ああ、また意識を飛ばしてしまったのか。
情交の後の身体の痛みと気怠さの中で、ヴァレーは身体の疼きが収まっているのを感じた。
訪問者であった男の姿は既に無く、身体にはあらかた清拭が施され、部屋も整えられていた。
男に申し訳なかったな、と思いながら、
微睡んだ意識の中で過去の記憶をぼう、となぞった。
——初めは、ほんの出来心だった。
遥か昔、王朝への忠誠を誓う代わりにと、対価として身体の繋がりを求めた者がいたのだ。
ヴァレーは自らの身体を差し出した。
前世でもそういった行為を求めてくる者たちは居たために今さら嫌悪という感情も無く。
それに、その時分にはもう長生の故に、身の回りには誰も知った者は居なくなっていた。
余計な詮索をされぬよう、その身を隠し、住む場所も目立たぬように転々としてきた。
自らの信仰を拠り所にはしていたのだが、それでも一人というのはやはり只管に孤独であったのだ。
そうしてヴァレーは、求められるがままにその男と身体を繋げることにした。
行為そのものはまだ体が慣れていないせいもあり、苦痛の方がずっと、強かった。
すると、交わりの後で確かにずくりと、身体の痣が疼いたのだった。
初めは、ヴァレーも気の所為だと感じていた。痣とて古傷のようなものなのだ。身体の感覚が鋭敏になっている時であれば、こうして疼く事もあるのだろうと。
しかし、それは日ごとにじくじくとその疼きを増していった。
その収まらない疼きに一人耐えていた時に、またその男が訪れた。そして身体を求められ、情を交わした。
すると、感じていた痣の疼きが嘘のようにかき消えたのだった。
初めての男と身体を繋げたその日以降——
血の施しを与えた者たちと定期的に身体を重ねなければ、日ごと強くなる痣の疼きに苛まれるようになってしまったのだった。
ヴァレーは横たわりながら、身体へと手を伸ばし、自らの痣をす、と撫ぜた。
すぐにそこは、ピリピリと甘い痺れを訴えた。
ふぅ、と息を吐く。
もちろん、一人で慰めてみてはどうだろうかと試してみた事もある。
しかし、それでは疼きは収まらなかった。
それに、相手も誰でも良いというものではなく、やはり儀式を行った者のうちの誰かが、その相手として必要になったのだった。
ヴァレーの意識はまた、泥濘みの奥底にどろどろと引き込まれていくと、無意識のうちにそこから更に古い、古い記憶を辿っていった。
それは数世紀前、まだ自らの使命を感じたばかりの若輩であった頃の事。かつての血の指の候補に、悪魔崇拝に関係を持つ者がいた。
彼に連れられて一度だけ、その悍ましい儀式を見たことがあったのだ。
「——此度の集会が終わりましたら、きっと貴方様が求める血の指になると誓いましょう」
「そうですか。よい心掛けです。——期待していますよ、私の貴方」
ヴァレーは男の手を取り、その目を見つめると甘く囁いた。
「ああ……ですが、ヴァレー様。貴方様にもどうか、どうかこの集会に来て頂きたいのです」
「私に、ですか?」
男からもたらされた提案は、思いもよらないものだった。
「ええ、私は意思の弱い、哀れな男なのです。
かつては違う神に祈りを捧げておりましたが、姦淫の罪を犯し、火刑に処されるところであったのを、命からがら逃れて参りました。
そうして、今のこの土地に流れ着き、悪魔教に魅入られてからというものの、ますます淫蕩に耽り、堕教に身を窶し、ついに自らの意思ではそこから抜け出せなくなってしまったのです。
ヴァレー様の仰る血の誓い、それこそが私をこの堕落した教えから救い出す光なのです。しかし、私は哀れな弱い男です。どうか、私の意思が揺るがぬよう、集会が終わるまでの間、お側についていては頂けないでしょうか」
——集会では皆、目元を匿すための仮面を被り、その素性は分かりませぬ。どうか、どうかお願いいたします。
ヴァレーは訝しみつつも、男の熱に押されてしまった。それに、まだこの時分に於いて、血の指の候補に出会えるのはごくごく僅かな機会だけだった事もあり。彼は男の願いを聞き入れた。
そうして集会の日の夜。
月が昇ると、どこからともなく黒いフードを被り、目元に同じ仮面をつけた複数の男女が音もなく集まり始めた。老いも若きも皆一様に生気を失い、目は落ち窪み、肌は青ざめて、まるで死人の集団であるかのようだった。周りの家に住む者はその光景を見るや、ひどく厭わしいものを見てしまったという顔をして、慌てて戸を固く閉ざし、十字を切った。
ヴァレーと男は他の者と同じ面を付け、黒いフードを目深に被りその顔を隠すと、するりとその列へ混ざり込んだ。
