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若い密使は任務を終えると、腐敗の祭具を手に円卓内の聖堂へと向かっていた。
傷の男はまだ姿を見せておらず、小瓶にも特段目立った動きはない。
男が連絡を寄越さなくとも、不測の事態があればそれが知らせる筈だった。

若い密使も幾度か合図を送ってはいたが、未だ返答はない。
暗部の長も言う通り、あの男の戦力を失う事は今の状況としてかなりの痛手となるだろう。
若い密使は手に入れたばかりの祭具を強く握り込むと、聖堂深くへと足を早めた。

暗部らが集った地下聖堂。その場所は今や、死んだように静まり返っている。
クレプスは一人、その場所で若い密使の帰還を待っていた。石造りの聖堂内に反響し、大気を震わせる音の気配に耳を澄ます。
数瞬の後、姿を現した男が手にしている短剣を目にしたクレプスは、安堵の溜息をついた。そして感嘆の声を上げ、彼を出迎えた。

「——早かったな。よく戻ってくれた。それが、例の短剣か?」

その問い掛けに若い密使は頷き、異教の祭具を差し出した。
クレプスはそれを受け取った瞬間、短剣から発せられる内なる力に、ぞくりと気圧された。全身をざわめかせ、平伏せざるを得ぬような肌の粟立つ感覚が身体を包み込む。
その僅かな時間のうちに、そこに抗いきれぬ畏怖の念すら抱いてしまっていた。無論、異端を賛美するなどというつもりは毛頭ない。だが、祭具から伝わる澱みには、禍々しい原初の力とでもいうべきものがはっきりと感じられた。
その鮮烈な体感に、クレプスは息をするのも忘れてしまっていた。
動悸と共に再び空気を吸い込むと、彼はこう思った。

——この力を使えば腐敗の膏薬を塗り込めたボルトで与え続けてきた苦しみと同様、導きを外れた者たちに終わりなき後悔と死を与える事が出来る。

二本指の教えに背く者、堕教の徒へと抱いた嫌悪はいつしか憎悪へと変わり、彼らを断罪する事が自らの信仰を、より強固にする手段となった。だが、信仰に追い縋れば縋るほど、かつて自らが犯した過ちに苛まれずにはいられなかった。

若い密使が語った、あの出来事。それが、心の奥底に封じ込めてきた罪を甦らせていた。
クレプスは込み上げる感情を押し留めると平静を装い、再び若い密使に声を掛ける。

「……敵との接触や、負傷などはなかったか?」

「ええ、幸いなことに。あの城にはもう、殆ど誰も残っていませんでした」

「そうか、無事でよかった。……君も気付いているだろうが、顔に傷のある同志の彼であるが……ここしばらくは行方が知れていない。裏切りや死があれば小瓶が知らせるだろう。だが、その気配は無く、合図にも未だ返答はない。考えられる事としては好戦的な彼の事、単独で赤目を追っているのかもしれぬ。私もまた、別の筋から奴らの情報を得た。この短剣と共に、今から目的の場所へと向かうつもりだ」

「では、直ぐに立たれるのですか? 私にも何か出来る事は……」

「君はこの場所に留まり、小瓶の合図を見逃さないようにしていてくれ。変化があれば、直ちに応じるように」

「……差し出がましいようですが、護衛として私もご一緒に——」

「いいや、私に万一の事があった時、この円卓が狙われる事だけは避けねばなるまい。その時には、暗部の意志を継ぐ者が必要だ。王となる褪せ人は、いずれ必ず現れる。それは我ら二本指に仕える者の使命であり、悲願なのだ。無論、私とて無駄死にするつもりはない。君のもたらした短剣があれば、十分に勝機はあるだろうからな」

「私が円卓の守護を? そんな、大それた……」

その言葉を制するよう、暗部の長は掌を若い密使へと向けた。突然の重責に狼狽えながらも従おうとする曇りなき瞳が見据えていた。だが、クレプスにはそれが自らの過ちに蓋をし続けている心を、責め苛むように見えてしまったのだった。
勝機はあると言ったが、確証などない。戦いに身を投じる前に、この若い密使に罪を告白する事で、肩の荷を下ろそうとしているのだろうか? この告白は、目の前の彼にとって快いものではない。むしろ、不快ですらあるだろう。

しかし、自らが楽になりたい。今はそれだけが、悔悟の告白に至ろうとする情念を突き動かしていた。
かつて教会の懺悔室で聞いた不義、姦淫、殺人。あれらは全て、赦されたのだろうか? 神の御名の元に、すべての罪は清められたのだろうか?
灰色の瞳は光を宿さず、重く沈んでいく。

その様子に、若い密使はただならぬ気配を感じていた。そして、どうされたのですかと疑問を差し挟もうとする間もなく。
ゆっくりと、だが重々しい口調で暗部の長は話し始めたのだった。

「……君の話を聞いてから……私はずっと、自責の念に駆られていた。以前君は、この地を訪れる切っ掛けとなった出来事を語った事があっただろう。君の死の、原因となった事について。そこで何があったのかを……私は、全て知っている。それを君に伝えるべきかと、ずっと、迷いを抱えていた」

クレプスは覚悟を決めたようにすうと深く息を吸い込み、先を続けた。

「だが、今こそがその時なのかもしれない。あの時、君が私に語った、燃える教会。それは片田舎の、小さな修道院ではなかっただろうか?」

「え……ええ。何故、それを……?」

「……やはり、そうか。君も知る通り、黄金樹、ひいては二本指信仰の元——火は滅びの象徴であり、禁忌とされていた。長い歴史の中でも、教会が燃えたという例を私は他に知らない。そして、あの火を放ったのは誰あろう——この、私なのだ」

