個人授業Ⅰ,Ⅱ - 1/2

 

僕は一心不乱に腕を動かしていた。目の前には柔らかな曲線。光の反射と影を、目の前のキャンバスに写し取る。右足を半歩踏み出し、片側に体重を乗せた姿。そして腰への添えられた手が、憂いのあるポージングに命を与えていた。
もっと、もっと描いていたい——。そう思ったのも束の間、無情にも大鐘楼から鐘の音が響き渡る。
一種陶酔的な没入感は、その瞬間に終わりを告げた。
「——お疲れ様でした。どうぞこちらへ」
部屋の中心で群衆の視線をほしいままにしていた肢体の持ち主は、その声を合図に息を吹き込まれたかのように身体に血を通わせ、差し出されたシルクのガウンに肌を包み隠して台を降りた。
僕は魔法が解けてしまった、と思った。目の前には美を写し取ろうとした無様な葛藤が、黒鉛の粒子の軌跡に乗せて浮かび上がっている。静まり返っていた空間はざわめきに包まれ、神秘的だったモデルまでもが、今やただの人となって談笑をしている。
僕は必要なものをカバンに詰め込むと、誰の目にも付かぬよう教室を後にした。

大学での生活は思ったよりも単調だ。平凡な学生時代を送ってきた僕が憧れの美大生になったからといって、何が変わる訳でもない。煩わしい校則はなく、大人の目も注がれない。そうした意味では自由なのかもしれないが、だからといって無理に違う自分になれる訳でもない。
本当は、今よりも刺激に満ちた生活に、少し期待していたけれど。
——ふと、先ほどの授業を思い出す。
デッサンの被写体であるヌードモデルの人物。彼らはごくプライベートな人にしか見せないであろう「生まれたままの姿」を、僕ら有象無象の学生に惜しげもなく提供してくれる。僕が今まで目にしたモデルは、大抵が少し先輩にあたる同世代だった。だが、先ほどの男性は珍しいことに、一回り以上は歳上であろう年齢のモデルだった。とは言っても、モデル慣れはしているのだろう。彼の身体は素描の邪魔にならないようにと、きっちりと手入れが行き届いていた。余計な体毛などは綺麗に処理され、体型もそれなりに節制されている。適度に脂肪がついた肌は引き締まっているとまでは言えないが、それが彼の年代の、男の身体としてのリアルさを如実に示していた。髪は肩ほどまでの僅かに白髪の混じるそれを後ろで束ね、穏やかでありながらも精悍な顔立ちの口元には、やや不釣り合いな無精髭が覗いていた。
彼はいったい、どんな人物なのだろう? あの場では、いつもと違う自分を演じているのだろうか。僕は授業の回数を重ねるにつれ、次第に彼に魅了されていった。それは決して邪な感情ではなかったのだが、デッサンの授業が来る度に僕の心は高鳴った。それは被写体としての彼の美しさに触れる、視覚的な興奮だったのだろう。
しなやかに片足へと預けられた重み、柔らかな腰へと添えられる手。下腹や下肢に見える、皮膚と脂肪の弛み。気怠げな表情と、醸し出される憂いのある雰囲気——。それはどこか、退廃的な美を僕に感じさせていた。
彼は講義の終了の合図と共に手早くガウンを羽織って肌を隠すと、講師らと談笑したのちに、着替え用のブースへと消えていく。僕はつい耳をそばだてながら、毎度その横を通り過ぎた。
彼もまた、芸術界に属する人物なのだろうか? モデルといっても、ヌードモデルは得体の知れぬ人物が誰でも出来るというものではない。OGやOBに声が掛かることが殆どで、大半のモデルがこうした特殊な空間を知っている人たちだった。
凡庸な大学生活の中に突如として現れた、密やかな高揚。あの男性モデルに募る興味は増すばかりだった。移ろう思考に埋められるがまま、教室を出た僕はあてどなく構内を歩き回る。次第に足は人気のない場所を求めて、西講義棟別館の裏庭へと吸い寄せられるように向かっていった。

