妄執と執着の果てに(前編)

 

僕たちは晩餐を終えてめいめい寛いでいた。

ヴァレーさんとの付き合いが長い店主のお爺さんが言うには、このような会は殆ど初めてらしい。
そういえば、さっきヴァレーさんもこんなに血の指が一堂に集まった事はなかったと言っていたな。

ああ、そうだ、その事でひとつ聞きたいことがあったんだった。
僕は部屋の中央の大きなソファに近づいた。

この広間の象徴のような天鵞絨の大きなソファには、既に調香師の彼が座っていて、斜め向かいにはヴァレーさんが一人掛けの大きな椅子に身体を預けていた。特に二人で話している様子もなさそうなので僕が隣にお邪魔しても良いだろうか。

僕はそっと、ソファの端に座ってみた。
調香師の彼がじろっとこちらを見たけれど、特に来るなという素振りもなさそうだったのでそのまま居座る事にした。
ヴァレーさんの白面の奥の目は伏せられ、長く白い睫毛が僅かに覗いていたが、僕があの、と声を掛けるとその目がぱちりと開いて、はっとこちらへ向けられた。

「——ああ、貴方、今日はお疲れでしたね。どうも、ありがとうございました」

ヴァレーさんがやや微睡みを含んだ声で言った。

「いえ、お買い物、もたついてしまってすみませんでした。あの……少し聞きたいことがあるのですが、今少し良いですか?」

「ええ、大丈夫ですよ。どうされましたか」

「さっき6人集まったって仰っていたのは、それってヴァレーさんを含めて、ですか?」

「いいえ。信徒の数、つまり血の指が6名です」

「じゃあ今日は一人いないんですか?」

「ええ、別に隠し立てする事でもありませんが……今一人は行方不明なのですよ」

「行方不明、ですか」

「元々は名家の出だそうですが、なんと言いましょうか、少し変わった方でして」

ヴァレーさんは伏し目がちにそう言った。なんだか声音もあまり覇気がない、というか珍しく重苦しい雰囲気だ。

「——あれは少しなんてもんじゃねえぞ、居なくなってせいせいしてらあ」

後片付けをしてくれていた経営者の男が話に割って入った。

「そこの香水野郎もまあ充分偏執的だけどよ。なんか質が違うっつうかあれは危ないやつだ」

「失礼なっ、あんな人と一緒にしないでもらえますかね」

調香師の彼が目を吊り上げて男に言った。

「まあまあ、二人とも落ち着いてくださいな。
——初めはそうでもなかったのですがね、だんだんと様子がおかしくなっていきました。
彼が血の指となったのは調香師の貴方の少し前、でしたね」

「で、わりとすぐだったよな、こっち側になるのは」

そう言って経営者の男は自分と調香師の彼を親指で指さした。

「……ええ、まあ」

ヴァレーさんはやや歯切れの悪い相槌を打つと、僕に向き直ってこう言った。

「その方は先程も伝えたように名家の出のようでした。それ故に宝飾品や召し物をよくお持ちになりましたが、此方としては足がついても困るので質に入れるわけにもいかず、正直手に余りました。こういったものは最低限で結構ですよと伝えたのですが、何かをお断りする度に次第に行動がエスカレートしていきましてね」

「この贈り物で喜ばない者は居なかったとかなんとかグチグチ言ってやがったぞ」

「あの人、私が入ったばかりの時にはそうでもなかったですが最後の方は目を離すとヴァレーさんの事を拉致監禁でもしかねない勢いでしたね」

調香師の彼が嘆息すると、すかさず経営者の男が横槍を入れた。

「お前が言うなって」

「何ですか人聞きの悪い、私は思うだけで実行まではしませんよ!」

「スレスレじゃねえか」

また二人がやいのやいのと小競り合い始めたのを横目に、ヴァレーさんがぽつりと呟いた。

「……これほど姿を見せないとは、今どうしているのでしょうか。王朝への忠誠を失うことがあれば、きっと彼はもう——。我々はその本分を忘れてはいけないのです。あの儀式、そしてその痛みはモーグ様と我々との、絆の証なのですから」

