血で染まらぬところなどない。彼の太腿を伝って垂れ落ちていく白濁は見る間に鮮血と混ざり合い、昏い血溜まりへと飲み込まれていった。

「ウフフフフッ。彼には感謝しなければなりませんね。過去、この彼が——何も知らなかった私の身体を、散々に弄んでくださいました。こうした身体の扱い方を知れたのも、それがあればこそ。ですが、私の任もあまり長引かせてもなりません。そろそろ、幕引きといたしましょうか」

ヴァレーは誰に向けるともなく言うと、血汚れた装束を身に纏って立ち上がる。
ネリウスもまた、空間を満たす多量の血に当てられたが故に精神と身体が激しく高揚していた。この地に来て長い彼は目の前で繰り広げられていた猥雑な行為——生殖の欲求など、とうに失った筈だった。それに、ヴァレーの謀略に付き合わされ、こうした場面に立ち会うことも一度や二度ではなかった。だが、明かされた彼の素顔と過去。目の前で繰り広げられ続けた光景はそれを知った今、殊更に実体を伴って扇情的に見え——遠く失われた欲求を、密かに呼び覚ますのだった。

「おや? 貴方、もしかして欲情しているのですか? この私に?」

ヴァレーは嫌みと誹りを最大限に含んだ口調で言い放つ。

「……黙れ、阿婆擦れが。ここは空間の割に、血が多すぎる」

踵を返そうとするネリウスに向けて、再び嘲笑が飛んだ。

「つまらない人ですね。貴方さえ望むのであれば、いつでもお相手して差し上げますのに」

その声と同時にネリウスの持つ短剣——レドゥビアの血刃が、勢いよく空を裂く。出血の残滓はヴァレーの姿を捉えていた。だが、切り裂かれた彼の姿は赤い紋章と共に揺らぎ、瞬きが終わるころには忽然と姿を消してしまっていた。

残されたネリウスは始めて、戦闘以外で顔に血が昇るのを感じていた。

 

  †

「……全く、この服はもう、使い物になりませんね」

ヴァレーは洞窟に転移すると、血汚れた服を脱ぎ捨てた。
並び立つ白面が変わらずに彼を出迎えている。だが、洞窟には獣じみた男の気配は既に無かった。ヴァレーは身体を手早く清めると、洞窟の一角に積み上げられている白骨の中の装束を取り上げては身に纏い、予め洞窟に残していた肩布を巻きつける。そして血汚れ、赤黒い肉片のこびり付いた薔薇の花束をふわりと取り出した。

「……ああ、早く、綺麗にしなければ。モーグ様から賜った、ヴァレーだけの花束……。錆びつかせるなんて、許されないでしょう……? うふふ。ですが、こうして脂と血で手入れをする事で、より一層、美しく光り輝くのですね」

ヴァレーは独り言を繰り返し、笑みを溢すと懐から聖印を取り出した。
それは彼が狭間に至る前より所持していた、黄金の信徒の証である二本指を象ったものだった。
そうして口元に手を寄せ——ふう、と名残惜しく口づけを飛ばすかのように、薔薇の花束へと手を延べる。その手からは、血に染まった大量の蝿が、赤い霧のように現れたのだった。

——蠅たかり。それは王朝に忠誠を誓う者のみに許されし、血盟の祈祷。
蝿が羽音を震わせ、花束をびっしりと覆う。血に飢えた獰猛なそれが、花弁からぶら下がる男の肉片を貪り尽くしていく——。

ヴァレーは時を止めたように、瞬きもせず血蠅の群れを眺めていた。
戦火、前線、そして修道院。安置所の中で、病に侵された人々は赤黒く爛れ呻き、死んでいく。そうして腐敗した身体には、どこからともなく蛆が沸く。

あの光景は——あの時には確かに、地獄だと思えた。
ヴァレーの瞳がうっとりと、弧を描いていく。

——いや、何を馬鹿な事を? これほどまでに美しい光景があるだろうか。これこそが死と生の循環。それはさながら、新たな祝福、血の抱擁ではないか。

赤く染まった薔薇の花束を、彼は時を忘れて見つめる。

——変わり果てた従軍医師たちの姿。膨れ上がり、爛れ、行き場を失った人の群れ。それは祝福に見放され、攫われた先で見た光景。

ヴァレーは自らの額の紋様にそっと触れ、白面をつけた。

——そう、私は真実に見えた。選ばれたのだ。
力と、愛と、意志を持つ、美しくも気高きモーグウィン王朝の使者として。
紛い物の神など、何も救わなかった。献身を嘲笑うかのように、最後の祈りは業火に焼かれて消え失せた。
かつて信じた者に裏切られ、弁明すら奪われた。何も成せず、名も無く朽ち果てた哀れな身体。