昼間でも日差しが遮られるほどの鬱蒼とした木陰を行くと、その中心に小さな広場がある。ここは別館の裏庭で、昼間でも薄暗く、ひんやりとしていた。中心には小さな噴水があり、白亜の彫像が建てられている。
僕は近くのベンチに、軽く腰を落ち着けた。ここは誰に邪魔される事もない、お気に入りの休憩場所だ。まあ、もう少し季節が巡れば山ほどの虫が幅を利かせるようになってしまうのだが。
噴水の中心に立つ彫像には、銘が刻まれていた。毎度暇つぶしのために訪れるこの場所で、僕は幾度となく頭の中でそれを読み上げていた。

『モーグとミケラ』

——そう、この大学の創始者でもあるモーグ氏は、国民であれば誰もが知っている資産家だ。後ほど彼は政府の王族、その公表されていない隠し子ではないかとスキャンダラスに報じられたが、当時の彼が疑惑に応えることはなく。何処かから規制が掛かったのだろうか。いつしか疑惑はぱったりと報道されなくなってしまった。銘に刻まれた制作者を見るに、この白亜の像はモーグ氏が著名な彫刻家に彫らせたものらしい。彼が王族の縁者なのだろうとの先入観があるからか。彼のポーズや装束には、溢れんばかりの豪奢で絢爛な意匠が見えた。そして、その大きな肩の上には、長髪を靡かせた可憐な子どもが愛くるしく収まっていた。
この国には、幾つかの信仰がある。その潮流の大元は言わずと知れた黄金樹信仰。そして、そこからいくつかの宗派に分かれた派閥が、それぞれの信者たちによって支えられている。
とある守護天使を崇める一派の者たちは、その守護天使の名から『ミケラ派』と呼ばれていた。
モーグ氏の像の上、肩の上に収まっている可憐な子どものモチーフは、その守護天使である『ミケラ』に相違ない。偉大なる母マリカからあまりの美しさに寵愛された黄金の子、ミケラ。だが、彼はある日を境に行方知れずになってしまった。その誘拐事件は過去何十年にも渡り、未解決事件として世間を賑わせた。その度に色々な説が取り沙汰されたのだが、未だ真相は闇の中であるという。そしてミケラの姿がメディアに取り上げられる度に、彼を信奉する熱狂的な者が増えていった。そうした者たちが、今日の『ミケラ派』の元となったそうだ。先の像にあしらわれているモチーフから、意外やモーグ氏はミケラ派の信奉者であるらしい。
季節は初夏。ぐるぐると巡る頭を空っぽにして空を見上げていると、心地よい風が肌を撫ぜていく。
目を移した少し先には、小さな建物が見えた。
それもまた、モーグ氏に縁のあるもの。大学の敷地内に設立された、私設美術館だ。一般にも広く公開されているが、ここの学生であれば通年無料で入館ができる。しかし、古めかしく代わり映えのしない展示は四月には多少の賑わいを見せるものの、一度見れば十分といった内容で、今はすっかりなりを潜めていた。そういえば、この建物には学生用の医務室も併設されているらしい。どちらかといえば、その方が学生にとっては有益な施設だろう。だが、場所が場所なのか。かなりの時間をここで潰している僕でさえ、医療目的でもあの建物を訪れる学生を目にした事はない。
——次の授業は休講だった。やりかけの制作に手を出しても良かったが、今はそんな気分でもない。だが、じりじりと日は登り、日陰が失われていく。いつしか、風もぱたりと止まってしまった。汗ばむ額を拭った僕は思いつきから、目の前の美術館で涼を取ることにした。

私設美術館に辿り着くと、入場用のゲートに生徒証を翳す。小さな電子音とともにゲートが開いた。薄暗い展示室の内部は温度と湿度が管理されているのだろう。ひんやりとした空気が、汗ばむ肌に心地良い。
僕がここを訪れるのは入学以来の二度目だ。だが、やはり展示されているものに変わりはなかった。資産家の私設美術館というと期待値が上がるものだが、ここに置かれているのは近現代的な価値のある美術品などではない。学生があまり寄り付かない理由としては、ここの展示物のある種の異質さも関係しているのだろう。
中に展示されているのは壺や祭具、古代の王朝の礼服や、それを模したレプリカなど。
それだけなら当たり障りのないものなのだが、供犠や祭祀の遺物——。中には血に染められて黒く固まった布や、錆びた武具、肉塊の収められているという壺、切り落とされ、繋がれた多数の干し指といった、背筋が寒くなるようなものも多数展示されていた。
その中の、奥まった展示室の一角。ひときわ来訪者の目を引くのは、薔薇の花束を模した精巧な銀細工の鎚だった。それは部屋の中央、ガラスケースの中に、まるで花束を活けるように丁寧に飾られ、収められていた。ここを初めて訪れた時にも同じ感想を抱いたのだが、この薔薇の花束は大変美しく、美術品と呼ぶに相応しい。
僕はそのショーケースに吸い寄せられるように近付くと、キャプションのプレートに目を落として頭の中で読み上げた。