黒装束の者たちは初めは整然と並び立ち、虚な顔をしてふらふらと歩いて居たのだが、段々と狂熱に浮かされ、奇声を発し、踊り狂い、中にはぐるぐると回って失神し、倒れたままピクリとも動かなくなる者もいた。
そうしてその集団は次第に人気のない方へと歩みを進めていくと、徒刑場を超え、更には、かつて人身御供が捧げられていたという異教の遺跡の古い、朽ちた祭壇へと向かっていったのだった。
それは、悪魔崇拝の集会ーサバトと呼ばれるものだった。
幻覚作用のある香油を全身に塗りつけた妖術師が、半狂乱で鬨の声を上げている——。
その声を合図に狂宴が始まると、彼らは我先に、贄として連れて来られた生きた獣をその場で屠り、祭壇の上へと捧げた。
切り裂かれた贄の首からは血飛沫が迸った。
そうして、その信徒たちは悪魔に見立てた者に接吻をし、その背に乗ると女は肢体をくねらせて淫行に耽った。生贄の血が流され、悪魔教の信徒たちはその贄の生肉を貪り、血を飲み、其処彼処へと吐き出した。
祭壇の壁という壁にも血が塗りたくられ、祭壇の中央では大鍋で何かが煮込まれている様だった。それは人であるように見え、鍋からはまだ肉の付いた無数の骨が突き出していた。
その光景はまさしく異様だった。
真面な精神の持ち主であれば直視する事すらままならなかっただろう。
だが、ヴァレーはその光景を目の当たりにした時に、それまで朧げだった、かつて自らの仕えた王朝の姿をありありと思い出してしまったのだった。
——満点の星空の元に晒された、古代の遺跡とその白亜の神殿
——その地を覆い尽くす泥濘んだ血の土壌と、艶やかに咲く美しい鮮血の薔薇
——横たわる贄と、それを食い破る獰猛な大鴉、悍しい獣たちの排泄物。その排泄物に集る蛆と蠅の群れ
——その地を闊歩する、ぶよぶよと大きな頭に、さらに不釣り合いに大きな目を付け、角を生やした真っ赤な異形の生き物たち
——赤く爛れ、頭を抱え、断末魔を上げながら肉片を飛び散らせて絶命する人のような、いや、おそらく人であったモノの群衆と、その肉片の塊——
ヴァレーは、目の前にはっきりと浮かびあがった数々の光景を前に、しばし息をするのも忘れていた。
ふと意識を戻した時には、身体は冷や汗をかき、心臓は早鐘を打ち、はっはっと浅い呼吸を繰り返していた。
——私の仕える君主、そしてその伴侶となる神人は決して”悪魔”などではない。
かの王朝は、弱きもの、名もなきものたちに愛と力を与える素晴らしい存在であった筈だ。
そうだ、決してそれは目の前のこの悪魔教的な儀式と同一視できるものではない筈なのに。
何故、今ここで、忠誠を誓ったはずの王朝を、そしてその情景をことさら鮮明に思い出してしまったのだろうか。
私は、私は何と、畏れ多い——
「——っ、う」
ヴァレーは口元に手を当てた。
激しい頭の痛みと目眩、胃が捻り潰されるような不快感を何とかこらえ、狂宴に魅入られた人々の間を縫う様に押し分けて進み、どうにか後方へとその身を隠した。石柱にもたれ掛かると、ずるりと半ば力を失って地面へと座り込んだ。
隣にいた男がもはや何処へ行ってしまったのか、気に掛けていられる余裕は無かった。
柱に身体を預けると目を閉じて、早くこの悪夢が終わるようにと願った。
空が白みだすと、気が狂ったように騒いでいた者達は皆、抜け殻のように脱力し、生気を失って静まり返っていった。
そうして誰とはなく、その中から立ち上がり、ふらりとフードを被って歩き出す者が現れると、蘇ったばかりの死人のように、ひとり、またひとりと立ち上がり、皆ふらふらと列を成して元来た道へと帰って行ったのであった。
ヴァレーは石柱の影に身を潜め、去っていく悪魔崇拝者たちを横目に見ながら、安堵の溜息を吐いた。
——結局、請われたように男の側に居てやる事は出来なかったが、彼は大丈夫だっただろうか。
まだ痛む頭を抱えて立ち上がると、辺りを見回した。
祭壇の方に、微かに、人の気配があった。
ヴァレーは注意深くその影を追い、連れ立った男だと確信を持つと、声を掛けた。
男は焦点の定まらぬ目で此方に向き直ると、その口を開いた。
「ええ、ヴァレー様、私は今、悪魔と決別いたしました……。貴方様と共に、歩ませてください。そして、今ここで、血の儀式を行ってはいただけないでしょうか……。
私の心が揺らがぬうちに、貴方様からの祝別を受け、私は生まれ変わりたいのです」
「——今此処で、ですか?」
まだ割れるように痛む頭を抱え、ヴァレーは男に問いただした。
正直なところ、一刻も早くこの場から立ち去り、この日見た出来事を全て忘れてしまいたかった。
男はそうです、お願いです、と頑なに言った。
この男は心が弱い弱いと宣いながら、その実、強引で此方の話は聞き入れてくれないのだった。