ヴァレーは再び聖印を握り込み、指先で花束に触れると勢いよく炎を宿す。
それは狂ったように飛び回っていた蠅の群れを、儚く焼き尽くしていった。そして炎の中から現れたのは。赤く、美しく光り輝く——大輪の、薔薇の花束だった。

「……さあ、終わらせてしまいましょう」
 

 

「そんな事……嘘だ……彼が、ヴァレーが、この地に来ているだと……!?」

「クレプス様、どうされたのですか……? もしや、あなた様も、あの医師をご存知で……!?」

突如として、小瓶が二人に合図を寄越した。それは傷の男の有事を知らせるものだった。

「この合図は……!! 彼の身に、何かあったようです……!! 一先ず、そちらへ向かいましょう」

二人は急ぎ、小瓶の徴が伝える廃墟へと急いだ。

 

「——ッ……!!」

廃墟の地下で目の当たりにしたのは、変わり果てた同志の姿だった。耳に障る無数の羽音。残された肉片に蠢く蛆の群れ。判別不能な程に損壊された血みどろの遺体に、脱ぎ捨てられた衣服——。足元には、空間の暗い色彩に不釣り合いなほどの真っ赤な薔薇が、至る所に咲き誇っている。
飛び回る蝿の音が鼓膜を不快に響かせ、吐き気をもよおすような血と腐敗の臭いが室内を満たしていた。

「う、ぐぇ……ッ、なんて惨い……一体、誰がこのような……?」

「……衣服が脱ぎ捨てられているな。寝首を掻かれたのだろうか? 単独行動は慎むようにと、あれほど忠告したのに……」

「待ってください……この匂いは……?」

寝台の横、倒れた瓶から立ち昇っていた馨りに、若い密使が反応した。
それは忘れもしない。あの医師に出会い、壁の隙間で密着した時の——胸の悪くなるような甘く、重苦しい匂いの記憶だった。

「……どうして……? いや、まさか……」

若い密使は混乱する頭を必死に整理した。クレプスがヴァレーと呼んだあの医師は何かを知っているのだろうか? 無論、偶然の可能性もある。だが、今はそれ以上の手掛かりはない。

「……指は全て残されているな。という事は、あの褪せ人狩りの仕業では無いのだろうか? だが、ここは奴の縄張りからそう離れてはいない。無関係とも言いきれまい」

「クレプス様。この瓶から立ち昇る馨りに……心当たりがあります」

「——何だと?」

「先ほど話した医師です。彼から漂う血汚れた被服。そして甘く、重苦しい芳香……」

その言葉を口にした瞬間、感情を見せる事の乏しいクレプスの顔が、酷く歪んだように見えた。

「……奴の居場所は知っているか?」

クレプスがそう問いかけた瞬間。禍々しい侵入者の気配が、辺り一体を覆っていく。

「この気配は、まさか……」

「不味いな……こんな時に侵入か。これは我々を誘き寄せるための囮だったのかもしれない」

ヴァレーの姿が、クレプスの脳裏に浮かんでは消える。あの俗物めいた傷の男を誑かそうと、言葉巧みに誘いを掛ける姿。だが、忍び寄る侵入の気配は彼のものではなく、主の凶悪さをまさまざと見せつけていた。恐らくこれは曇り川の褪せ人狩り——あの暴徒のものに違いない。

クレプスは若い密使へと叫んだ。

「——君は直ちにここを去れ! そして、生き延びろ! 王となるものが現れるまで、暗部の名を絶やしてはならない。私も堕教の徒に負けるつもりなどない! いずれまた、円卓で落ち合おう」

「いえ、一人は危険です……! 二人がかりで奇襲を掛ければ——」

「こちらの居場所は既に割れているだろう。もはや奇襲にはならない。だが、今なら君だけでもここを離れる事は出来る。さあ、早く!! これは命令だ!!」

黒い靄がクレプスの身体を包んでいく。その目は鋭く光り、来たる標的に照準を合わせるが如く研ぎ澄まされていた。
辺りに満ちていく赤と黒の気配に、若い密使は圧倒されていた。だが、観念したように頭を振ると——身隠しの祈祷と共に立ち去った。