〝 血を捧げるために用いられた、純血の王朝の象徴的な祭具。薄刃の花弁は鋭くも、されど致命傷は与えられぬ。それを振るう者は、贄の血を奪い続けるために艶やかに舞う。真紅の血に咲き誇る美しき薔薇を模した、見事な工芸品 〟

美しいものには棘がある——、か。そんな事を思っていると、声が響いた。
「それ、気になりますか?」
「え、うわぁっ!?」
すっかり気を抜いていた僕はびくりと跳ねた。声の方を振り向くと、白衣の男性が壁にもたれかかってこちらを見ている。同時に、僕はこの館内に併設されている医務室の存在を思い出していた。
「驚かせてしまいましたね。どうぞ、ごゆっくりお楽しみください。私はヴァレー、ここの校医です」
校医と称した彼は、軽く手をひらめかせて言った。薄暗い通路から、向かう姿が鮮明になるにつれて——僕は再び、あっと声を上げた。
その姿は、僕にとっては見間違えようもない。まさかとは思ったが、目の前の人物はあのヌードモデルの男性、その人だったからだ。
「おや? 貴方は確か——」
僕の声とほぼ同時に、彼も目を丸くする。間近で見る姿に、ぐっと喉が詰まった。
こうして彼と面と向かうのなど初めての事だ。まさかの遭遇に、興奮と動揺で全身が総毛立つ。僕はしどろもどろになりながらも、視線と向き合った。そして、その時に——彼の目元、淡く金色に染まる瞳を縁取る睫毛の全ての色が、白く抜けている事に気が付いた。それはとても美しく、先ほどまでの焦燥と時間を取り残したままで、ふと見入ってしまう。
今までモデルとして彼を注視していたのに、なぜこのような特徴に気付かなかったのだろう——? 僕はどうにか思考を戻すと、先の問いに答えなければと口を開いた。
「え……と……! あの、いつも授業でお世話になっています! いや、まさか校医の先生がデッサンのモデルをされていたとは思わなくて……」
僕の言葉に、彼もどこか困ったような笑みを交えて言う。
「ふふ、そうでしょう。貴方も、もっと若くて描きがいのあるモデルが良かったのではないですか?」
「え? い、いえ! そんな事はありませんよ!! えと、ヴァレー……先生のポージングは、あの、何というかとてもお綺麗で。いや、ポーズだけではないんですけど……!! 僕が今まで見てきたモデルの中でも、非常にフォトジェニックと言いますか……。とにかく、僕はいつも授業の時間が足りないと感じているくらいで」
僕が一息に捲し立てた後、先生は再び目を丸くした。白いがためにより強調された睫毛が、目元を縁取って数度瞬く。互いの間には、僅かな沈黙が流れていた。
——いや、それもそうだろう。先の言葉は全て本心だったが、同性の、しかも遥か歳下の学生に裸をベタ褒めされたところで返答に困ってしまう筈だ。言い終えた僕がしまったとばかりに目線を彷徨わせていると、再び彼の口が開いた。
「……それほどしっかりと見ていただけたのなら、引き受けた甲斐があったでしょうか。
全く、あの人は押しが強いもので。初めは無理だとお断りしたのですが」
その言葉に、僕は顔を上げる。目元だけではあったが、それは柔和に微笑んでいるように見えた。
今の話だと、元々モデルをするつもりはなかったという事だろうか?
——授業で、脳内に焼き付けるほどに見た身体。隅々まで綺麗に手入れされていた裸体が、ふと脳裏に浮かぶ。僕はその光景をどうにか振り払おうとした。今の彼は、白衣にきっちりと身を覆い隠されている。見える素肌といえば、顔と手くらいなものだ。それを想像ではなく、頭の中で容易に暴くことのできてしまう奇妙な関係性に、耳が熱くなる。
「え……と、それは、デッサンの講師の事ですか?」
僕は昂ぶる感情を努めて表に出さないように、そう尋ねた。
「ええ。どうしてもと。どうやら、以前のモデルと音信不通になってしまったそうです。そこで、何故私のような校医に目を付けたのかは全く理解が及びませんが。何より、こうして顔を合わせた時にお互いに気まずいでしょう? ——ねえ、貴方」
先生は眉尻を下げると、困ったような顔でため息をついた。それは彼にとって何のことはない仕草だったのだろう。だが、先ほどから彼の視線、目元の美しい造形、胸の奥を掻き乱されるような光景の数々に——僕はすっかりと飲まれてしまっていた。
「い、いえ、そんな事、全く気にしていませんよ!」
「ウフフフフッ。そうでしたか。ならば、私の思い過ごしだったかもしれませんね」
その低音もまた、耳に心地良く柔らかく響く。視覚的なイメージだけではない。余韻を残すざらついた声もまた、僕の感覚を強く揺さぶるものだった。