そうしたらどうなるんですか? と僕は聞いた。

「今までにも失踪した者はおりましたが、皆行方知れずです。
初めにお伝えしていたように、王朝への忠誠も誓わないままに血の施しをのみを受けようとした卑しい者たちは皆、血が馴染まずに死んでゆきました。
私はこうして貴方たちを集めて来たるべき王朝のためにその貴い血を分け与えてはいますが、この血の力は忠誠が失われた時に、受けた者の身体に拒絶の反応を起こすのかもしれません。
ですから、私そのものへの執着は捨てるようにと、行方不明となった彼にも再三お伝えはしていたのですよ」

ヴァレーさんは調香師の彼の方を見て諭すように言った。彼もその言葉を聞いて思うところがあったのか、口論をやめて神妙な面持ちで押し黙っていた。

そのあとはすっかり行方不明の人についての話し込みモードになってしまったお三方を後目に、僕は長テーブルに向かって置かれていた食後のコーヒーをいただく事にした。

椅子に座って、すっかり冷めてしまったコーヒーに口を付ける。淹れたてよりも酸味が強くなってしまっているのか、舌先がピリリと痺れた。

「——君、それ飲めるんだね」

声がしたのでふと顔を上げると、人形師見習いの青年がぬうっと後ろに立っていた。

「わ、びっくりした」

音もなく現れた彼の近くはなんだか暗くてどんよりと湿っているようだった。ぐしゃぐしゃ頭に継ぎだらけの服、覇気のない声と、彼の纏っているこの雰囲気のせいだろうか。
そういえば、彼とは初対面以降全然話していなかったな。

「あ、まあ最初はこの味にびっくりしたけど慣れたっていうか、なんというか」

「それだめなんだよね、口の中が弾け飛びそう」

それは苦くて飲めない、と言う事だろうか。独特な表現だ。

「僕ね、死術師の末裔なんだよ」

「死術師?」

「そう、怨霊使い。家族の首を模したものを触媒にしてたんだって。でもせっかくならさ、干し首の方がずっと効果ありそうだよね。ふふ、あれって結構小さくなるから、いっぱいぶら下げられそうでしょ。あ、君こう言う話、好き?」

「興味はあるけど干し首、かあ…ホンモノ系はなぁ……」

「へえ。君、綺麗な目、してるね」

「え、目ですか?」

急に話しかけてきたかと思えば会話が上滑りにポンポンと飛んでいく。コミュニケーションを取る気があるのかないのか分からない。背はひょろっと高いから年上だろうと思っていたが、この無邪気さはもしかすると年下なのかもしれない。

「良いなあ。僕、こんな見た目だからさ」

そう言われてぐしゃぐしゃ髪の青年の顔をちら、と見ると、そこには陶器のような白い肌と不釣り合いに赤い小さな口が見えた。髪の隙間から覗いた目はガラス細工のようだった。

え、この人めちゃくちゃ綺麗な顔してるじゃん。
言葉を返そうとしたその時に、急に後ろから店主のお爺さんの声が聞こえた。

「おまえさん、また左手と右手を間違えたじゃろう。だからひとつひとつ確認しろとあれほど」

見ると、お爺さんは小さな人形を幾つか手にしていた。

そういえば、僕もこの青年に言いたい事があったんだった。さっきの奇妙なやり取りですっかり頭から吹っ飛んでしまっていた。

「あ、そうだ。さっきのお使いの時ですけどね、『ヘリオトロープ(植物)』とメモに書いてあったのに、何かの石ころが入ってましたよ。袋を渡した時にヴァレーさんが中を確認して、まあ、同じ名前ですからねと苦笑してましたけど」

青年は頭を掻きながらまたやってしまったか、という素振りをして言った。

「ああ、しまった。ヴァレーさんとこのだから血玉髄だと思い込んでたんだ。すみませんね、植物の抽出液の方を用意しておくのでまた来てくれませんか」

「おまえの移り気はどうにかならんもんか。それに、倉庫もあんなだからいかんのだ。帰ったらすぐに片付けなさい」

青年は「はあ」と気のない返事をした。僕には分かるが、あれは絶対に店のお爺さんの話は右から左だ。
そうして時間を潰しているうちに、お店の二人も帰ることになり、晩餐の会はお開きとなった。
僕も今日はひとまず爺ちゃんのところに帰ろうかな。