ヴァレーはそうした男の態度に一抹の不安を覚えたが、彼がそこまでして王朝への忠誠を望むのであればと、血の施しを行う事にしたのだった。
ヴァレーは自らの指先を少し傷つけ、男の手を取ると、自らの手と重ね合わせた。
祈りの言葉を捧げると、男の眼が、一瞬赤く染まったように見え——また、元に戻った。
「これで、終わりましたよ。さあ、今から貴方は永遠に我が君主と、その王朝への忠誠を誓っていただけますね」
「ええ、きっと、そうします。ああ、ありがとうございます。これで『私は』清く正しく、生まれ変わることができました」
「——ッ。……ええ。それでは、私たちも帰りましょうか。もう日も随分と昇ってきましたから」
ああ、この男はずっと、自分の事しか考えていなかったのだ。
ヴァレーは男の目を直視することが出来ず、目を伏せた。そして、このような邪な志のものを王朝の一員にしてしまったことに焦燥感と胸騒ぎを覚えた。
言い訳をするつもりではないが、先の集会のせいで酷く判断力が鈍ってしまっていたのだろう。
私は、何か大いなる過ちを冒してしまったのではないだろうか——。
そして、その胸騒ぎは現実のものとなってヴァレーの眼前に突きつけられた。
二人は日が昇り切る前に、人目につかないように森を抜けようと、薄暗い森の中を進んでいた。
暫くすると突然、男が激しく悶え、苦しみ出したのだ。
「うっ、うぐう、あぁあああ!!!!!!」
男の皮膚はボコボコと赤く、大きく膨れ上がり、隆起した瘤からは次々に血が吹き出した。
そして、男が更に一際大きな断末魔を上げると——膨れ上がった肉が血飛沫を上げて、辺り一帯に弾け飛んだ。
男が目の前でただの肉塊に変わり、死んでゆくのを、ヴァレーは呆気に取られてただ眺めることしかできなかった。
彼が危惧していた通り、男の心はそう簡単に生来の弱さを克服する事は出来なかったのだ。
男は邪教と訣別したつもりであったのだが、やはりそれは叶わなかったのであろう。
ヴァレーにとっても、自らの力が人を死に至らしめてしまう事に気付いたのはこれが初めての事だった。
辺りには、血と臓腑との臭いが充満していた。
男のものであった肉片と血飛沫を全身に浴びて、もう込み上げる吐き気を抑えることはできなかった。
「うっ…、……ぐえぇっ……っ、おぇぇぇっ、……うげっ、……っえ、…………
——そうして、あの夜の出来事はヴァレーの心の奥底にくっきりと痕を残した。
更には、今やすっかりと秘め事を重ね、他人の身体を求めて堕ち切ってしまった自らの身体を、あの日に見た悪魔崇拝の魔女たちと重ね合わせてしまい、度々罪の意識に苛まれた。
しかし、自らの身体に求められているのは信徒たちとの確かな繋がりなのだ。それは決して、ただその身を壊すだけの、あの日に見たような悍ましい、冒涜的な性質のものではないのだと。その事実に追い縋り、救いを求めたのだった。
「……モーグ、さ……ま……」
ヴァレーは自らの君主の名を口にすると、また微睡みの中へとその意識を落としていった。
◆◇◆◇
——コンコン
部屋のドアをノックする。
「ヴァレーさん、大丈夫ですかー??」
先程の訪問者であった男の話によると。
どうもヴァレーさんは掃除の後に倒れ、そのまま寝てしまったのだそうだ。
気持ちは分からなくもない。
僕も今日は五、六時間は夢中で草引きをしていて、終わった頃にはもう泥だらけの汗だらけ、お腹ペコペコでぶっ倒れそうだったのだから。
僕よりも歳上で、普段あまり動かない(らしい)ヴァレーさんにとってはさぞかし重労働だったのだろう。
でも、せっかくめちゃくちゃに美味しいものをいただいたのだ。
僕も食べきれなかった分を後で食べてみたのだが、冷めてもとっても柔らかくてジューシーで美味しくて。
これはこういう料理だと言われてもすっかり合点がいきそうだった。
ここの言いつけで”来客中は来てはいけない”
と言われていたのだが、件の男性ももうとっくに帰っている。
体調も気になったのでお節介かもしれないが、声をかけさせてもらう事にしたのだった。
「お食事、置いておきますねー。お話の通り、すごく美味しかったですよー」
やはり寝ているのだろうか。
何度かノックと声かけをしてみたのだが、返事が無い。
あ、そういえば。
ここに来るのは住み込みなのか通いなのか聞くのも忘れていたな。
爺ちゃんも、定職が見つかりそうだと報告すると喜んでくれていたし。
今日のところは帰って、また明日にでも聞いてみようか。
立ち去ろうとすると、徐にがちゃりとドアが開けられて、”ヴァレーさん”が姿を表した。
「あ、ヴァレーさん、大丈夫ですか——」
くるりと振り返り、顔を見上げた瞬間。
僕の時が止まった。
え、
ええええええっ!?