それから僕は、構内でヴァレー先生を見かけるようになった。といっても、今まで喧騒に紛れてしまっていた彼をいち個人だと認識した、ただそれだけなのだが。
長髪を無造作に後ろに束ねた白衣の姿。気怠そうな目元に、無精髭の残る口元。一見して校医には見えず、はたまた実験棟にでも篭っていそうな雰囲気だ。もしくは、病理や解剖医の類だろうか。勿論、ここは美大であるからしてそのような学部など存在しないのだが。先生の姿から想起されるあれこれについて、僕は湧き上がるイメージを止められなかった。

あれから日は経ち、僕は迫る課題に追われていた。ペースは悪く、通常の時間だけでは到底間に合わない。連日のように警備室に出向いては、寝泊まりの許可を貰う始末だった。
そんなある日の夜更けの事。もはや制作にも行き詰まり、椅子の上で凝り固まった身体を伸ばすだけとなっていた。ならばいっそ、息抜きでもしようかと筆を置いて立ち上がる。
暗くなった教室には、いつか誰かが製作した奇妙な彫像やデッサン用の石膏人形などがあちらこちらに転がっている。そうしたものが何かの刺激になるだろうかと——奇妙な想像に身を置きながら、僕は構内をうろつき回った。
しばらく行くと——長い廊下の向こうに、細く漏れる光が目に入った。あれは、デッサンの教室だ。こんな時間に、誰かいるのだろうか? ここが油彩や彫塑の部屋であれば、僕のような居残り学生に違いない。だが、デッサン室に人が居るというのはかなり珍しい。あの部屋はもっぱら、授業以外の目的で使われる事などないからだ。無視して通り過ぎても良かったのだが、その時の僕は不気味な妄想を楽しみながらそぞろ歩きをしていた事もあり。好奇心に導かれて、中を覗き見ることにした。
デッサン室には二重鍵が備えられ、電動のブラインドスクリーンが掛かる仕組みになっている。そこから更に天鵞絨の鈍重なカーテンを引く事で、モデルたちのプライバシーが守られるという訳だ。だが、部屋の隙間より漏れ出る光を見るに、今掛けられているのは天鵞絨のカーテンだけのように見えた。
一体、誰が部屋の中に? カーテンの隙間から、僕はそっと身を乗り出した。すると、見えたのは人の後ろ姿——。だが、何のことはない。それは、いつもの講師だった。なんだ、やはりそうかと、特に面白味のない答えに僕は落胆する。しかし、そこで一つの疑問が湧いた。彼はどうしてこんな時間まで居残りをしているのだろう? 今は製作などの試験期間中。授業の準備は、当分必要ない筈だ。
もう少し角度を変えて覗いてみると、どうやら講師は何かを対象に絵を描いているようだった。頭や手の動かし方から、目線の先に静物か何らかのモデルがあると見える。彼も余暇時間を使って、自らの制作をしているらしい。僕はその絵を覗いてみようと、更なるカーテンの隙間を探すことにした。腰をかがめて移動すると、カーテンの端がイーゼルに引っかかり、やや大きな隙間が空いていそうな場所が見つかる。こちら側は暗いから、覗き見がバレる恐れはないだろう。
そうして、僕はカーテンの隙間から講師の視線の先——モデルとして描かれている「それ」を見た。置かれていたのは、普段は教室の奥にしまわれている、中世的な細工の施されたカウチソファ。そこから垂れ落ちるように、真紅の布が敷かれている。その中心で、ソファにしっとりと身体を預けている人影があった。その姿は、キャンバスに描かれているものと同じく、服を着ていない。つまり、講師が描いていたのは裸婦画だったのだ。否、その表現は正確ではない。カウチソファにしなだれ、横たわるモデルの人物も、照明の下ではっきりと見て取れた。
それはまたもや、あの校医の先生だったのだ。
僕ははっと息を呑んだ。どうして、また彼が?
その光景から目が離せぬまま、息を殺して二人を見つめる。
それから、どれくらいの時間が経っただろう。実際のところ、そう長い時間ではなかったのかもしれない。ついに講師が一息をつき、イーゼルに筆を置いた。そうして、カウチに横たわる先生に向けて話しかける。ヴァレー先生も、モデルとしての役割の終わりに上体を起こす。そして、サイドテーブルに掛けてあったガウンを羽織ると——ソファの上で談笑をした。しばらくして講師が立ち上がり片付けを始めると、ヴァレー先生は羽織っていたものをするりと脱ぎ捨てる。
僕はその光景に、またどきりとした。
通常、ヴァレー先生はモデルとしての裸体を披露しておきながらも、授業の終わりには必ず着替えのブースを利用していた。それは彼なりの、公私の区別の付け方だったのかもしれない。だが、今はさもそうする事が当然だと言わんばかりに無防備な裸体を晒したのだ。それはつまり、今あるのはモデルとしてのそれではなく、プライベートな彼の身体という事。その途端、この光景が見てはいけないもののように感じられて、心臓は早鐘を打ち始めた。
そんな事は知らぬとばかりに彼は着替えを淡々と済ませると、いつもの白衣を身に纏う。そうして、まだ後片付けをしていた講師に声を掛けて教室を後にした。
講師もしばらくするとキャンバスに布を被せ、デッサン室の片隅に仕舞い込む。
そうして、無人となった部屋の照明は落とされた。

