管理室(前編)

 

遥か昔、黄金の律よりその瑕疵が取り去られ、完全となってから永遠にも似た長い、長い年月が経過していた。

かつての王が、ある大学者の遺した律を掲揚してからというものの、律を司る者は神ではなく、意思を持たぬ理のみとなった。
それは神やその伴侶による、ある種独裁的な政ではなく、律と令による純然たる法の治世の始まりでもあった。
しかし、古き言い伝えでは停滞は澱みを呼び、そのうちに腐敗を生むという。
法治国家としての理想を体現していたかに見えた王都もその長い年月の末にいつしか私利と私欲に塗れ、腐敗の温床となっていた。
今や王都上層部に位置する官史らは、形骸化した王族らを隠れ蓑に私服を肥やし、法を盾に黄金の理から外れた者達を弾圧し、迫害した。

完全律を遺した学者はかつて自らの弟子に向かい、こう言い残した。「学問が狂信に変わるのは、実に簡単だ。愚かな善人どもは、ただ絶対悪が欲しいのだから。そんなものが律の原理であるものか」と。

だが、今やその言葉を覚えている者など、この地には誰もいない。

男は黒板に向かって、一心不乱に数式を書いていた。講義室の中はしんと静まり返り、板を打つ蝋石の音だけが無機質に響き渡る。聴講生はまばらで、その少ない生徒たちも殆どが下を向いて居眠りをしていた。数名の熱心な生徒だけが男と同じように必死に手を動かして、たったひとつの数字も記号も漏らすまいと筆を走らせていた。

男は全てを書き終えると、振り返り、室内をぐるりと見渡す。
その顔は、酷く疲れきっているようにも見えた。
男は溜息を吐いた。きっとこの中に、今日の講義が分かる者は誰一人として居ないのだろう。
だが、分かるように逐一説明をするつもりも無かった。黒板に書き記した内容が、彼にとってはその全てだった。
黒く沈み込んだ、陰鬱な目をした男は、一言も発さないままに講義を終えると、聴講生らを一瞥することもなくその場所を後にした。
数名の生真面目な生徒だけが、当惑した面持ちで目の前の黒板と、立ち去る講師とをその目で追いかけていた。

男は講義室を出ると、白亜の廊下を抜けて吹き抜けのホールへと至り、柔らかな曲線を描く長い螺旋階段を、一定のペースを保って降りていく。

——ふと、背後から声が響いた。

「君、待ってくれ。そう、君だよ。話があるんだ」

男はぴたりと足を止めると、煩わしそうに眉をひそめて声の主へと向き直った。

「ああ、学長が直々に私の元にいらっしゃるとは。何用でしょう」

男が低く、抑揚のない声で問いかける。
今しがた学長と呼ばれた、小太りで男よりも背の低いその人物は、彼に近づくとこう言った。

「君の講義の事だがね。単刀直入に言うと評判が悪すぎる。生徒たちからもあれでは講義の意味がないと。改善してもらえないようであれば今期限りでの解任も十分にあり得ると、釘を刺しておこうと思ってね」彼はやや息を切らしてそう言うと、額の汗を拭った。

「——クビの宣告ですか」男は短く応えた。

「ま、有り体に言えばそういう事だ。大体、君のような実績のない非常勤講師を雇ってやっただけでも感謝してもらいたいのに。元の家柄が貴族だか何だか知らないが、講義までお高く止まられては敵わないよ」
学長は嫌味を隠す様子もなく、そう言い放つ。

「実績については、以前にお話しした通りで」男は不服そうに口の端を歪めた。

「またその話か。君が学会で発表した理論が盗用されただって? 妄言も三度聞けば結構。そんな記録は何も出てこなかったよ。一応、君の言う論文にも目は通してみたが、私には実用性も何もさっぱりだ。実力があるならまた論文の一つや二つ、新たに上梓すればいいだろう」

男はまた大きく溜息をついた。
「……生憎、そんな所に何度もアイデアをくれてやるような、馬鹿げた奉仕の精神は持ち合わせていなくてね。黄金の民だなんだと優越感を与え、忠誠を誓わせてその実、使い捨ての量産だとは、かつての理想郷が聞いて呆れるよ」

「き、君、突然何だ。滅多な事を言うものじゃないぞ。どこで誰が聞き耳を立てているとも知れないのに。それとも、君も没落した両親のように思想犯として投獄されるつもりかね——」