その言葉に、若い密使ははっと声を上げた。

「な……っ、どうして、あなた様ともあろう御方が、そのような禁忌を……?!」

「私はかつて、大教会に身を捧げる密使だった。小さな領境の諍いから始まった争いの種は徐々に広がり、その日を境に時代は戦の混沌へと飲まれていった。私は勅命により前線へと向かい、暗殺部隊の一員として策動していた。血で血を洗う争いは、日ごと勢いを増してゆくばかり。そして犠牲者が増えるにつれ、恐ろしい疫病が蔓延り始めた。その病に罹患した者は、赤い膿瘍に侵される。それはやがて身体中を覆い尽くし、熟し切った血膿が弾ける頃には、息も出来ぬほどの腐敗臭が立ち込める。彼らは爛れゆく身体が腐り落ちるのを眺めながら、ただ惨たらしく死を待つのみだった。医師たちも手を尽くし、原因を突き止めようと試みたが成果は出なかった。そうした戦と疫病が蔓延る混乱の中。大教会の司教様は、預言者の女から或る言を受け取られたのだ。——来たる病は澱みより生まれ、恐るべき穢れを孕んでいる。預言に見えた火により、病巣を焼き尽くすように、と。病の根源は戦争で死んだ者たちの遺体。預言者の女が幻視したという病巣の中心は、片田舎の小さな修道院だった。戦の中で医療用の拠点へと変えられ、負傷兵たちの安置所となっている地下礼拝堂。そこに、火を放つようにと。それが、私に与えられた密命だった。だが、あの日放った炎の勢いは留まることなく——地上へと噴き上がり、辺り一面を焼き尽くしてしまったのだ」

「では、私が居たのはその……」

「ああ。そこに建つ、小さな教会だったのだろう」

沈黙が、辺りを包み込んでいた。今しがた告げられた事実に、若い密使は驚きを隠せなかった。だが、悲痛な面持ちで告白をする彼を目の当たりにして、その姿に同情を抱いてもいた。確かに、自らの肉体はあの火災によって滅んだ。だが、今またこうして、信仰の元で新たな役割に生を捧げることができている。それはひとえに、二本指様の導きによるものなのだろう。ならば、目の前の彼に掛けるべき言葉は糾弾や非難ではない。そう思うと、若い密使は沈黙を破った。

「……俄には信じられませんが、今のお話が事実であれば……確かに私は、あなた様と同じ土地から参ったのですね。私もかの地の大教会で研修にあたり、晴れて二本指様に忠誠を捧ぐ密偵となりました。その後、同じく前線へと向かいました。片田舎の小さな修道院。辿り着いたのは確かにその場所。前にもお伝えしたように……燃え盛る炎、そして、逃げ惑う人々。一人の老いた修道女の上に、梁が崩れ落ち——それを庇おうとしたところで、私の記憶は途絶えたのです」

「……そうか。やはり、私のせいで君は——」

「いえ……! 私は偶々、事故に遭っただけです。しかし、あの火災の裏で、そのような事が……」

若い密使は一息をつくと、再び口を開いた。

「もちろん、私には今の告白について何かを判じる立場にはありません。ですが、同じ密使としてこれだけは知っています。密命をこなさぬ密使に生はない。理由を問うことも許されません。選択肢など……無かったのでしょう。あなた様もまた、信仰によって深い業を負わされた一人なのではありませんか? それに、たとえ禁忌を犯せども——黄金樹の麓であるこの地に辿り着いたことで、既にその業は改められたのではないでしょうか」

クレプスは彼の言葉に俯いたまま、耳を傾けていた。

「そういえば……少し話は変わるのですが。つい先日、私も過去の出来事を思い出す機会があったのです。私が最後に庇ったという老齢の修道女。あの火災の前、私は彼女と世間話をしていまして……。彼女は、ある人を探していたと言いました。かつて自らの修道院から送り出した、ひとりの子。寒い冬の日、捨てられていたその子を拾い上げ、彼女は育てたのだそうです。ただ、その子が男児であったが故に修道院に留めおくことはできず、大教会へ送り出したのだと。その後、彼は晴れて医師となり、再び修道院に戻られた。ですが、戦火の只中で安置所へとすげ替えられた礼拝堂、その場所に部外者が立ち入ることは許されず、声を掛けることは叶わなかったと。彼女は一言、尋ねたかったそうです。彼を送り出して、本当に良かったのかと。偶然ですが、私はその医師に心当たりがありました。そして、その記憶を思い出すきっかけとなったのが先の任務だったのです。……私がこの地で知り合った医師がいたでしょう? 彼は目元に少し、特徴がある人でして……。まあ、互いに忘れてしまっていたので、どうということも無いのですが。あの彼もこの地に辿り着いていたとは、どこか小さな縁を感じます」

若い密使は思い出に耽るよう、一息に話し終えると顔を上げた。またあの医師に出会えたら、そして言葉を交わせたら。修道女の言葉を伝えようかと思っていたのだ。

だがクレプスに目を戻すと、彼は口元をわななかせ、何か恐ろしい亡霊でも目の当たりにしてしまったかのように青ざめた顔で、目を見開いていた。

「ク、クレプス様、どうかされましたか? どこか、具合でも——」

「いや、君は——今、何と……?」