あれからというもの、あの日の光景は僕の頭に鮮烈に焼き付いて離れなかった。
デッサンの授業では、ようやく正規のバイトが決まったようだ。あれほど待ち遠しかった授業の時間、今目の前にいるモデルはここの卒業生だという。僕たちと、そう歳は変わらないのだろう。ポーズにもピリッとした瑞々しさや、溢れんばかりの躍動感がある。だが、僕の頭は上の空だった。あの日、カウチソファに敷かれたシルクの真っ赤な布の上——肘掛けに寄りかかるように、身体を横たえる姿。僕があの光景を裸婦画と形容したのは、あながち間違いではない。彼の纏っていた空気は気怠げな艶めかしさを孕み、毒々しくも妖しく、あまりにも美しく見えたからだ。授業のモデルが足りないだけならば、あんな夜更けにわざわざ講師に付き合う必要などないだろう。彼の個人的なモデルになるなんて、講師と先生の間には、一体どんな関係が? 僕はその事実に羨ましいという感情を超え、嫉妬心すら抱き始めていた。
コツコツと、足音が近くに迫る。その音にはっと意識を戻す。目の前の授業から気を逸らしすぎたのだろう。僕は思い出したかのように顔を上げると、先ほどまでの空白を誤魔化すように腕を動かした。そこから先は、無味乾燥な時間が流れていった。
何度も欠伸を噛み殺し目の端に滲む涙を拭っては、時計に目を遣る。
授業の時間はまだ、たっぷりと残されていた。