その言葉を最後に、狼狽えるような男の声が悲鳴へと変わり——螺旋のホールに飲み込まれていく。その音が鈍く、重い衝突音へと変わるのには、それからほんの数秒も掛からなかった。

 

「先輩、先日の火山館での事ですが、あの巫女さんの嗜好って……」

白面をつけた青年が、ふと思い立って目の前の人物へと話を振る。声を掛けられた男は振り返ると、彼と同じいでたちの、その白面の内で口を開いた。

「ああ、責問官から何か聞いたのですね。私はあくまでも、彼女には『廃棄してください』と伝えているだけですよ。それがどのように処理されているかまでは存じ上げません」
彼は含みを持たせてそう言うと、小さく肩をすくめてみせた。

「や、やっぱりそうなんですね……」
苦笑いをしながら青年は、先ほどまでの疑問に小さな確証を得ると、その口をつぐんだ。
ふいに、虫の羽音のような小さなノイズが室内に響き、ブリーフィングルーム内の明かりがチカチカと瞬く。

「そういえば、今朝の速報を見ましたか?」

明滅する照明を見て、青年は今朝に見たニュースを思い出していた。ここ数年王都内ではエネルギー不足が取り沙汰されていたが、軍幹部が新しい動力炉の開発に成功したらしい。

「エネルギー不足の解消に目処が立ったのでしょう。結構な事ですよ」

ヴァレーはすげなくそう言うと、目の前の部下へと今日の分の資料を手渡した。
青年はそれを受け取ると、ページを捲ってざっと目を通す。

「——これは、王都警察からの依頼ですか」

「ええ。こういった機会はあまりありませんので、貴方の意見も聞いておきたいと思いまして。ふふ、期待していますよ」

青年はその言葉を受けると背筋をピシリと伸ばし、食い入るように資料を見つめた。

「は、はい! ええと、殺人事件ですか。例の薬物中毒者ばかりが襲われているのですね。手口と殺害方法が同じため、恐らくは同一犯だと——」

「被害者は皆累犯、かつ斡旋者です」

「再犯を繰り返しており、薬物の売人と言う事ですね」

「ええ。あまりにも手際が良い、背後から躊躇いもなくひと刺しです」

そう言うとヴァレーは青年に近づき、するりと背後に回ると、彼を引き寄せるように腕を回した。青年の口からその不意打ちに小さく声が漏れる。
急な身体接触にまごついている彼をよそに、ヴァレーはぐっと引き寄せた部下の首の付け根に、その握った拳をトントンと軽く落とした。

「頸部を通り、鎖骨下動脈から心臓にまで至る鋭的刺傷——解剖の所見から、凶器は刃渡り十五センチ以上の刺剣、両側に刃は無し。また、片手で扱える大きさという事でカテゴリとしては短剣の部類でしょうね。全長は三十センチ程度が妥当かと」

背後から聞こえる内容を噛み砕きながら、首元に手を回されたままの状態で青年が口を開く。

「——相手は数秒で意識を失い、死に至りますね。人体の構造を熟知しているか、暗殺に手慣れた者か……。手際が良いということで、元医師の可能性などは?」

「元医師、とまでは断定できませんが、医療訓練を受けた事のある者、その線も視野に入れる必要はあるでしょうね。凶器の特徴は、かつて我々のような白面の医師、従軍医師が使用していた慈悲の短剣と非常に共通点が多い。凶器の候補としては最有力でしょう。しかし、今や慈悲の短剣など、資料館等にしか置かれていない筈ですが……」