だ、誰——?!!!
「わざわざ、っ、あ゙、あ゙りがと、ぅ、ございますっ……ゲホッ……」
この声と話し方は、うん。そう。
間違いなくヴァレーさんだ。
「すみ、ません゙ね……こんな時間まで…ゲホ、お引き留めしてしまっ゙、て……」
そしてこの目と綺麗な睫毛も、そう。
間違いなくヴァレーさんだ。
でも、でもでもでも。
今僕の目の前に立っている無造作ヘア、と言えば聞こえはいいがぐちゃぐちゃに乱れた髪の、ドアにもたれ掛かってこちらを見下ろしているナイスでミドルなこの男性は一体誰なんだ???
「ぁ゙の、今日はも゙う、……ゴホッ……帰ってもらっても、いい、ですよ……ッ」
しかもしかもだ、いつものざらついた低い声がさらに濁点混じりになって掠れきっている。顔も上気して赤くなって汗もかいていたようだ。目元はやや苦しげに歪められ、僕を見つめる瞳も潤んでいる。
掃除で倒れたとか聞いていたのだが、こ、こ、これは完全に——
「ヴァレーさん! 風邪ですね?!!」
僕が叫ぶと、”おそらくヴァレーさん”がずるっと身体のバランスを崩した。
そしてまた翌くる日のこと——
「昨日はありがとうございました。貴方には余計な手間をかけさせてしまいましたね」
「いえいえ、体調戻られたようでよかったです!」
目の前のヴァレーさんはいつものように白面をつけてにっこりと、僕の前に姿を現したのだった。
まだ声は本調子ではなさそうだったが、体調はあらかた良くなったようだ。
よかったよかった——。
…………。しかし、ここだけの話だ。正直に言おう。
僕は昨日、一睡もできなかった。
いや、自分でもどうかしているのは分かっている。
出会った時から物腰柔らかな印象と話し方、でもその低めの声とのギャップは感じていたので、彼の素顔に興味はあった。
あの仮面の下の顔はどんなだろうなあと、事あるごとに妄想はしてみたし、気付いたら手帳の余白にイメージ画を書いてみてあわてて消したこともあった。
しかし、その妄想があんな形で、突然終わりを迎えるなんて。
僕からお願いして見せてもらったわけでもなく。ヴァレーさんが身だしなみを整えているところなんかをたまたま目撃したわけでもなく。
ドアを開けられたその先に、何の前触れもなく彼の素顔が晒されていたのだった。
それで、なぜ僕が一睡も出来なかったのか。
それは推して知るべし。
あの時のヴァレーさんは口元を軽く手で抑え、髪も乱れていたために、僕は真正面からしかとその顔を見据えたわけではないのだけれども。
まず、彼の素顔は思った以上に精悍だった。もっとこう、線の細い感じだろうかと思っていたのだが、その予想はすっかり裏切られた。
手袋を外した時や目元からちらりと肌の色は見てとれたが、それはやはり褐色で、やや栗色に近い黒髪とも相まってさながら小さい頃に劇場の舞台で見た異国の劇役者のようだった。
さらに、なんとも言えないがこう、めちゃくちゃに色気があった。あれが大人の男の魅力というやつなのだろうか。僕にはあと何十年掛かってもあの雰囲気は醸し出すことが出来なさそうだ。
これからあの物腰柔らかでその実ちょっと辛辣でいて甘やかで優美で洒落っ気のある白面のヴァレーさんを見て。
僕はあの男性を思い浮かべてしまうのだろうか。
一度そう思ってしまうと、何故か物凄く心臓の辺りがゾクゾクソワソワモゾモゾとして、それからは目が冴えて、なんだかもう一睡も出来なかったのだった。
「——ええ、おかげさまで。それに庭もこんなに綺麗にしていただいて、助かりました」
「い、いえいえ! これぐらい、お安い御用ですよ?!」
僕は心の内を悟られぬように——極めて平静を保って、そう言ったのだった。