僕は足しげく、あの場所に通い詰めていた。目的はもちろん 校医の彼に会い、彼と話す事。ただそれだけだ。
「——貴方が来てくれて光栄ですよ。ここにはあまり人が来ず、退屈していましたから」
ヴァレー先生はいつも、インスタントのコーヒーで出迎えてくれる。僕はお礼と共に紙コップを受け取った。自らは好んで飲まない無糖のそれが、今では少し特別だった。
「先生は、いつからここに?」
「まだ赴任したばかりですよ。今年で二年目です」
「そうなんですか。てっきり、もう長いのかと」
「ふふ。無駄に歳だけは重ねていますからね。まさか医師として、この歳で校医をするとは思いもよりませんでしたが」
「すると、以前は何処かの病院にお勤めされていたのですか?」
「ええ、まあ」
彼は言葉を切ると、手元のコーヒーを口に運ぶ。
そこで、話題はひとつ途切れてしまった。だが、ここでの会話はいつもこうしたものだ。別段気まずいという事もないが、僕は次の話題を探していた。あの講師との関係を尋ねる機会は無いだろうかと、頭の片隅で密かにうかがっていたのだ。あの日、デッサン室の中で——例えば不適切な関係だとかが何もないことは、実際に見て知っていた。だが、それはあくまでもあの光景の中だけの事だ。そこで、何も知らぬふりをして彼に尋ねる事で——あの逢瀬が隠したい事なのか、そうでないのかを確かめてみたかったのだ。会話の途切れた今が好機だろうか? そう思い、僕は意を決して口を開いた。
「そういえば、ヴァレー先生に聞きたい事があるのですが。……あの講師とは、授業とは別に個人的なモデルの依頼も引き受けているのですか? 実は、先生をモデルに描いたような作品を、いくつか見かけまして」
すると、先生は少し眉を顰めて、こう言った。
「おや。彼は未完成品を他人に見せることはしない筈ですが……。さては貴方、勝手に見たのでしょう」
「——え、いや、それは、なんと言うか……」
「ウフフフフッ、冗談ですよ。どうでしたか? よく描けていましたか?」
一瞬にして肝を冷やした僕は、その言葉にただ頷く事しかできなかった。覗き見をしたなどとは、口が裂けても言えなかったからだ。だが、先生の様子を見るに、今のはどうやら揶揄われただけなのかもしれない。僕は内心で、ふうと安堵の息をついた。
続く話によると、直接モデルになるようにと言われたのはごく最近の事だという。
「——この美術館を御覧になられても分かるように、学長は美術品の愛好家でもあります。私は学長を敬愛しておりますから。自らも、そうあるべきかと思いましてね。しかし、モデルの話を聞いた時には、流石に戸惑いました。まあ、今は慣れたものですが」
「そう——だったのですね」
という事は、だ。僕は今の言葉を反芻していた。——今は慣れたもの——ならば、先生はヌードモデルに対してもはや抵抗を感じていないのだろうか? ならば、チャンスかもしれない。というか、今を逃すと二度とこんな話をする機会はやってこないだろう。僕は勢いと共に、こう切り出していた。
「……あの、ヴァレー先生。実は僕も、あなたをモデルに絵を描いてみたいのですが……!」
「おやおや。貴方まで、この私に? 他にもっと、適任が居るでしょう」
「ダメですか? 僕はヴァレー先生が良いんです。僕の作品には、どうしてもあなたのような男性のモデルが必要なんですよ。授業で見ていた時から、描きたい絵の構想がずっとあって——」
言葉のひとつひとつに熱が篭る。勢いづいて立ちあがろうとした、その時に——。
僕の耳に、くすくすと笑う音が響いた。
「ふふ、すみません。いえ、決して貴方の話が可笑しかった訳ではないのですよ。……その話、ここに来て聞くのが二度目だったものですから」
「え、それは——」
「ええ。つい最近、全く同じ事を言われました。これは、貴方たち画家の口説き文句なのでしょうか?」
「い、いえ、あの、そんなつもりじゃ……!」
狼狽えて手を振る僕を前に、ヴァレー先生の目がゆっくりと弧を描いていく。
「……この私、ヴァレーを貴方のモデルに選んでいただけるとは、光栄です。慎んでお受けいたしましょう。先も申しましたが——敬愛する学長も常々、『美を愛するよう』にと仰っておりましたから」
そう言い終えると、ヴァレー先生はどこか夢想するように目線を空に漂わせた。
「そういえば、先ほどのお話から気になっていたのですが。その……ヴァレー先生は、モーグ学長とお知り合いなのですか?」
モーグ、と名を出した瞬間。彼は今まで見せた事のない、恥じらうような、はにかむような顔を見せた。先ほどまでの夢想するような雰囲気も相まって、突然の表情の変化に胸がざわめく。先ほどまでとは異なる口ぶりで、ヴァレー先生はこう答えた。
「……いえ、知り合い——などとは畏れ多い。前の病院で、手術の担当をいたしまして……」
「へえ……! モーグ学長はヴァレー先生の患者さんだったのですか?」
「ええ。その時は、ですが。そして、医師として関わる中で色々とお話を伺う機会があったのです。もちろん、私などがおいそれとお近づきになれる方ではありませんが……」
確かに、表向きには隠されているが、モーグ氏が王族の関係者であるということは国民の誰もが知るところである。先生は、どこか恍惚とした面持ちで話を続けた。
「……対話を通じて、私はいたく感銘を受けたのですよ。その理念に、深く賛同いたしました。そして、モーグ様が退院された時、彼の元で献身しようと、そう決めたのです」
「それが、こちらに来た経緯だったんですね」
薄金の瞳がすうと落とされる。それを縁取る白い睫毛が、ふわりと揺れた。
「あの、そうまでして先生が感銘を受けた事って……?」
「——それは、まだ秘密です」
先ほどまではにかみながら思い出話に浸っていた先生の口調が、一転して僅かな冷たさと鋭さを帯びる。
「……ですが、貴方にもお話しできる時が来れば良いですね」
僕はその瞬間に、抜けない棘を突き刺されたような気がした。話の中で、先生は学長の事を『モーグ様』と呼んだ。あの講師なんかよりももっと、ずっと——ヴァレー先生は、モーグ学長と深い関係にあるのだろう。
ヴァレー先生の医務室。この場所から、唯一見える展示物がある。それは、ガラスケースに入れられて、スポットライトの当てられた、あの美しい薔薇の祭具だった。
——あの講師は、僕よりも先に先生の『秘密』を知っているのだろうか?