僕たちは皆、少しずつ分かれてお屋敷を出ることにした。いでたちの異なる人間が夜更けにぞろぞろと出歩いて、警ら隊に何かの会合かと問い質されても困るためだ。

「ヴァレーさん、今日はありがとうございました」

「いいえ、こちらこそ。辺りもすっかり暗くなりましたから、どうぞお気をつけてお帰りください」

「はい、ではまた」

そうして僕は、帰路に着いたのだった。

 

◻︎◻︎◻︎

「——仕事はどうだ、順調か」

爺ちゃんは年季の入ったロッキング・チェアーに身体を預けてパイプを燻らせるとそう言った。
僕は向かいの小さな腰掛けに座って、洋燈の灯りを頼りにぼんやりと手帳を眺めていた。

「うん、ぼちぼちだよ」

「なんの仕事なんだ。お前に務まるような仕事なんざあ、そうあるものでもないだろうに」

うーん。我が祖父でありながら酷い言い草だ。
まあしかし、僕がずっと記者の真似事のような事をしていても面倒を見続けてくれていたのだからこれぐらいの放言は甘んじて受け入れよう。
爺ちゃんにはいつも頭が上がらないし、感謝の気持ちも忘れたことはないつもりだ。

しかし、先の質問に僕は言葉を濁した。

「あー、うん。ちゃんと勤まってるよ、今のところは」

ヴァレーさんとの約束で、確か「あのお屋敷で起きた事は他言無用」なのだ。
爺ちゃんに雇用先として名前を出すぐらいは許されるだろうか?いや、ヴァレーさんが面倒ごとを避けるために外の世界と極力関わりを絶っているというのだから、やはりそれも出すべきではないだろう。

このままはぐらかし続けるのもそれはそれで難しいので、僕は小さな嘘をつくことにした。

「仕事は、庭師の見習いだよ。バラ園とか、珈琲園の整備だとか、あとは邸宅のお庭にお邪魔したり」

「ほう、庭師の見習いか。いいじゃないか。もし庭師として独立して大成できるならそりゃあ凄い事だぞ。根気と体力と知識とセンスが必要になるが、やる価値は十分にあるだろうさ。投げ出すなよ」

爺ちゃんはめちゃくちゃご機嫌になった。
僕の良心はまたチクチクと痛んだ。

というのも、爺ちゃんは僕のオカルト趣味を大層よく思っていない。よく思っていないどころか、むしろ嫌っている。

どうして爺ちゃんはオカルト趣味を嫌っているのか、それはひい爺ちゃんのせいだろう。いつも空想・妄想を追い求めて世界中を飛び回り、家庭を顧みなかった。その内にひい婆ちゃんも流行り病に倒れ、小さな土地を持っている叔母さんのところ預けられることになった爺ちゃんはそこそこ苦労をしたそうだ。

僕の父母は僕が7歳くらいの時、旅先の落盤事故で亡くなってしまった。
ひい爺ちゃんがふらりと帰ってきたのはそんな折だった。歳は60ほどにはなっていたのだろうか。
爺ちゃんは仕事で忙しかったし、そんな僕の遊び相手になってくれたのがひい爺ちゃんだった。
ひい爺ちゃんは、世界中を回って集めた怪異の話をそれはもう楽しそうに色々と聞かせてくれた。
寂しかった僕にとっても、その怪異冒険譚は本当に面白くて、ワクワクドキドキハラハラの連続ですっかりハマってしまった。
そうしてそのうちに僕も、ひい爺ちゃんの真似事をして怪異譚やオカルト話に夢中になっていったのだ。

爺ちゃんはそんな生産性のない事はやめろと釘を刺してはきたが、僕のことを構ってやれない負い目もあったのだろう、基本的には好きにさせてくれていたのだった。

手帳に目を落としながらぼやぼやと昔の思い出に想いを馳せていると、ぽつりと爺ちゃんが口を開いた。

「——怪物や怪奇現象やなんだは好きにすれば良いが、お前、悪魔とだけは関わるんじゃないぞ」