ヴァレーはそう言うと、手を離して青年の身体を解放し、口元に指を添えて考え込んだ。

「慈悲の短剣、ですか。確かに苦痛を与えず、一瞬で相手の命を奪う手口とも特長が合致しますね」

二人の間にしばし流れる沈黙を遮るかのように、部屋の中に電子音が鳴り響く。

「あ、外線だ。私が出ます」

青年は受信器を手に取ると、耳を傾けた。

「こちら地下医療——あ、ああ。お世話になります。はい。え、室長ですか? いらっしゃいますよ。お繋ぎします」

彼は向かいの先輩をチラリと見た。ヴァレーは顔を上げ、自分宛かと言う風に目を瞬かせると部下から差し出された受信器を手に取る。

「はい、代わりました——」彼が名乗るか名乗らないかのうちに、通話先の人物が声をあげた。

『——やあ。元気そうだな』

「ああ……誰かと思えば、貴方でしたか。ご用件は」ヴァレーは相手に気付くと緊張を解き、声のトーンを落とした。何の事はない、よく知った男の声だ。

『朗報だ。ついに違法薬物の成分分析が終わったよ。なかなか興味深い示唆を含んでいる。この通話の後にデータを送信するから、できれば直ぐに出力しておいてくれ』

「ええ、分かりました」

『そしてもう一つ。既に聞いているかもしれないが、今月の報告会が延期になったそうなんだ。会長の私用らしいが。先日君に会えたばかりとはいえ、逢瀬の機会を失うのは残念でならないね」

男の快活な笑い声が受信器の向こうに響く。その言葉にどきりとして、つい部下の方に目が走った。聞こえるような音量ではない筈だが、これ以上会話がエスカレートしては困る。尤も、相手も職場から掛けてきているのだろうから、そうおかしな事を言われる筈も無いのだが——。返答に窮していると、その雰囲気を気取られたのか、からかうように相手が言葉を放った。

『ははは、次はふた月分だから連泊の用意でもしておいてくれよな』

「——ッ!」

続くその言葉に、ヴァレーは反射的に受信器から耳を離すと切断ボタンを押した。悪ふざけが挟まれたということは、肝心の要件はもう済んだのだろう。

「先輩? 今の——お電話は?」

「……分析機関の所長ですが。初めに名乗られませんでしたか?」

動揺を気取られないようにと、ヴァレーはやや素気なく部下へと言葉を返した。

「ああ! お名前だけでは確証が無かったのですが、やはりあのドクターですか。研修医の頃には私も随分お世話になりました。そういえば、先輩の指導医もされていましたね」

「……ええ、まあ」

端末にピコンと小さな受信音が鳴る。送られたフォルダにパスワードを入力してファイルを開くと、そのデータを出力した。
王都に蔓延る違法薬物。
目的は未だ不明だが、先程の通話によると、そこには何かしらのメッセージが含まれているらしい。

「さあ、どうぞ。分析結果です。純度の高い物質のみで構成されていたので長らく元の材料が分からなかったそうですが——ロットの違いから現れるごく微量な不純物を解析して、やっと突き止める事ができたようですね」

ヴァレーは出力されたデータを青年にも手渡した。

「うう……私にはその手の事はさっぱりですが……。何々、成分の多い順に——イエロの瞳・トリーナのスイレン・アルテリアの葉・そして、ミケラのスイレン」

「イエロの瞳の鎮痛成分、トリーナのスイレンの鎮静作用が摂取した者の意識レベルを落とし、アルテリアの葉の高揚の効果で気分をハイにさせる。更にはミケラのスイレンが判断能力を失わせ、他者からの命令に従順になる、と」

パラパラと分析結果を捲りながら、二人は互いに意見を交わしていく。

「摂取した者はいとも簡単に理性を手放し、その欲に忠実になるのですね。しかし、他者からの命令に従順になるとは……? 今までの常用者たちに、そのような傾向は見られませんでしたが」

「一錠あたりに含まれている成分量から見て、作用中は時間の間隔も、痛みも殆ど感じない事でしょうね。間違っても摂取したくはない代物です」

「あ、トリーナのスイレンに含まれるトリルフェタミンは医療用の麻酔薬として既に重宝されていますよね。この材料と純度での末端価格は——うわ、凄い。これじゃ常用者は破産一直線だな……」

部下の言葉を耳に入れながら資料に最後まで目を通すと、ヴァレーは顔を上げてホワイトボードへと近づき、やり取りの内容を書き込んでいった。

「所長は面白い示唆と言いましたが——材料は全て、生息地からの移動や家庭での栽培が禁じられているレッドリスト内の原種のようですね。これらはかつて、異端とされた者たちが好んで使用していたものが殆どです」

「レッドリストの植物、ですか。確かに、認可済みの化合物で代用が可能なものもありますね。にも関わらず、わざわざ入手が困難で取り扱いの危険なこれらの原種を扱っていると。その目的は?」

「少なくとも、王都に悪感情を持つ者の仕業でしょう。どうにも、違法薬物絡みの案件が続きますね。先の連続殺人との関連は——流石に考え過ぎでしょうか」