それから、ヴァレー先生をモデルに描く日々が始まった。やはり、初めて彼を描いたあの日からずっと、被写体としての魅力を感じていたのだろう。描く絵に没頭し、彼の事だけを見ているうちに——その全てを知りたい、独占したいと思うほどに想いは強く、彼にのめり込んでいった。制作の大半は、この医務室横にある事務所兼小部屋で行われた。だが、普段はほとんど人が訪れないというのに、制作中に限って怪我をしたり、気分が悪いといった学生が訪れ、作業が中断されてしまう。その度に、僕は焦燥感を募らせていった。
そしてある日の事。モデルの時間を終えた先生に向けて、僕はこう提案した。しばらくは制作の時間を、僕の下宿先に移してもらえないだろうかと。先生は少し考えていたが、予定を確認するといくつか非番となる日を提案してくれた。
ついに僕は、自宅でヴァレー先生を独占する日を手に入れたのだ。
その事実にひっそりと喜びを噛み締めていると——徐にヴァレー先生が口を開き、ひとつの事実を僕に告げた。
あの講師も、また先生をモデルに絵を描こうとしているのだと。
その話を聞き終わらないうちに僕の身体の奥底から嫌悪の情が湧き上がり、全身が総毛立っては「嫌だ!」と声にならない声で叫んでいた。僕にはもう、分かっていた。あの講師は、僕と同類なのだ。間違いない、ヴァレー先生に、特別な感情を抱いているに違いない。そして更に——モデルを口実にして、よからぬ事を考えているのだろう。
絶対に、あいつにだけは渡すものかという激情に僕は飲み込まれていた。この時の感情を隠さずに言うならば、僕はひと回り以上歳上の彼に、性的対象としての下心と魅力を強く抱いてしまっていた。美の被写体として彼を見続けるうちに——溢れんばかりの劣情は、いつしか澱んだ欲望へと変貌を遂げてしまったのだ。
「——貴方、どうかしましたか?」
先生は椅子の背もたれに腕を掛け、上体を預けていた。羽織ったガウンの隙間から、やや褐色の肌が覗いていた。差し入れたペットボトルに手を伸ばすと、口元へと傾ける。ボトルの表面を覆っていた水滴が滴り落ちては、先生の肌をつうと濡らす。
「先生、あの講師とは……何もないんですよね?」
「何も……とは、どういう意味でしょうか」
扇情的で危うい光景から咄嗟に目を逸らした僕は、想いを堪えきれずに尋ねる。じりじりと脳の奥が痺れ、感情の逃げ場がなくなっていく。
──薄金の瞳。瞬きと共に揺れる睫毛。蠱惑的に誘う笑みが、その先の言葉を促した。
「ねえ、先生。気持ち良い事、好き?」
「……嫌いな人を探す方が難しいのでは?」